第56話 on your side
「母さん、僕は貴族になりたくない」
遠い日の私がいう。
「ハリー、奥様に感謝しなくちゃ。明日からヴォイド伯爵令息よ!」
「母さん、大きくなったらマクラウド家に養子にだしてくれるっていったのに」
「ハリー、マクラウドは屋号なの。大店だし慣例的に家名のように扱われているだけ。本当に家名を名乗れるのは貴族だけなのよ。ああ、これからはハリーではなく、ちゃんとヘンリーと呼ばなくっちゃね!」
貴族になるんだから! と、母は飛び跳ねるかというくらいにはしゃいでいた。
母と暮らす帝都の外れのヴォイド家別邸から、明日には宮城に近い貴族街にある伯爵家の帝都屋敷に移されるといわれた。母と離れて、専属の使用人がつくらしい。これまで、時々父が訪れる以外は母と二人でのんびりと暮らしていた。従弟たちとマクラウド商会で丁稚のまねごとをしたり、祖父の隠居屋に遊びにいったり。このままマクラウド家の一員になって、祖父から聞いた海のある街や国境の街まで修行や仕入れに行ったりするのだと疑ったことがなかった。
「大きくなったらどこかの店を任せてもらえるっていったら、母さん喜んでくれたじゃないか」
「ハリー、マクラウドは商会の中では大きいわ。お金だってある。でもね、所詮は平民。貴族とは違うのよ。私は旦那様のことが好きで、あなたという子供も持てた。教会には認められないけれど、幸せな結婚だと思っているから妾という立場を卑下するつもりはないわ。貴族にだって正妻になれずに妾をしている人はたくさんいる。でもね、妾同士でも、貴族と平民じゃ扱いが違う」
そう、大体のところ、貴族は妾だって貴族なのだ。下位貴族の令嬢が上位貴族家に奉公に出てお手付きとなることが多い。母は、裕福さだけならそこらの貴族など足元にも及ばない大マクラウド商会の娘。教養や立ち居振る舞いは、下位貴族の令嬢になら遜色ないお嬢様育ち。下働きなどしたことがなく、ヴォイド伯爵に懇願されて妾となった。それでも。貴族ではないから。
「ハリー、何年も着古したようなドレス姿の人達に蔑まれるのはもう耐えられないの。マクラウド商会に値引きや借金を申し込むために父様や弟にはぺこぺこ頭を下げているくせに、私のことを平民だと見下してくるのよ」
「僕がマクラウドをもっともっと大きくして、そんなことはいわせないようにするよ」
「ハリー、あなたはヴォイド伯爵令息になってくれたらいいの。彼女たち、実家が貴族だって偉ぶっていてもね、産んだ子供が旦那様にも実家にも籍を入れてもらえなければ、貴族の血を引くだけの平民のできあがりよ。領地の屋敷で使用人になるか、出自を隠して平民に使われるか」
母は見たこともない皮肉げな顔で笑った。
「でもね、あなたは違う。あなたは伯爵令息になるの。家名を持って、お城にだって上がれるのよ。誰にも平民だなんていわせないわ」
あなたのためよ、ハリー。そういって、母は泣きぬれた私を抱きしめた。大きくなったらわかるから、と。母は“半分”という言葉を知らなかったのだろう、きっと。
“母さん、僕は貴族になりたくないよ”
母にもう一度いう機会はなく、誇らしげな笑顔の母に見送られて私は帝都屋敷で暮らすようになった。私のためだと母が言ったから。さすが母の息子だと父がいうから。ヴォイド伯爵夫人に「母上と呼んでもいいわ」といわれ、私は御礼を述べた。その日から、私は伯爵令息として生きることになった。
母とは年に数回、別邸で会わせてもらうことはできたけれど。それは伯爵令息としての立派な姿を見せるための報告会で、私が会いたい母は、「ハリー」と呼んで、いつか行きたい街の話を聞いてくれる母さんは失われてしまった。兄弟同然だった従弟たちとも疎遠になった。
「母さん、僕は貴族になりたくない」
幼い私がいう。
「オレは皇帝になりたくない」
青紫の瞳で、殿下が私にいう。“半分”から救ってくれた私の主。公爵令息の側仕えから、次期皇帝の守役になったと知った母は泣いて喜んでくれた。殿下は私だけでなく、母をも救ってくれた恩人だ。
これまで、殿下は皇帝になることに疑いも迷いもなかった。そうなるべく生まれたから、なる。それだけだった。私は皇帝としてのお務めに障りがないように尽力してきた。それが恩返しだと思っていた。
でも。今、殿下は皇帝になりたくないという。で、あれば。私の恩返しは。私のなすべきことは。
私は執務机から立ち上がり、殿下の御御足近くに膝をついた。胸に手をあて、恭順を示す。
「仰せのままに」
“母さん、僕は貴族になりたくない”
“あなたのためなのよ。大きくなったらわかるから”
母さん、僕は今でもわからない。次期皇帝の側近となり、奥様よりも異母兄よりも父よりも大きな権限を持つ地位を得た。母さんは、立派な貴族になったわねと誇らしげに目を細めるけれど。
“立派な貴族の母親になって、嫌な奴らを見返すことができたでしょう?” “もう満足してくれたでしょう?”
私は口に出せないまま、貴族らしい微笑みを浮かべる。
そうして、あの日の僕が今も心の中でいう。
“母さん、僕は商人になりたい”
“母さん、僕を余所にやらないで”
“母さん、僕の味方でいてよ”
どこにも届かずに、今も泣きぬれたままで。
母さん、結果として貴族になることが避けられなかったとしても。僕はあの時、貴族にならなくていいと。本邸に行かなくてもいいと、ただそう言ってほしかったんだ。母さんの息子のままでいたかったんだよ。だから、私は。
「皇帝になりたくない」という皇太子を諫めないなど、側近として、貴族としては失格だろう。でも、僕は母さんとは違う。自分の望みを叶えるために、“あなたのため”といいたくない。そもそも、“次期皇帝の側近”になりたいのじゃない。“立派な貴族”でもない。私はいつでも“殿下の味方”でいたい。
青紫の瞳を見上げる。強いまなざしが揺れることもなく見返してくる。私が異を唱えるなど、考えもしないのだろう。そんなことに仄暗い喜びを感じてしまう自分は、全く始末が悪い。宮城の片隅で召し上げられたあの日から、たった一人の私の主。きまぐれでも、憐みでも。家族と引き換えに“半分”になった私を、あなただけが選んでくれた。そのあなたが、皇帝よりも彼女を選ぶというのならば。
「険しい道のりとなりましょう」
「望むところだ」
殿下が不敵に微笑んだ。自分の中につかえていた違和感が、ストンと落ちて消え去った。わかっていた。欲しいものをあきらめるなど、私の主にはふさわしくない。あなたが望む全てを、その御手に。それが私の歩む道だ。
「我が君の、御意のままに」
ほんのわずかに頷いて見せた殿下の向こう側。視野の端に映るシュヴァルツの、あんなに驚いた顔を見たのは初めてだ。
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