第63話 物差し
はらはらと落ちていく涙を、ノルド様が指を伸ばして拭ってくれた。涙と共に高ぶった気持ちも少し流れて、私は呼吸を整える。
「私は……しがない屋台の売り子です。皇帝陛下になるお方にはふさわしくありません」
ともすると震えそうになる声で、ようやくそれだけ絞り出した。
「なぜだ? オレはお前がよいのだ。身分が気になるというなら貴族家の養子先などいくらでもある」
私は言葉に詰まってしまった。今の私にはノルド様に相応しい身分がない。そして、それ以上に。王太子の婚約者として、未来の王妃として失格の烙印を何重にも押された私が、皇帝陛下となるお方の傍にいるわけにはいかない。ノルド様は素晴らしい皇帝陛下になるだろう。だからこそ、その隣が私ではだめだ。ノルド様の脚を引っ張ってしまう。でも、いえない。実家が貴族であることはお話してあるけれど、それ以上は。誰にも選ばれずに、何者にもなれずに逃げてきた私をノルド様には知られたくない。皇太子だと打ち明けてくれたノルド様に比べて、私のなんて卑怯なことか。でも。傍にいられなくても、嫌われたくはないから。
「ローリ、オレが嫌いか?」
そういって真っすぐに見つめられたら、ノルド様には嘘なんてつけない。嫌いなんていえない。私は少し俯いて、首を横に振るのが精いっぱいだった。また、嗚咽がこみ上げてくる。聞かれないように、両手で必死に口もとを抑えた私を。ノルド様が抱きしめてくれた。大きくて、体温の高い体に包まれる。背中に巻き付く腕が強くて少し苦しいけれど、それがなぜか安心できた。
「ローリ、余計なことを考えるな。オレのことだけを、自分の気持ちだけを見つめろ」
耳元でノルド様の声がする。だめだ。頭がふわふわして、考えがまとまらなくなってくる。私は断らなくては。でも嫌われたくない。私がノルド様を嫌いだと誤解されたくはない。どうしよう、なんと返事をすればいいのだろう。
「ローリ、好きだ。湖で出会ってからずっと。本当は迎えなど来なければいいと思っていた。自力で戻る準備をしながら、ずっとここで、お前とオレと馬たちだけで、暮らしていけたらと思っていた」
耳元で優しい声音で囁かれる。ノルド様の胸元に触れた頬からも、声の伝道が心地よく響いて、気持ちが凪いでくる。落ち着いた声音だけれど、その胸は早鐘を打っていて、ノルド様も緊張しているのがわかった。ああ、やっぱり私はこの人が……。
「私も、好きです」
自然に口から零れていた。私を抱きしめる腕が、確かめるように一度ぎゅっと強く締め付けてきた。
「オレも好きだ。だが、オレはお前に平穏な暮らしを送らせてやることができぬかもしれぬ。お前の望まぬ貴族の息苦しい暮らしになるかもしれぬ。それでも、オレはお前を離すことはできぬ。許してくれ」
いっそ苦しそうにノルド様がいった。
「いいえ。いいえ、ノルド様。私は、私ではあなた様には釣り合いません」
「身分のことならば気にするな。実家が嫌ならば、ヴォイドでもシュヴァルツでも好きな家名を名乗ればよい」
「そうではないのです。私は……」
言い淀んだところに“ディケンズ公爵令嬢”と呼ばれて、私は息を呑んだ。ノルド様の衣装を握りしめ、二つ三つと浅い呼吸をして、心を落ち着けてから見上げた。
「すまない、お前の素性も調べた」
青紫の瞳が、いたわるように見下ろしてくる。
「では、私が家を出た理由も?」
「長年王太子の婚約者であったが、病を得て辞した、と」
「そういうことになったのですね」
ふっと、失笑してしまった。
「私は……」
もう、お話しするしかない。ノルド様がここまで心を曝け出してくれたのに、私だけ卑怯なままではいられない。
「実際には、王太子殿下が他の女性に心移りをされて、婚約解消をされた身です」
一節ずつ、言葉をつないだ。声が小さくなってしまう自分が情けない。ノルド様がわずかに頷く。ああ、そこまでご存じだったのか。この先も、包み隠さずお話しするしかない。
「そして父に、私が王妃の器ではないから招いた事態だと、王家に瑕疵をつけぬために役立てと婚約破棄を宣告された、至らぬ娘でございます」
「お前は何も悪くない」
私は小さく首をふる。ノルド様が私の頭を胸元に引き寄せた。ノルド様の衣装に涙がにじんでしまう。
「お前の国元がおかしいだけだ。イルメリアの王家も、公爵家も、誰もお前の価値を理解できなかっただけだ」
ノルド様の手がゆっくりと、背中を、髪を撫でていく。
「お前は行き倒れた男の看病をしてしまう、情の深い優しい娘だ。いつもオレに旨い料理を食べさせてくれた。馬の世話も上手で、商売の才もある」
「……そんな者は他にいくらもおりましょう」
