第38話 懇願

「ありがとうございます。いろいろご心配いただいて。私……」

私はまた、ノルド様から目を逸らしてしまった。いつもいつも、早く出て行ってほしいとか、失礼なことばかり考えていた私に、こんなに慮ってれるなんて。私はなんて浅はかだったのかと自分を恥じた。


「お前はオレの恩人だ。お前が助けてくれなんだら、オレは今頃あの森の際で躯になっていたやもしれん。オレはこれでも、なかなかの要人なのだ。遠慮なくお前の功を誇れ。望みがあればいってみろ。大抵のことは叶えてやろう」


目の端で、ノルド様が破顔していた。これまで、いたずらっ子のように笑った顔を見たことはあったけれど、これほどに相好を崩した笑顔は初めてみた。こんな風にも笑える人なのだと思った。


「素性の知れぬ山出しには、そのお申し出だけでも望外でございます」

今度はしっかりと、ノルド様の目を見て答えられた。

「お前はそういうであろうと思っていた。財貨や宝石、地位や名誉を望んでくれる女であれば、オレももっと……」

もっと、恩が返しやすいのであるがな。と、ノルド様が少し目を細めた。


「豪商の家には話をつけておく。安心して、よく体を休めよ。立派な厩もあるから、ブチ馬も養生できよう」

「重ね重ね、ありがとうございます。なんと申し上げたらいいか」

「お前にはそれだけの功があるといっているだろう。今は思いつかずとも、先々、望みができれば申し出よ。オレはお前の、お前を……」

今度は、なぜかノルド様が目を伏せてしまった。午後の日差しを受けて、長いまつげが鼻梁に影を落としているのを、私はぼんやりと見ていた。


それまで私の肘を包んでいたノルド様の手が、ふいに私の手を取る。手のひらに、熱く柔らかい感触を受けた。

「お前がもうどうにもならないと思った時には、オレを呼べ。必ず、オレがお前を守る。お前が毎夜、良い夢を見られるように」

私の手をおしいただくようにして、手のひらに唇を寄せているノルド様の吐息がとても熱くて。私は身動きできずにいた。


ノルド様の顔は見えないけれど、とても真摯な声だ。これが帝国の騎士の礼なのだろうか。妃教育で教えてもらった騎士の礼のキスは、手の甲ではなかっただろうか。手のひらはプロポーズのような時だった気がする。とにかく恥ずかしくて身の置き所がない。なんと答えればいいのだろうか? たくさん勉強をしたつもりだったけれど、肝心な時には思いつかない。あれこれ思考を巡らせていると、ノルド様が顔をあげて、少しだけ唇の端をあげて貴族らしく微笑んだ。

「お前はオレの恩人であるからな。遠慮なく、オレを使え」

「ありがとうございます」

彼の強い目に気圧されて、私はそうとしかいえなかった。


先ほど、手を引かれて歩いた時も思ったけれど。木漏れのさす林の中を、貴公子に手を引かれて歩いたり。跪いての騎士の礼を受けたり。まるで、おとぎ話のワンシーンのようだ。私はいつも脇役だから、こんなことはきっと二度とないだろう。今日、今だけは。乗馬ズボンと短髪の自分が残念でならなかった。せめてスカートだったらよかったのにな。



ノルド様に手を取られ、来た道をゆっくりと戻っていく。後ろからポクポクとタビーがついてくる。湖からは遠く離れてしまったのに、湖畔をぐるりと歩いている時のようなくつろいだ気持ちになった。


