第34話 good night
「いい夢を、ローリ」
小さな音をたてて閉じた扉に、殿下はもう一度つぶやいた。なんて目をしているのだろう。扉の向こう、遠ざかっていく娘を透かして見ているのか、それとも。
言葉にはせずとも、私の少し非難がましい気持ちに気づいたようだ。殿下は私に視線を移した。
「今夜はそなたらもここで眠るのだろう? アレは強がりな女であるからな。例え知らぬうちにでも、自分の泣いている様子など知られたくはあるまい。だから、泣かずにすむようにとオレは」
そこで言葉を切って、目を伏せるとそれから殿下は小さく笑った。
「何かに祈るなど、初めてだ」
だが、悪くない。そういって、ベッドに入られた。
外には交代で不寝番が立つ。だから私もシュヴァルツも、明日の移動に備えてしっかりと眠らなければならない。ここまでの移動も大変だった。体は疲れているはずなのに、私は眠れずにいた。床に敷いた野営用の寝具にくるまり、暗闇を眺めている。この部屋の誰も音を発さない、静か過ぎる夜。誰も眠れずに息を殺している。これ以上、殿下の心を乱さないでほしい。殿下とは違う動機で、あの娘の平穏な夜を私もまた願っていた。
「ヴォイド」
「はい、殿下」
暗がりから、殿下の声が降りてくる。
「アレが気にいらぬか?」
「……そういうことではありません。ただ一緒に連れていくのはどうかと」
ククッと殿下の笑い声がした。
「ずっと、共に行こうと言いたかった。一人では危険だとか、褒美を与えるとか、何といえば連れ出せるだろうかと考えていた。だが、アレが、いつも早く出て行ってほしいと顔に書いてあるアレがそれを望むだろうかと思うと、オレは言い出せなかった。だからローリから申し出てくれて、なんという僥倖かとオレは思ってしまったよ」
「何か目的があるのかもしれません」
「シュヴァルツであろう。そなたが危惧するような思惑などない」
わかっているだろう? と殿下がいう。
「そなたらが迎えに現れて、ありがたいと思っていることは本当なのだ。皇帝になることを当たり前だと思ってきた。迎えが来ずとも自力で戻るために体を整えてもいた。だか、ここでの生活が終わってしまうことを残念に思うオレもいるのだ。」
「殿下、そのようなことを口にされては」
「わかっている。そなたらにだけ、今だけだ」
「皇位継承権を持つ方は他にもおられます。国が乱れるような言は謹んでください」
「……なあ、ヴォイド。そなたらが森から姿を現した時、アレがなんといったと思う?」
「“助けて”、でしょうか。私たちの位置からは酷く怯えて見えました」
「“私が隙を作るから逃げる準備をしてください”と、そういったのだ。折れそうな腕で馬にしがみついて、青ざめた顔をしているのに。唇をかみしめて、オレのために戦うと」
「私たちも殿下をお守りいたします」
何といっていいのかわからず、私はそう答えた。
「そうだ、オレを守ってくれる者はたくさんいる。そなたらも、近衛たちも。日々鍛錬を積んで体を作り、武具を整えている心強い男たちだ。オレのために命を惜しまぬ者たちだ」
「その通りです」
「アレはどうだ。己を支えることすら危ぶまれるような、あのように細い体で。剣など握ったこともないであろうに、いつも食事を作ってくれる小さな手で。夜中に一人で泣くような娘が、オレのためにどう戦うというのだ。バカバカしいと思うであろう?」
言葉とは逆に、殿下の声には喜色が溢れていた。
「だが、オレはあの時嬉しいと思ってしまったのだ。国でも有数の騎士といわれるこのオレを守るなど。あのような令嬢にいわれて、普通なら腹を立てるところであろうに、オレはなぜか嬉しくてたまらなかった」
殿下は小さくため息をついた。
「オレはここにきてからおかしくなってしまった。冷静さや平常心を欠いている。先ほども、アレに名前を呼ばせようと躍起になっている自分をわかっていたが止められなかった。オレはこれまで自分はできる男だと思ってきたのだが」
そうではなかったようだ、とつぶやきが零れた。
「それは恋です」
「恋?」
「シュヴァルツ!」
それまでただじっと聞いていたシュヴァルツが、口を開いた。
「恋をすると、男は己の弱さを知る」
「そうか、オレは……。これが恋というものか」
「シュヴァルツ、やめろ!」
「己の弱さと向き合うことができれば、新たな強さを手に入れることができる。自分はそう考えています」
シュヴァルツに悪気はない。ただ要件しか口に出さないだけだ。だから要件だと思えば、何でも口にだすだけなのだ。
シュヴァルツは殿下の護衛騎士であると同時に、剣の指南役でもあった。野営の術や料理なども、いつの間にやら殿下に教えたのはシュヴァルツだ。通常、男性皇族が軍務についてもそうそう野営なぞするわけがない。行くにしても多くの従者がつく。万が一の際にある程度逃げ延びられる程度のことを学びはするが、殿下の場合はシュヴァルツに一人前の兵士として育て上げられてしまっていた。そのお陰で今回、森を単独で逃げ延びたから結果としてはよかったのだろう。
そんな師弟の関係も持つため、殿下のシュヴァルツへの信頼は絶大だ。殿下に恋を気づかせたくなかったのに。私の思惑など知らず、シュヴァルツは年嵩の男として殿下にアドバイスをしたのだろう。なんと都合の悪い。今度は私がため息をついた。これは路線を変えるしかない。
「好いた女を守るために、男はさらに強くなる」
「女のために、か」
「自分は妻に出会って、さらに強くなったと自負しております」
「ではオレは、オレもローリと……」
「殿下、あの娘はそれを望みますまい」
おわかりでしょう、と声をかける。
「厄介ごととして厭われていると、ご自分でもおっしゃっていたではありませんか。平穏を望む娘だと」
「……そうだ」
「で、あれば。摘むことなく野に咲かせて見守るのもまた男ではございませんか?」
自分の言いようが卑怯だとわかっていた。シュヴァルツは、“男として”、“騎士道”、といった価値観に重きをおいている。こういえば、これ以上殿下を焚き付けることはできないだろうと、私はわかっていた。守役として、護衛騎士として、幼い頃から殿下にお仕えしてきた私たちだ。殿下の思いを叶えたいという気持ちは私にだってある。だが、これは殿下の将来のために仕方のないことなのだ。
それから、殿下も私たちも言葉を発することはなかった。
私たちはみんな、暗闇を眺めている。先ほどまでと違い、闇が重さをもったように感じられた。殿下は今、どんな顔をしているのだろうと、私は思った。
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