第55話 側近の焦燥


「今日はお早いですね」

殿下が訓練場に行かれている間に執務室を整えようと、扉を開けたら殿下が座っていた。椅子の背に深く体を預ける様子は、日頃のきちんとしたお仕事ぶりからすると少しだらしなくも見える。お疲れなのかもしれない。殿下の斜め後ろには、いつものようにシュヴァルツが立っている。


「お茶を入れましょう」

殿下は何もいわずに、目を閉じた。私はちょうど押してきたワゴンを部屋の隅に止めてお茶の準備を始めた。お茶を蒸らしている間に、執務机の上を簡単に片づける。本来、飲食は長椅子などで行ったほうがよいけれど、この部屋にはいつもの三人しかいないから問題ない。


「どうぞ」

殿下の前に茶器を置く。相変わらず無言のままカップを手にして、お茶を飲んでくださった。いつも無口だが、今日はとりわけ言葉がない。何か訓練で上手くいかないことでもあったのだろうか。殿下のはす向かいに設置された自分用の執務机につき、書類を整える。


まずは誕生祝賀会の確認事項だ。今年は貴族家の当主だけでなく、各家の御令嬢も招くと殿下ご自身がお決めになった。この勢いを逃さずに事を運んでしまわなければならない。殿下がいない間に準備しておこうと思っていたのだが間に合わなかった。お茶を召し上がっているうちにを仕上げてしまわなければ。


「ヴォイド、今日は訓練にはいっていない」

カチャリとカップを受け皿に戻すかすかな音がした。手を止め、目を上げる。殿下はこちらをみないままだ。

「其方を騙していた。訓練場に行くといってじいさまの街にいってきた」

「さようですか」


祖父の街へ、御令嬢に会いにいっていたのか。職務としては咎めなければいけない場面だろう。ろくに警備もつけずに城を抜け出すなんて、と殿下にいったり。近衛はどうなっているんだ、とシュヴァルツいったり。でも、口もとが緩んでしまう自分がいた。幼い頃からお傍に仕えた守役としては、そんなに好きなのか、とつい微笑ましい気持ちになってしまう。それを隠すように、書類を手に顔をふせた。努めて平静を装う。


当初の予定通り、有力貴族令嬢と結婚をすると決めても、恋心というのは簡単には割り切れないのだろう。責め立てて逆に意固地になられても困る。もう少し、気持ちが冷めるまで時間が必要なのかもしれない。ここは殿下に合わせておくことにする。


「御令嬢はお元気ですか?」

「……元気そうであった」

意味がよくわからず、また顔を上げてしまった。殿下は背もたれに体を預けて、空を見ている。

「お会いできたのでしょう?」

「会えなかった」

ますます話が分からなくなった。シュヴァルツを見る。こちらもいつも通りの無表情、とおもいきや。苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。


「先日、ローリから菓子を贈られたのだ。だから礼を言いにいってもよかろうと思って。手ぶらもどうかと、行きがけに街の市に寄ったのだ。花とか、リボンとか、手土産にそんなものを買おうと思った」

「それは……、よい心掛けでこざいます」

ぽつりぽつりと話す殿下が心もとない少年のように見えて、私はどう返答すればよかったのか。


「ローリは屋台を始めたといっていた。週に二回、午前中だけと手紙に書いてあった」

手紙、やりとりしていたのか。屋台? 御令嬢が?

「街についたのは午後だったから、じいさまの屋敷にいるものだと思ったのだ。アレは俺が連れ出してやらねばふた月も屋敷から出ない性質で。店のない日も刺繍や馬の世話ばかりだとじいさまがこぼしていたから」

私の知らないところで、いろいろあったらしいことがわかった。


「でも、今日は午後も店をやっていたのだ。売り出した菓子が人気なのだと手紙に書いてあったから、時間を伸ばしたのかもしれぬ。客の会計をしていた」

「順調でようございました」

「商売の様子を見てみたいと思って、オレは咄嗟に身を隠した。あとで客として訪れて驚かせてやろうかなんて考えていた」

常の殿下なら考えられないことだ。恋をされて、子供時代を取り戻しているところもあるのかもしれない。


「客が立ち去ると、ローリは一人ではなかった。深緑の髪の男が一緒に店番をしていた」

「御令嬢は町娘ではございません。一人では危のうございますから、祖父がつけたのでしょう」

深緑の髪といえば叔父の家系だ。従弟の誰かだろう。


「一人で街に出てはならぬとオレがローリにいったのだ。じいさまは店をやるときは人をつけるといっていた。だから間違ってはいないのだ」

空を見ていた殿下が、瞼を降ろした。御令嬢を思い出しているのだろう、口もとがわずかに弧を描く。


「ローリはとても楽しそうであった、とても……」

「なによりです」

「とても幸せそうで、笑顔であった」

言葉とは裏腹に、殿下の口もとから笑みは消え、声は沈んでいく。


「オレがブチ馬を褒めたときよりも、もっと楽しそうで嬉しそうだった」

「商売がそれだけ上手くいっているということでしょう」

「オレは屋台をやりたいとローリにいわれたときに、街に出るのは危ないと反対してしまったのだ」

「それも一理あります。御令嬢にとって街は決して安全な場所ではありません」


私は御令嬢と殿下が上手くいかれては困るのだ。けれど、沈んだ声を聞くとつい、殿下のお心が安んじられるようにと言葉を重ねてしまう。

「オレはじいさまに叱られたのだ。安全のためといって家に閉じ込めるなと。心配ではなく、独占欲だろうと」


殿下は小さく息を吐きだした。

「じいさまは正しかった。オレはただの心の狭い男であった。今日あの男を見てわかった」

殿下はカッと目を開いた。

「ローリの隣に男が立つのは許せぬ。笑いかけるのも。オレ以外、誰もだ」

据わった目が、ギラリと光った。



「殿下……」

私は言葉を続けることができなかった。婚約者の選定を始めようというこの時に、殿下は何をいっているのだろう。


「危険な目に合わせたくないと、守ってやりたいと思ったのも本当なのだ。寄る辺ない身となっても変わらず強くあろうとする姿が、風にあおられる蝶のようだと思った。冷たい風の当たらぬ温室で過ごさせてやりたいと思ったのだ」

殿下の目はいつの間にか優し気に細められていた。


「市場の人間にきいたのだが、ローリの菓子は今では乗合馬車の客の土産にと大人気であっという間に売り切れるそうだ。遠からず店舗を持つんじゃないかともっぱらの噂らしい」

淑女であるのに乗馬も料理も商売もできるとは、さすがローリだな、と殿下はいたずらっぽく笑った。


「じいさまは隠居屋に閉じ込めるような真似をするなとオレにいったが、なかなかどうして。アレは自分の足で好きな場所に歩いて行ってしまう。オレが思うよりもずっとずっと強い女であったようだ」

そこまではとても嬉しそうだったのに、殿下が急に表情を消した。


「蝶ではなく……、そう小鳥だな。必要だったのは温室ではなく、小さな翼を休める場所だった。力を取り戻せば自由に羽ばたいていってしまう」

ヴォイド、静かに名を呼んで、殿下が初めて私に視線をよこした。


「オレは皇帝になりたくない」

青紫の瞳が私を見ている。怒りと悲しみを潜ませて、静かに、まっすぐに。遠い昔、宮城の片隅で公爵令息に足蹴にされていた私を召し上げてくださったあの時のように。


次期皇帝の言葉に逆らえる者など宮城にはいない。では、次期皇帝ではなくなったら?

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