第57話 あなたの影のさすところ
「このヴォイド、あなたさまが何者におなりになられても、その影の差すところ、どこへなりとお供仕る所存」
ことさらに恭しく申し上げると、殿下はわずかにも頷かなかった。少しだけ殿下の視点がずれる。考えておられるようだ。
「私は伯爵令息ではありますが、マクラウドの血縁。生粋の貴族より世情に通じ市井のつてもございます。宮城を出られた際には必ずや殿下のお役に立ちましょう」
「其方にまで家を捨てるようなまねはさせられぬ」
「家など、私にとっては比ぶるべくもありません。殿下を生涯の主と決めておりますれば」
殿下は答えない。駆け落ちに同行させろといわれれば戸惑うだろう。
「ヴォイド、平穏な暮らしを願うローリと共にあるためには、次期皇帝という立場から遠ざかり、オレ自身が身軽になるのがよいと考えている。そして、それは一人で成し遂げたいのだ」
迷いのない瞳だ。いつも世に飽いたような目をしておられた方だった。年の近い子供たちを疎み、ご学友さえ置かなかった方が。『できないこと』『手に入らないもの』を初めて得て、切り捨てるのではなく、己のほうを変えていこうとなさるとは。シュヴァルツがいっていた、「恋をすると己の弱さを知る、そして強くなる」とはこういうことか。ご立派になられた。
「ヴォイド、国を乱したいわけではない。其方は城の誰より皇太子の執務に通じている。残って弟妹を助けてやってほしい」
「殿下のお心、しかと承りました」
「そうか」
「その上で、恐れながら申し上げます。ご令嬢を思えばこそ、殿下は皇帝になるべきでございます」
「……理由を聞こう」
青紫の瞳が少し眇められた。
「殿下が市井に下り、ご令嬢の傍にいけば親しくできるでしょう。身分で付き合う相手を選ぶ女性ではありません。そこまではいい。ですが、殿下が皇太子であったこと、隠し通せるとは思えません。いずれ必ず露見する」
私は二本の指で、自分の灰色の瞳をさした。殿下の美しい青紫の瞳がわずかに揺れる。皇族特有のその色。たとえ皇太子の座を降りたとしても、その身に流れる血脈をはっきりと示してしまう特別な色彩。平民などにはわからなくても、貴族や騎士、御用商人や外国の使節といった宮城にあがる機会のある者ならば見間違えるはずもない。
「その時、一番に傷つくのはご令嬢ではございませんか? ご令嬢が少なからず好意や恩義を殿下に感じているのは私でもわかります。そのあなたに身分を、家を捨てさせたことが大きな負い目になる。そういう方ではございませんか」
殿下はしばし天上を仰いだ。それから私に向き直る。
「其方のいう通りだ。オレ自身が家を捨てるという決断を軽々しくしたつもりはないが、誰かが己のために家を捨てるというのは重みが違う。オレですら受け入れがたい。オレが其方に家を捨てさせられぬと思うように、彼女にいらぬ重荷を背負わせてしまうところであった。ヴォイド、よくいってくれた」
「殿下の影の差す場所、どこへなりとお供仕る所存でございますれば」
殿下はふと、口元を緩めた。
「オレもそうありたかった。ローリの影の差す場所に共に在りたかった。だがアレが傷つくのであれば、皇帝の座を放り投げることもできぬ。国を安んじ街を整え、アレが他の男と笑いあうのを見守ることしかできぬというなら、皇帝というのは全く道化のようではないか。オレは守るべき民を恨んでしまいそうだ」
「早合点なさらないでください。ご令嬢を思えばこそ、殿下は皇帝になるべきと申し上げました。それはご令嬢の傷心を思って身を引くという意味ではございません。ご令嬢を手に入れるためにこそ、皇帝になる必要があると進言いたします」
「おもしろい、聞かせてもらおう」
「このヴォイド、勝手ながらご令嬢の素性を調査しておりました」
「オレも近衛に頼んだが、どうにも実家が見つからぬ」
「私の調査でも、貴族籍には髪や目の色が一致する高位貴族の令嬢は見つかりませんでした。最初から籍に登録されていない可能性も考えて、マクラウドの手の者にも探させたのですが、そちらも芳しくございません。国内では」
殿下が目を見開いた。
「女の身で、国外から来たというのか」
「ご令嬢の帝国語はあまりに美しく、各領地特有のクセがない。皇族、教師、宮城の上級侍女、高位貴族、ここに該当しなければ、他に考えられるのは周辺国の王族かそれに準じる家門とあたりをつけました」
この大陸の覇権を握る帝国の言葉が、周辺国の外交における共通語になっている。最新の知識は帝国語で書物になる。実用に足る帝国語を習得することは貴族として必須であるが、それ以上に。多大な費用と時間をかけても「より皇族に近い帝国語」を習得することが、周辺国の王族にとっての地位と教養の証でもあるのだ。
「理屈はわかるが……」
納得できない様子の殿下に、更に申し上げる。
「ご令嬢は大森林の湖にいました。その大森林の向こう、イルメリア国では少し前、王太子の婚約者が交代になったそうです」
