第32話 ファム・ファタール
一通り話すと、気が落ち着かれたのか。殿下は後ろに控えていたシュヴァルツの隣に移動された。
「して、シュヴァルツ。アレは一体、お前に何を話していたのか」
「戦う時にはどんな武器を使うのか、と」
シュヴァルツという男は、本当に要件の部分しか発さない。声を出すと減るとでもいうのだろうか。私は守役として、彼は護衛騎士として。共に殿下にお仕えしているため一緒にいる時間も長いのに、それでも彼の声を聞くことはあまりない。そんな敬語という概念が薄い彼の口調を、騎士として皇族に対する不敬という輩もいるが、当の殿下が気にしない。それに、騎士団長をしのぐともいわれる彼の強さが、次期皇帝の護衛騎士としての地位を揺るぎないものにしている。
日頃は殿下も無口なので、執務室などは沈黙が耳に痛いくらいだ。その二人が、一人の女について語り合っているとは。一体誰が信じるだろう。
「武器? 剣か槍かということか?」
「はい、それから、剣を使う時は何本使うのか、と」
「剣の本数? なんだその質問は……。まあ、いい。それ以外にはどんな話を?」
「マルスという男を知っているかときかれました」
「マルス、誰だそれは? アレは何かいっていたか?」
「自分がその知り合いに似ているから本人かどうか確かめたかった、と。もし似ている人がいるなら教えて欲しい、と」
「シュヴァルツと似た男、そうか。それで……、その……、お前、アレに名を呼ばれたのか」
「はい、“シュヴァルツさま”と呼びかけられました」
「そうか……」
それだけ聞いて、殿下はまた少し不機嫌そうに歩き出す。シュヴァルツは気にした風もなく、護衛騎士らしく周囲を警戒しながらその後ろをついていく。
事情があって、やむを得ずお傍を離れてまだ10日も経っていないはずだ。なんということだ。殿下は生来、無口であまり表情のない方であった。幼少の頃より何事にも秀で、一を聞いて十を知る。文も武も、教えられたことは砂地に水が染み込むように吸収してしまう。何もかもがあまりにも簡単で、子供なのにもう人生に飽きているような様子だった。
ご学友にと集められた年齢の近い子供たちを、“子供は苦手だ”と遠ざけられた。何事にも殿下ができすぎてしまったために、友にも競争相手にもなれず、弟妹のように殿下が面倒を見る形になってしまったことに疲れたようだ。
10歳も年の離れた守役の私に、友のように接してくださる老成した方であった。
年老いた賢者のように皮肉げで、自分の才気を持て余したように傲慢なところもあった。だが、次期皇帝としての自分に対する周囲の期待や理想を汲み、そんな自分を無表情な仮面の下に隠す。察し良く器用な方。それがどうだ。年端もいかぬ少年のように、他人に心のうちを話して聞かせるなど。一人の女を思って、愛おしげな笑みを浮かべるなど。
あれ程までに好意を剥き出しにされるとは。意外でもあり、長年お傍にお仕えしている守役として嬉しくもあった。男としてはその恋を実らせて幸せになって貰いたいと思う。しかし、家臣としては認められない。出自も定かではない、森に馬と暮らす女。あのような素性の知れぬ者を皇帝の妻にはできない。
何でもできる、何でも持っている。だから退屈に満ちた殿下の世界。それでも我がままをいうわけでもなく、皇帝になるものとして“民を幸せにしなければならない”と自覚を持ち、淡々とその責務を果たしてこられた。
民を愛さずとも、その振りはできる。失政のない手堅い皇帝になると思っていた。私欲のない、義務を果たすことを厭わぬ麒麟児。それが退屈を紛らわすための手慰みだとしても、結果として治世が安定するなら問題ではない。
それがどうだ。何事にもしらけた瞳が、すっかり鳴りを潜めていた。当り前に人に傅かれ、慈悲深げにふるまい、気まぐれに寵を投げ与える。そんな殿下が女の笑顔一つのために、人が変わったようにあれやこれやと気をもんでいるなんて。それどころか、ままならぬと己の無力を笑いさえした。ギラギラした目をして。退屈という厚い氷の下に、あのような熱の塊を隠しておられたか。いや、あの女が氷に火をつけたのかもしれない。恋という魔法で。
あの女を引き離さなければ、君主としての無力さ、歯がゆさと勘違いしているうちに。殿下にこの恋を気づかせてはならない。気づけば殿下は止められぬ。素性の知れない訳アリ女だからと迷い揺らぐ方ではない。欲しいとなれば何を置いても彼女を手中に納め、決して離しはしないだろう。そして、皇家の外戚の座を狙う国内勢力の危ういバランスやこれまでの慣習、ルールなど歯牙にもかけず踏み砕いてしまうだろう。
彼女はきっとファム・ファタール。殿下を、引いては国を乱す“運命の女”。
「国のためにならない」
殿下の中に生まれた今はまだ小さな炎を、再び氷に閉じ込めてしまわなければ。よい役回りではない。だが、殿下のおそばで信頼を受けている私にしかできないことだ。
一方で、もう一人の自分がささやく。自分の無力さ、愚かさを受けいれて笑っておられた今の殿下ならば。あの恋心の先に、希代の名君の誕生があるのではないか? 私は歴史的瞬間に立ち会えるかもしれない、そんな誘惑に負けそうになる。しかしリスクがあまりに大きい。
殿下は、いずれ自分の即位後に一番利の大きい女と結婚するといっていた。婚約者を作らず、貴族たちが自分を競り落とすために家門の娘を競わせ、値を吊り上げていくのを冷めた目で眺めておられた。何年も続いてきたそれは、遠からず落札の木槌が打たれるはずだ。正しく政略結婚をされるだろうとこれまで入札を重ねてきた貴族たちが、獲物を横取りされて黙ってみているはずがない。
排斥しなければ。殿下にそれと気づかれぬよう優しい手段で。真綿に包むようにして遠ざけなければならない。これこの通り、もう殿下には何も心配されることはございませんよ、と。殿下がこの恋に気づく前に、速やかに、静かに、確実に殿下が近づく必要性も理由も隙もなくしてしまう。わかりやすい別の形の幸せを与えよう。
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