第46話 主従3



殿下が祖父の家に令嬢を見送ってからひと月程が経った。襲撃後、城への報告や増援要請は行わなかったが、捜索等の時間稼ぎのために“視察の後に野営訓練を兼ねて狩りなどをされる”と殿下の予定変更は告げていたから、我らが城に戻った時にもこれといった騒ぎはなかった。


王都と近隣の町をつなぐ街道を巡回警備する騎士らのような風体の私たちは、どうみても皇太子と近衛の集団には見えないが。騎士寮に近い中門担当の兵士などは慣れたもので、殿下とシュヴァルツという見間違えようもない二人を確認し、迷うことなく開門してくれる。


殿下とシュヴァルツ隊の“野営訓練”は、宰相や騎士団長といった上層部が“様式美”として苦言を呈してみせるものの、城内ではすっかり年中行事と認められていた。殿下たちも心得たもので、埃を洗い流してその地位に相応しい衣装に着替えれば、そこにはすっかりと“皇太子とその護衛近衛隊”という煌びやかな一団へと早変わりしていた。そうして、執務室には、留守中の報告や溜まった書類を手に次々と文官たちが訪れる。それらを流れるように処理していく殿下、という“日常”が戻ってきた。


いや、変化が少しある。城に戻られてからのこのひと月、殿下の評判が上昇し始めていた。殿下は“次期皇帝”として、現在、帝都とその周辺の街の行政を担当されている。『皇太子の帝都親政』は統治感覚を身に着けるための、帝国の慣例だ。


殿下は、ここ何代かの皇太子が行ってきたものと変わらぬ行政運営を行っていた。ろくに側近を持たないで。本来、皇太子だけでなくその側近となった者たちの訓練でもあったのだ。もちろん長く城勤めをして実務に精通した文官は何人もつくけれど、これまでは側近とその部下、殿下からみれば陪臣たちが研鑽を積む機会でもあった。


しかし殿下はいわゆる側近と呼ばれる高位貴族を身の回りにおかず、過去の文献や文官たちからの報告を自ら聞いてあらゆる決定をし、指示をだされる。それを文官たちが実行し、なべて帝都はこともなし。民はつつがなく、変わらぬ日々の暮らしを送る。


これまでの何代もの皇太子と比べて突出した結果を出すことはないけれど、その運営体制こそは高位貴族にとって存在価値を脅かす脅威だったのだ。

「帝都周辺の小さな地域に限って上手くいっているに過ぎない。いずれ国政となれば、皇太子殿下も広い帝国を支えるには我ら高位貴族の力がなければ回らぬことに気づかれるはず」

そう嘯く貴族も多い。


私も同意見だった。だから何度も殿下に申し上げた。

「側近を召し上げてください」と。

お小さい頃は嚙み合わなかった者だとしても、今は殿下も、そして高位貴族の子息たちも大人だ。互いにいろいろ学び、経験を積んできている。幼い頃の、殿下が弟妹の面倒をみるような一方的な関係にはならないはずだ。ご学友としての強い信頼関係は築けなくとも、いずれ皇帝となるに周囲を固める藩屏は必ず必要だ。しかし、殿下は首を縦に振ってはくださらなかった。


「高位貴族の後継どもをこの執務室に立ち入らせてみろ。やれ“うちのほうが爵位が高い”の、“我が家のほうが領地が広い”のと、帝都の行政となんの関りがあるのかわからぬ綱引きを始めて仕事が捗らぬのが目に見える。そういうのに付き合うのは面倒だ」

「しかし殿下、いずれ皇帝となられれば高位貴族との折衝は避けては通れません。それが政治というもの。今のうちからあしらい方を学ぶとお考えいただけませんか」


「オレはそうは思わぬ。オレの必要とする資料や情報を揃え、疑問について調べて答える。そしてオレの決定を速やかに実行してくれる。城の文官たちとは短時間で速やかに事が運ぶ。将来的に、規模を少しずつ大きくしてこのまま国政としても成り立つとオレは思っている」