「ローリ、お前の事情を詮索しないとはいったが、ひとつだけ訊いてもよいか」

「私でお答えできることでしたら」

「お前が探しているという、マルスという男についてだ」

「ノルド様が何故ご存じなのですか?」

「シュヴァルツがいっていたのだ。すまない」

「いいえ、差し支えありません。ただ少し驚いただけです」

シュヴァルツさんも探してくれているのかもしれない。


「シュヴァルツに似た男だと聞いた」

「はい、顔つきや体つき、声などがとてもよく似ていらっしゃいます。とても強いところも」

「マルスというのも強い男なのか」

「はい、とても強くて、私のあこがれなのです」

「あこがれ?」

ノルド様が足を止めた。私も立ち止まる。


「私は、生家では至らぬ娘だといわれてきました。何をしても何にも足らず、何ものにも成れぬと」

私は足元を見る。

「すまない、ローリ。オレはそういうつもりでは」

「大丈夫です。詳しい事情はお話できませんが、そんな訳で私は生家を出たのです」

ゆっくりと空を見上げる。木々の切れ目から、小さな青いかけらが見えた。

「ずっと、マルスやシュヴァルツ様のような、大切なものを守りながら困難を切り伏せて進む強さにあこがれて、それを支えにしてきました。いつか自分もそんな強さが欲しいと思ってきました。思い切って家を出て湖で暮らして。自分では、少し強くなったような気がしていたのですが」

井の中の蛙でした、と口にすることはできなかった。私は小さい人間なのだ。


「お前は、自分が思っているほど弱くもない」

「そうでしょうか」

柔らかい声でそういったノルド様に目をやると、カラリと笑った。

「ヴォイド達が森から現れた時のことを覚えているか?」

「はい、湖で、外で昼食の準備をしていた時ですよね」

「“私が隙をつくるので、逃げる準備をしてください”と、お前はオレにいったのだ。20人もの騎士を睨めつけて、両の足で地を踏みしめて。あの時のお前は天上の戦乙女もかくや、といわんばかりにそれはそれは勇ましかった」


私は顔に熱が集まるのを感じた。両手で頬をおさえる。そうだったろうか、そんな風に見えただろうか。必死で、魔法がばれても眠らせて逃げるしかないと思っていたくらいだったのに。


「オレはヴォイド達が迎えだと知っていたが、もしも敵であったとしても。ただ守られようとせず、共に戦おうとするお前とならば逃げられるだろうと思ったのだ」

お前とならば、とノルド様が繰り返した。


「お前は己の足で立ち、前に進もうとする気概のある女だ。家の力などあてにせず、馬と外の世界に飛び出してきた。お前より力の強い女はいくらもいよう。だが、お前のように心根の強い女はそうはおるまいよ」

「……ありがとうございます」


ふわりと微笑むノルド様が恥ずかしくて、私は視線を後ろの木々に移した。そんな風にいってくれる人は初めてだった。よく言えば真面目だけど、頑なで可愛げがない、と。“私”の頃からいわれてきた。エイミーさまやフロレンツィアのような、慕われる女性にはなれなかったのに。


「シュヴァルツがな、奥方には勝てぬというのだ」

ノルド様がぽつりといった

「あの上背に筋肉だ。見るからに強くて、子供の頃から長く共にいるが負けたところをみたことがない。だからオレは興味本位で訊いたのだ。“そんなに強くて、何か恐れるものがあるか”、と」


これがあこがれの“同担トーク”かと、私は思ってしまった。

「同じ男同士であれば、今は負けても、体を鍛え、剣を磨き、いずれ倒すこともできると思う。だが、奥方だけは何をしても決して敵わぬと。その前に立つと、いつも己の弱さや情けなさを思い知らされる。見栄も欲もあらわにされて、男というのは全く立つ瀬がないものだといっていた」

あれ? シュヴァルツさん、恐妻家疑惑?!


「以前のオレにはよくわからなかったが、今なら、とてもよくわかる」

わかるんだ。私はよくわからない。シュヴァルツさんのことで負けたようで、少し悔しくなる。“同担拒否”という人の気持ちも今なら少し、わかるかもしれない?


ノルド様に改めて手を取られて、また歩き始めた。

「マルスを探しにいくのか?」

先ほどよりも固い声で、ノルド様がいった。

「わかりません。ただ、いつか会えたらいいなとは思っています」

シュヴァルツさんがあまりに似ているので、マルスはこの世界にはいないのではないかと思い始めている。でもそれは、ノルド様に説明しても意味がないことだった。




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