第43話 家族の食卓

「おじいさま、お茶が入りました」

「そろそろ一服したかったところじゃ。いただくかのう」


マクラウド老がティーテーブルについた。少し節ばって年齢を感じさせる手がティーカップを取ると、くん、と小さく香りを吸い込んだ後にカップを傾けた。私もならってお茶を飲む。


「嬢ちゃんの入れるお茶は、味が濃いのに渋みがなくてうまいのう」

「こちらのお茶の葉が上等なのです」

メリンダさんをお手本にしている市井の言葉遣い。我ながら、大分こなれてきたんじゃないかと思う。

「子供は褒められておけばいいんじゃ」


目じりのシワをさらに深くして見せる老に、私は面映ゆくなってしまう。私はもう17歳になるのに。でも老からみればまだまだ子供であることも事実だからいいのかな? “孫は男ばかりでつまらんのじゃ”、“おじいさまと呼ばれてみたいんじゃ”。そういって、老は私のことをこの家のお客様ではなく、孫娘のように迎え入れてくれた。


こちらの家にお世話になって、早くもひと月が過ぎた。まったくの他人と暮らすことや、自分の言葉遣いなどから素性が露見してしまうことを不安に思い、いざとなれば湖に逃げる決意を固めていたのが噓のように、ここでの生活はくすぐったいほどに穏やかで、優しく過ぎていった。


帝国でも十指に数えられるというマクラウド商会の会頭の自宅。ノルド様の言う通り設備は整っているけれど、隠居暮らしの名にふさわしく、とても落ち着いた雰囲気の家だった。使用人も、生活エリアには基本的に入ってこない警備員や通いの下働きの人達を除くと、驚くほどに少ない。家政婦長のメリンダさんと、そのご主人のジョージさん、孫のトム君の三人がメインだ。


メリンダさん夫妻の娘さん夫婦は馬車の事故で他界されたため、トム君はこちらに引き取られたそうだ。息子さんのほうは、帝都の本宅で働いているとのこと。


「年寄りばかりの家でしたからね、ローリ様がきてくれて本当に嬉しいんですよ」

そういって、毎朝、メリンダさんは少しだけ伸びた私の髪を丁寧に梳いてくれる。鏡越しにふっくらとした優しい笑顔を見せてくれるけれど、その目は少しだけ遠くを見ている。たぶん、娘さんの思い出を映しているのだろう。だから。


「私も、こちらでお世話になれて本当に嬉しいです」

私はいつも、そうとだけ答える。


公爵家にいた頃は腰までの長さがあったので、手入れは侍女任せになっていた。洗うにしても梳かすにしても、一人ではどうにもならなかったから。逃げ出す時に髪を切って、“私”の記憶を得てからは特に困ることもなく自分で整えることができた。本当は今も自分でできるのだけれど、今はすっかりメリンダさんにお任せしている。


公爵家にも前世にも祖父母がいたのに、どちらにもびっくりするほど縁がなかった。いや、公爵家のほうがまだ顔を合わせる回数が多かったか。前世の祖父母は父方も母方も“お母さん”と折り合いが悪く、幼い頃に数回あった記憶しかない。冬休みがあけた学校で、お年玉の金額自慢が始まるたびにお友達が羨ましくなったものだ。


老やメリンダさん、ジョージさん。お友達がいつも話していた“おじいちゃん”、“おばあちゃん”というのは、こんな感じではないのかな。なんて。世界と時を超えて、今さらそんなことを考えている自分に少しおかしみを感じる。


トム君はまだ10歳だけれど、ジョージさんについて衣装の手入れから馬の世話まで実地訓練中だ。いずれは老のお孫さんの家をお世話するのだと頑張っている。この他に、老の現役時代からの右腕のフレッドさんという方がいるのだけれど、帝都の息子さん宅や本店、帝国内の他の支店を回ったりしていつも留守がちなんだとか。