「お前だけだ、オレが好きなのは。疑わしい者たちが現れた時に、自分が敵を引き付けると、共に逃げるといってくれる女はお前だけだ。オレの作るスープを食べて欲しいと、名を呼んで欲しいと、笑顔を見せて欲しいと思うのはお前だけだ。民を幸せにする義務があるとずっと教えられてきた。不足なく義務を果たしてきたつもりだ。でもオレは、お前だけはオレが幸せにしたいと思うのだ。義務ではなく、持てる力を利用しても最大限に与えたいと。それがオレの望みなのだ」
私は胸元から伝わるノルド様の声の響きに、体のこわばりも解けてすっかりと安心感を覚えていた。ここはあたたかい。優しい声。優しい腕。ずっとここにいたいけれど、この人は。いずれ大帝国の皇帝を継ぐ方。生国ですら王妃の器ではないといわれたこの身で、帝国から見れば鄙びた辺境国の元令嬢ごときが伴侶など。いずれ皇妃となる席を埋めることなど許されない。ノルド様が好きだ。ノルド様も好きだといってくれた。嬉しくて夢のようだ。でも、だからこそ。
「私は王妃の器ではないと、父だけでなく、生国の王妃殿下にもいわれました。母や兄には、公爵令嬢としても足りぬと、みんなが。貴族の暮らしを享受しながら結果を出せないからといって、努力する姿を免罪符にするなと。家名や養子のご配慮をいただいても、私は、爵位や家格以前に、私の」
能力が及ばないのです、という言葉は続けられなかった。口に出せない、認められない。これが私の弱さ。でも、ノルド様に迷惑はかけられない。王妃の器足りえぬ私では、ノルド様の治世で弱みにしかならない。
「ローリ、お前の話す帝国語は、とても美しい。送ってくれた手跡も美しかった。帝国の貴族の中でも指折りだ。異国の者がそれだけ身に着けるには相当な努力が必要であったろう。日頃の美しい所作も、知識も、お前はそのように努力して身に着けてきたのであろう?」
頭上から降ってくる優しい声に、私は頷いた。
「それは成果だ。身に着けた知識や技術は誰にも奪うことはできないが、手に入れるには相応の努力を支払わなければならぬ。お前はすでにやり遂げているではないか。父親や王妃など、物事が思い通りにならぬからと、その原因をお前に押し付けるような輩の言葉に惑わされるな。お前を大切にしない者たちの物差しで自分を測るな」
「私を大切にしない人達の物差し……」
「そうだ、お前は自分の物差しを持たねばならぬ。王妃の器などという言葉に騙されるな。そんなもの、王家に都合の良い女という意味でしかない」
私は、ぼんやりとノルド様を見上げていた。痛まし気に私を見る、青紫の瞳。
「悲しいことだが、世間は広い。血縁でも王族でも、お前を厭う者がいるのは仕方がない。だが、その者らの価値観でお前を量るな。ゆがんだ物差しなど振り払え。お前の価値はお前が量れ。わからぬ時はお前を大切にする者らの物差しを借りればよい。生国の愚か者どもより、お前を愛するオレの物差しを使えば、お前の本当の価値が量れよう」
「私の本当の、価値?」
「オレにいわせれば、お前は情が深く優しい性格だ。真面目で努力を厭わず、忍耐強い。異国で他人の家に暮らすことになっても、家人や使用人と良い関係築くことができる協調性や人当たりの良さもある。オレは不愛想といわれるからな、隣に人好きのするお前がいてくれたら釣り合いがよい。お前は誰よりオレの皇妃に相応しい」
優し気に微笑んで、ノルド様が私の髪にキスをした。
「お前がどうしても皇妃が嫌だというのなら、オレは皇太子を辞めてどこか遠くにいってもいい。まあ、目の色でオレの素性がばれてしまうから、多少は騒がしいこともあるだろうが宮城で暮らすよりは気楽に過ごせるはずだ」
「皇太子を辞める、ですか?」
「ああ、生まれついただけで、やりたいと思ったことはなかった。いくつかなすべきことはあるが、それが終わればあとは弟妹に任せてもいい」
「そんな、ノルド様が地位を捨てるだなんて」
ノルド様が破顔した。
「ああ、ヴォイドがな、ローリならそういうだろうからやめておけと止められているところだ」
虚をつかれて、私はすっかり呆けてしまった。
「なあ、ローリ。道はいくらもある。今ここで決める必要はないのだ。オレは、今日はお前の気持ちを聞けただけで満足だ」
そういって、ノルド様がまた私の髪にキスをした。すっかりとノルド様の腕の中に納まっている自分に改めて気がついて、私は心の中で絶叫していた。周囲に目をやると、いつもの二人の騎士様が微笑ましそうにこちらを見ていた。恥ずかしくて、穴があったら埋まってしまいたい。代わりに、ノルド様の胸元に顔を埋めることにした。しばしの、ダチョウの平和を
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