「交代?」
殿下の目線が険しくなった。
「長年王太子の婚約者であったディケンズ公爵令嬢が病を得たため辞して領地に下がり、妹がその座についたと」
「その話の信ぴょう性は?」
「宮城に属する密偵とマクラウド系の商人の両方から確認いたしました。領地に下がって姿を見せなくなった姉は、焦げ茶の髪に焦げ茶の瞳。高位貴族にしては地味な色味で有名だそうです」
「地味とはなんだ」
殿下が眉根を寄せた。気分を害されたようだ。
「長く王太子の婚約者を務めたとなれば、ご令嬢の所作や帝国語の美しさも理解できます」
「イルメリア、か。我が国と国境を接することなく、大森林を挟むゆえに飛び地として管理するのは手間だとこれまでは併合の対象にならなかった国であるな」
「病を得たというのは公式発表です。公爵家の使用人によれば、他の女性に目移りした王太子に一矢報いて領地に蟄居させられているとか」
殿下がニヤリと笑った。
「さすがローリだ。して、一矢報いたとは具体的に?」
「あくまで噂でございますが、……王城で一発くれてやったと」
少し声を潜めた私に、フッと殿下が笑いを漏らした。
「そうか、ローリは一矢報いて生国を出たか」
ひとしきり笑ったあとに、表情を消された。
「女の身で、我が国までよくぞ無事にたどり着いてくれたものだ」
ブチ馬に褒美を取らせねば、と殿下がつぶやく。
「強運のある方のようです。しかし、運にばかり任せてはおけません。殿下が市井に下りてしまえば、ご令嬢が生国に絡む面倒ごとに巻き込まれたときお守りすることは困難です。この帝国の皇帝なればこそ、イルメリアなど王家だろうが公爵家だろうが、殿下の前に膝をつきましょう」
「なるほど、ローリの安全と自由を得るためにオレは皇帝になる必要があるというわけか」
よくいってくれた、と私を見下ろす殿下の目はとても凪いでいた。誤解されてしまったか。
「殿下、手を離すのではなく、ご令嬢も手に入れるのです。皇妃となれば、イルメリアは手も足も出せません」
「生国から守ってやるから皇妃になれなど一番嫌われそうだが」
「殿下の隣にきたら皇妃がついてきただけのこと。市井ではなく宮城にその影を差していただきましょう」
「ヴォイド、それこそアレが最も望まぬことであろう」
いいえ、と私は首を振って見せた。
「ご令嬢の望む平穏とは、貴族に関わらず市井で暮らすということではありません」
「そんなはずはない、“今、望む暮らしを叶えてもらった”とローリの手紙に書いてあった」
「今、ご令嬢個人としては、です」
「個人ではない、誰かのためにということか?」
「行き倒れた男の看病をしてしまう情の深い方です。親しい者ができた時にご令嬢が望む平穏は、少なからず相手の立場や意向を汲んだものになる」
「オレがローリに好いてもらえれば……」
殿下が噛みしめるように呟いた。
「……そういう、策を弄するようなことはオレは好かぬ」
「策とは人聞きの悪い。対峙する相手の心の動きを推し量るのは政治でも商いでも同じこと。まして恋と戦争においては何事も許されるものと古事にございます。最後にご令嬢が殿下を好いてくれればよいのです」
殿下は椅子の背に体を預け、珍しくも声をたてて笑った。
「頼もしい恋の軍師ぶりだ。今日は何やら、これまで知らぬヴォイドの一面を見た」
「恐れ入ります」
それから殿下は視点をぼんやりと宙に遊ばせた。
「オレは皇帝になるべくして生まれた。皇帝となることに疑問を持たなかった。執務に苦労することもなく、それなりの成果を出せればよいと思っていた。そしてローリに出会って、良き皇帝になろうと思った。程度の差こそあれ、いつでもオレの行く末は当たり前に皇帝が前提だった」
「さようでございますね」お心のうちを覗いておられるのか。思考を妨げない程度の相槌をうつ。
「今回、初めて皇帝になりたくないと思った。それから、其方の話を聞いてやはり皇帝になると決めた。当り前ではなく、なりたいわけでもないが、なろうと決めたのだ。一度は投げ出そうとしたのに、今は不思議としっくりとくる」
「お気持ちが整理されたのでございましょう」
殿下が私に視線を流した。
「皇帝となればローリは失う。ローリを得るためには皇帝にはならぬ。どちらかしかないと思ってしまった。恋というのは心が弱く、視野が狭くなるものであるな」
「恋は盲目とも申します」
殿下が頷く。
「道はいくらもあるのだな。これまで市井のローリを見守ることを前提に考えていたが、今後はローリの心を得ることを目的とする。その上で、どうしても皇妃が嫌だといったら、その時に皇帝を辞めてもよい」
「御意。次期皇帝という立場があってこそ、成せることもございます」
「イルメリアを我が国の辺境となすことも」
「いかようにも。我が君の、お望みのままに」
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