「皇帝親政、ですか……?」

「そう大げさなものではない。ただ時間を有効に使って面倒を避けたいだけだ。平均的な皇帝としての成果をあげられればいい」

わかっているだろう? と殿下がいう。


そうだ、わかっている。殿下には、野望も理想もない。皇帝となるべくして生まれ、だから皇帝になる。皇帝として民を幸せにする責務を果たす。それだけ。興味も関心もない。民にある程度の生活が保障できて、力づくでも貴族の手綱を握る。それ以上でも、それ以下でもない


「安心しろ、国内で二番手か三番手辺りの令嬢を妃に迎えるつもりだ。そうすれば、婚家が貴族同志の勢力争いで矢面に立ってくれるであろう」

二番手か三番手辺りの貴族家に外戚の地位を与えて一番手と同等の力を持たせ、つばぜり合いをさせるというのか。言葉を失った私に、殿下がにやりと笑ってみせた。


「皇家に次ぐ貴族家など無用の長物。貴族同志で争わせて、適度に消耗させておけばいい」

異国では、“どんぐりの背比べ”というそうだ。楽し気な殿下の声。お小さい殿下がどんぐりを一列に並べる姿が脳裏に浮かびあがったが、それは全く微笑ましいものではなかった。



そんな、面倒を嫌い、効率を求めて少し物騒な構想をお持ちの殿下だったのだが。帰城以来、執務室に立ち入らせることはなかったが、少しずつ高位貴族の子息たちとの交流を持ち始めた。サロンに数人招き、それぞれの領地の状況や方針などを聞く時間を設けるようになった。各家の当主たちは喜びに沸いた。ご学友作戦には失敗したが、ここにきて、ようやく殿下が次期皇帝としての地盤作りに目覚めてくれた、と。


殿下の手足となってきた文官たちも同様であった。高位貴族の側近や陪臣に煩わされることなく、皇太子殿下直々の上意下達で効率的な行政を行ってこられたが、同時に、“可もなく不可もなく”を指針にしていた殿下に歯がゆさも感じていたのだという。それが、ここにきて急に殿下が“前例に倣わぬ成果”に興味を持たれるようになったというのだ。


曰く、より治安がよく暮らしやすい街づくりを始める、と。

これまで隠してこられた殿下の本当のお力を世に示すことができる、そして同時に街もより豊かになる、と。文官たちは貴族家当主に負けず劣らすのお祭り騒ぎだ。


私は直観した。あの令嬢のためだ。馬を褒めて笑顔を見る代わりに、彼女の暮らす街の改善を始めるのだ、と。治安を良くし、設備を整え、街ごと彼女を守るつもりなのだ、と。執務室にシュヴァルツと三人だけになったとき、実際に殿下にそう尋ねてみた。殿下は少し目を見開いて私を見た後に、何も言わず目を伏せて。だが、まるでそこに令嬢がいるかのように、柔らかく微笑まれた。


そうして、殿下がつい……と、窓の外に視線を移した。

「アレは財貨や地位には興味をもたぬ。“お前だけ特別だ”といって無理に持たせたところで、得意になるどころか却って気に病むだけであろう。だが、暮らす街が豊かで安全になれば、アレはきっと喜ぶであろう。誰の仕業と知らずとも」


城から、祖父の住む街までは馬で小一時間。この執務室の窓から見えるはずもないのに。きっと殿下の青紫の瞳には、今、令嬢が嬉しそうにはにかむ姿が映っているのだろう。


恋は人を成長させると聞く。それが悲しい結末であっても。

殿下は希代の名君になられるかもしれない。私は歴史的瞬間に立ち会えるかもしれない。彼女を殿下から引き離して、私の望み以上のより良い成果を得られるかもしれない。でも、それは正しいことなのか。いや、間違っているはずがない。殿下の安定した治世のためには、素性の知れぬ彼女は危険因子でしかない。でも……。

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