第39話 約束
「気をつけていけ、元気で」
私たちは、ノルド様が紹介してくれる豪商が住むという町の入り口を臨む林の中にいた。ノルド様達はこのまま林の中を進み、帝都に戻るという。ここで分かれる私には、二人の騎士がつけられた。
「豪商には先行させた騎士から依頼をだし、承諾も得ている。お前は何も心配することはない。好きなだけ滞在するといい」
なんなら、一生を過ごしても構わないとノルド様が笑った。
「費用についても、こちらから充分に渡してあるから気兼ねはいらぬ」
「ありがとうございます、ノルド様。いろいろ、私、すみませんでした」
「何を謝ることがある。お前はオレの恩人だ。功を誇れといっているであろう。大手を振っていけ」
普段の貴族らしい顔ではなく、優し気に目を細めているノルド様。こんなに優しい人を、私はなぜ恐れていたのだろう。今となっては、一体ノルド様のどこを見て“父や兄、殿下を思い出させる”などと感じていたのか、まったく思い出せない。湖で出会ってから、ここまで。半月くらいのことなのに、今は別れることがとても心細く感じている。“早く出て行って欲しい”といつも思っていた湖での私が、まるでウソのようだ。
私は別れがたく、ノルド様に何かを伝えたいのに、自分でも言葉が見つけられずにいた。
「ローリ、お前は強い女だ。オレの立派な騎士達にも後れを取ることなく、この数日山中を進み、野営までしてきた。そんな女はお前しか知らぬ」
「ノルド様……」
私の弱い心を察してか、ノルド様が励ましてくれようとしているのがわかる。
湖からここまでの移動はほんの数日のことだけれど、私にとってはたくさんのことがあった。野営は大変だけれど、ノルド様達と一緒であればもう何日かしてもよかったかもしれない。でも、私が一緒だとノルド様が天幕で眠れないから。私はもう、行けなければいけない。
「あの、また会えますか?」
私はノルド様の顔を見られずに、少し俯いてしまった。だめだ。また、弱い私が顔をだしている。ここでの別れが、今生の別れになることが恐ろしかった。高位貴族のノルド様が相手ならあり得ることだ。私は素性の知れない娘。次に会う機会があったとしても、話しかけることなど許されないだろう。今までが特別だっただけなのだ。人里離れた森の中で見た、夢のようなもの。わかっている。けれど、この帝国でたった一人、私の身を案じているといってくれる人の手を離すのが恐ろしかった。
「お前がそう望んでくれるのなら、いつでも」
私の予想に反した言葉が、とても温かい声音で返された。私は思わず顔をあげて、ノルド様を見つめた。
「お前はオレの恩人なのだ。いくらでもオレを使っていい。何かあれば呼べ」
何もなくても呼んでいい、といった瞳はとても優しかった。綺麗な青紫の瞳。湖のそばに咲いていた小さな花の色、その甘い香りを思い出した。
私は一つ頷いてみせた。言葉にしたら、きっと涙がこぼれてしまうから。何も言えなかった。ノルド様も頷いて、私に手を差し出した。手を預けると、一度、ぎゅっと強く握られて。
「お前が毎日、良い夢を見られるように」
まじないみたいなものだ、とノルド様が小さくいって。それから、二人でタビーへと歩いて行った。
ノルド様の手を借りて、タビーにまたがる。
「ブチ馬、お前に頼んだぞ」
タビーの手綱を取って、ノルド様は首筋を二度三度、軽く叩いた。タビーはブルルと小さく嘶いて、たてがみを揺らした。
「さあ、行け。オレが見送ってやる」
私は手綱をとって、ノルド様にもう一度頷いてみせた。
「では、主」
タビーから少し離れたノルド様に、馬上の騎士達が挨拶を送る。
「ああ、頼んだぞ」
「参る!」
一人の騎士の掛け声とともに、馬が進みだす。二歩、三歩とタビーがあとを追っていく。私は馬上からつい、振り向いてしまった。ノルド様が微笑んで、手を胸元に置いた。私も、胸元を抑える。ゴロリとした感触。ノルド様のシグネットリング。
昨夜、皮ひもに通したそれをもらった。困りごとや身元の保証が必要になった時に役に立つだろう、と。“大事の時以外は、服の下に隠しておけ”。そういって、首にかけてくれた。ノルド様に迷惑をかけることはできないから、使う時はこないだろう。けれど、手元に“形”が残ったことに、私は安心できた。
今の私にとって、“帝国の高位貴族”は遠い遠い存在だ。もう会えなくても仕方がない。でも、大丈夫。“呼んでいい”といってくれた、“約束”がここにある。大丈夫。先ほど、ノルド様が握ってくれた手で、私は指輪をぎゅっと握った。前を向いて、顔を上げる。先導する騎士の背中を見つめる。
泣きたくない。歯を食いしばって、目に力を入れて見開いているのに、はらはらと涙がこぼれてきた。私はグイッと服の袖で拭った。バカみたいだ。どうせ泣いてしまうのならば、ノルド様にちゃんと“ありがとう”と伝えればよかった。不安や後悔、寂しさとか。あとは自分でもよくわからないものが、ぽろぽろと瞳からこぼれていく。私は声を殺して、涙が止まるまで何度も何度も袖で拭っていた。
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