「では、いただきましょう」

この家では、メリンダさんの一声で夕食が始まる。老の奥様がご存命の頃は、主人と使用人としてきちんと食卓を分けていたのだけれど、奥様が他界されてからは老の希望もあって、みんなで食卓を囲むようになったそうだ。私が来た時に元に戻そうとしたけれど、老に止められたのだといっていた。私がみんなの食卓に加わる形になった。


上座に座った老が、私やトム君に“今日は何をしたか“などをきいて、私たちがそれに答える。生前、奥様が座られていた席はそのままだ。老と私の前に並ぶ皿は、メリンダさんたちより数が多く、上等な肉が使われている。グラスのワインと、エールの注がれた木製の酒杯。白いパンと茶色のパン。銀のスプーンと木のスプーン。一つのテーブルについても、そこはしっかりと線引きがされているけれど、疎外感はない不思議な食卓だ。きっと、老もメリンダさん夫妻も一様に、懐かしむような瞳で私たちを見ているから。それぞれに、失った家族や幸せな記憶を胸の内でふわりと温めているのだろう。それが寂しいとは思わなかった。


公爵家での食卓を思う。私はいつも、目の端で父や兄の皿の進み具合を確認していた。先に皿を空けてしまわないように、ほんの少し遅れるくらいのタイミングをはかってゆっくり、ゆっくり。それは妃教育で習った接待のマナーとも一致していた。味がどうとか、メニューがどうとかはなく。ただ、その席に同じ時間座っているために食事をしていた。子供の頃は皿の数も量も少なかったから、早く食べ終えてしまって手持無沙汰になり随分と気まずい思いをしたものだ。


前世での食卓は、テレビのアニメが賑やかに流れる中、みうが騒いで、“お母さん”が怒って、なぜか“私”が謝って。そのうちにみうを騒がせないようにしようとあれこれ構うようになって、『いいお姉ちゃんねえ』って“お母さん”に褒められるようになった。“私”は“お母さん”の叱る声を聞きたくなかっただけなのだけど。みうがまだ小さくて食卓に着くようになる前は、一生懸命“お母さん”に話しかけていたような気がする。もう、遠い記憶だ。血のつながった家族の食卓には、あまりいい思い出がない。


大切な人を失くした人間ばかりが集うマクラウド家のこの不揃いな食卓は、少しの遠慮と、少しの思いやりと、少しの寂しさに包まれていて、私にはとても心地よく感じられた。“長女”でなくとも、“お姉ちゃん”をやらなくても、ここには私の椅子がある。ただ、おいしいねと食事をして、今日のできごとを少し話したりするだけの穏やかな時間。


学校の遠足でいった自然公園で食べた“お母さん”のおにぎり。少子化で学年全員でも100人には満たなかったし、富士山でもなかったけれど。音楽の時間に習った歌をみんなで歌ってから“いただきます”をした。公園の緑よりも、空の青さがずっと眩しかった。


役所勤めの頃は自炊弁当持参だったから、いつもデスクでぼっち飯だったけれど。退職間際に引き継ぎの関係で何度か同僚とランチに行ったことがあった。30歳にもなってようやく、普通の会社員らしいことができて心中はしゃいでしまったっけ。彼女には結構な量の仕事をお任せすることになってしまって申し訳なかったなあ。


それから。ノルド様がよそってスープを手渡してくれる時の誇らしげな顔や、野営の時に私の前に毛布を積み上げてくれた騎士さんたちの少し情けない顔を思い出す。みんなで囲んだ焚火の明るさや、背中にかけられたマントのあたたかさも。


私にも、ふわりと胸を温めてくれる幸せな食卓の記憶があることに安堵する。血のつながった家族でなくても、それは成立するのだ。いや、他人だからこそ、それぞれの思いやりが成り立つ瞬間があるのかもしれない。


それが一度きりではなく、日々当たり前のように繰り返されるマクラウド家の食卓。

「今日の糧を感謝して」

メリンダさんの声に続く一瞬の沈黙。それぞれに手を組んで目を閉じる。この世界の神様にも、日本の神様にも。“いただきます”。そして“この家にこられてありがとうございます”。どうか、“このまま”がずっと続きますように。

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