第60話  騒がしい心


「タビー、いつも馬場ばかりでごめんね。ノルド様が来てくれたら、街の外で思いっきり走れるから。もう少し待っていてね」

今日はお店がない日で、マクラウド邸の馬場でタビーと過ごしていた。鞍もつけずに、放牧場の中をまさしく飛んだり跳ねたりゴロゴロしたり。自由時間を満喫したタビーを厩舎に連れて帰るところだ。


ブフンと鼻を鳴らすタビー。返事をしてくれているみたいで、ふと笑ってしまう。

「ノルド様が来てくれたら……」

自分で繰り返して、顔に熱が集まってくるのがわかった。

「いやー、私、どんな顔をして会えばいいのか。困るよー」

立ち止まり、タビーの首に抱き着いた。馬の体温はとても高い。自分の顔の熱さもわからなくなってしまうくらいに。


先日、串焼き屋さんのおかみさんに突き付けられた言葉。

「私、ノルド様が……」

その先は、自分とタビーしかいないとわかっていても口にはできなかった。そして、その言葉を否定もできない自分がいた。


「自分でもおかしいとは思っていたんだよねえ」

私はお菓子と一緒に最初の手紙を送ったあと、なんだかんだと二通目の手紙も書いてしまっていた。でも、返事も貰っていないのに、一方通行に二通目の手紙を出すなんて日本的にいえばストーカーっぽいと思って。書くだけ書いて、送ることができないまま引き出しに仕舞いこんだ。おかみさんの衝撃発言がなければ、そのうち三通目も書いてしまっていたかもしれない。


お店が上手くいって、売り上げもどんどん増えて。おじいさまもエディさんも、メリンダさんも。私の身近な人達はみんな一緒に喜んでくれる。私もとても嬉しい。それでも私はどこか物足りなくて。いつもノルド様に報告したいと思っていた。最後に会った時、お店の話をした時は賛成してもらえなかったけど。良い報告をすればきっと、喜んでくれるだろうと思っていた。“よくやった”と、“オレの見込んだ強い女だ”といってもらえる気がしていた。そういって貰いたかった。一緒に喜んで欲しかった。私の嬉しいことをきいて貰いたかった。出せない手紙を書いてしまうほどに。


「好きになってしまったんだ」

独り言ちて、ため息がこぼれた。前世ではいろいろ精一杯で、もしかしたら実家を出た後にあったかもしれないけど。今、記憶にある限り恋というものには縁がなかった。一般的には心弾む楽しいものだと聞くけれど、今の私とは程遠い。好きと恋とは違うのかもしれない。


「タビー、私、どうしたらいいんだろう」

ゆっくりと膝を折ってくれるタビーに合わせて、芝生に腰を下ろした。お腹にもたれると、タビーが首をのばしてフンフンと匂いをかいでくる。こちらの世界では、定められた婚約者がいた。でも、殿下はエミリー様を選んで、私は婚約を解消された。婚約者だけではない。家族も。お父様もお母さまもお兄様も。それから王妃様も。王妃の器じゃない私ではなくフロレンツィアのほうがいいって。いつも、私は選ばれない。エミリー様とフロレンツィアと私。何が違うんだろう。何が足りなかったんだろう。


好きになってもらえなくても、せめて嫌われないようにって子供の頃からずっとずっと真面目に頑張るしかできなかった。でも、どんなに頑張っても、私は誰にも好かれず、選んでもらえなかった。嫌われていなかったんじゃなくて、ただ相手にされていなかった。嫌われないように控えめにしているつもりが、いつの間にか透明人間になってしまった“公爵家の長女”。


婚約者として勉強会などで城に上がると、殿下は私の前でもエミリー様と楽しそうに腕を組んで歩いていた。エミリー様だって王妃の器じゃないのは同じなのに。広い広い公爵邸にも私の身の置き所はなくて。物分かりの良さそうな顔をしながら、ただ一定の時間を過ごすだけの家族の食卓。

「だからね、捨ててきたの。お父様も、お母さまも、殿下も、王妃様も。みんな好きじゃないから捨ててこられたの。みんな、置いてタビーと逃げてきたの」


涙が溢れてくる。

「タビー、好きになった人に、好かれなかったらどうしたらいいんだろう? 今度は好きになった人を置いて逃げないといけないのかなあ」

好かれるのは、選ばれるのはいつも私じゃない。前世だって、“お母さん”は最後にはいつも“妹”の味方をして、“私”にばかり我慢をさせた。その“妹”はいつの間にか結婚して、“旦那さん”に選ばれていた。“私”は実家のお財布兼お世話係のまま逃げ出した。


世界を超えて生まれ変わっても、華やかな妹や格下の男爵令嬢に婚約者を奪われてやっぱり逃げ出して。前も今も。逃げたことに後悔はない。逃げたかったし、逃げてよかったと思う。でも。今の私にはノルド様だけじゃなくて、マクラウド家やお店や街の人も。失くしたくない大切なものがたくさんできてしまった。それはとても嬉しいことなんだけど。


湖で暮らしていた時も、この街に来た時も、何かあったらまた逃げればいいと思っていた。アイテムボックスには物資がいっぱいあるから生活に困ることはない。タビーとまた遠い街や人里離れた森の中にでも行けば何度でもやりなおせると思っていた。でも。

「タビー、私、逃げたくない」



辛いことを避けるのは簡単だった。逃げてしまえば、当たらなければどうということはないはずだった。でも、大切なものができたら、それはとても重たくて。どんなに“すばやさ”をあげてももう役に立たない。

「失くしたくない、嫌われたくない。でも、いつも、私は選ばれない……」

世間の評価はおかしい。恋というのはこんなにも恐ろしく、全然楽しくない。


ノルド様は高位貴族。今の私は、王妃の器どころかマクラウド家の居候で屋台の売り子だ。他人から見れば取るに足らなくても、私にとってはようやく得た拠り所。今手に入れられた精一杯の大切な私。それでも、男爵令嬢ですらない。

「今更だけど、ノルド様くらいの方なら立派な婚約者がいらっしゃるのじゃないかなあ」

それこそ、公爵令嬢のような。ふと、笑いがこみ上げる。意気揚々と放り投げてきた立場を、少し惜しく思うだなんて。恋というのはすごいものだ。


そしてまた、ため息がでた。わかっていたはずだ。平民と貴族の間に、付き合いなどありえない。本来、私たちの暮らしは交わらない。ノルド様がマクラウド邸に来てくれたから、その時だけ、親しくできただけ。そうだ。“また選ばれない”と思うより、“手の届かない立場の人”と思ったほうが心の平穏に良さそうだ。タビーのお腹に顔を埋めると、藁の匂いがした。タビーが首を伸ばして、鼻づらを寄せてくれる。タビーがいてくれてよかった。


「ねえタビー、“あの葡萄はきっと酸っぱい”よ」

空を仰ぐと、視界いっぱいの青。今は懐かしささえ感じるあの湖の水面のようだ。

「ノルド様のスープ、美味しかったなあ」

今思えば、なんだかんだと楽しい暮らしだった。あそこには身分も、他人の評価もなかった。あそこで過ごした日々がどれだけ特別だったのか。おかみさんのいう通りだ。はっきりさせたら、怖いばっかりだ。恋だなんて、知らなければよかった。

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