第31話 恋を知った男
なにやら殿下の様子がおかしい。迎えにきた兵たちを鷹揚に労ったかと思えば、急に不機嫌そうな素振りを見せる。いつもの野営のように、手づからスープをふるまうと大きな鍋を持ち出して焚火にかけているが気もそぞろ、鍋よりもよほど女のほうが気になっているようだ。
当の女といえば、そんな殿下を気に留めることもなく、ひな鳥のようにシュヴァルツの後をついて回っている。それをチラリチラリと横目で見ながら鍋を掻きまわしている殿下。てっきり女のほうが殿下にのぼせ上がっているいるのかと思えば、あの殿下が袖にされているなんて。こんな面白い構図は見たことがない。他人事であれば笑い話にでもできたのだろうが。野営の準備や馬の世話をしている兵たちは、このおかしな状況に気がついていても素知らぬふりを決め込むようだ。それでこそ近衛だ。
あの女、ローリといったか。こんな森の中に馬と暮らしているなんておかしい。水はともかく、食糧をどう調達しているのか。女一人では必要とするのは大した量でもないのかもしれないが、ここは馬車や荷車の入れない森の中。一頭の馬で運びきれるものだろうか。誰か定期的に食糧を運んでいる者がいるのでは? あの女本人に他意はなくとも、背後関係が気になる。殿下は何やら随分とお気に召しているようだが。
私は殿下の守役だ。殿下に近づこうとする者を見定めなければならない。しかし、先ほど殿下に釘を刺されてしまった。直接女を問い質すことはできない。そうなればもう一人の当事者に聞くしかない。私は殿下を散歩に誘いだすことにした。
「主、鍋は兵に任せて、少し湖の周囲を偵察に参りましょう」
殿下に声をかけると、心得たようにあっさりと頷いた。二人で湖の周囲を歩き出す。いつの間にか、シュバルツとナハトがすぐ後ろをついてきてた。あの女、置いてきぼりをくらったか。
「さて、何が聞きたい? ヴォイド」
前を見たまま、殿下がいった。
「恐縮です。では、まずあの女の素性から」
「知らぬ。ローリに聞いたところでは、ナハトに呼ばれてついて行ったらオレが森の際あたりに倒れていたそうだ。親切にも小屋に連れ帰り、何くれとなく面倒を見てくれた。先ほどもいったように他意はない。むしろ厄介払いしたいと思っているふしがある」
「あの娘、髪こそ短くしておりますが立ち居振る舞いは貴族そのもの。そのような素振りなどいくらもできましょう」
殿下は小さく笑った。
「アレはな、オレをことさらに貴人扱いした上で、自分は使用人然として振舞うのだ。これこの通り、動く家具にはどうか話しかけてこないでくださいとな。オレと同じテーブルにつこうともしない。オレが何故ここにいるかとか、そんなこともきいてこない。名前をいっても聞こえぬ振りをするのだ」
「名をお与えになったのですか」
私はつい、咎めるような口調でいってしまった。
「ちょっと興が乗ったのだ。教えただけだ。呼んでもいいとはいっていない」
「さようですか」
「にこやかな笑顔で上手い食事を振舞ってくれる。体の心配をしてくれる。根は優しい女なのだろう。だが、オレを拒絶してくる。まるで毛を逆立てた猫の仔のようだ。関わりたくない、話したくない、何も知りたくない、とな。早く出て行って欲しいといつも顔に書いてある」
殿下は笑ってみせたけれど、横顔は少し寂しそうだ。
「オレも最初は好都合だと思った。オレの素性を知りたがらず、体が治れば多少の礼金を置いて別れる。こんな森深くだ。二度と会うこともないだろうと思ったのだ」
「その通りです。明日、いくばくかの金を置いて別れる。それでおしまいです」
殿下は足を止め、湖に向き直る。
「アレはな、夜に時々泣くのだ。“どうして私じゃだめなの”といって、おぼつかぬ声で小さく泣くのだ。本人は覚えがないようだから、夢の中で泣いているのだろう」
「殿下、まさか寝室に?」
殿下は小さく首を振った。
「あのブチ馬、アレが泣くと窓の外に来るのだ。鼻息を荒くして、前足で何度も地面を掻く。心配なのだろう。主人思いのいい馬だ。アレは目を覚まさぬが、オレには十分な音だ。何事かと思ってな、部屋の前までいってみた。狭い小屋だ。夜の静けさの中では寝言も聞こえてしまう」
向こう岸を見やるように、殿下は遠い目をしている。
「次の朝に見ると、目尻が少し赤くなっている。ろくに鏡を見ないのか、本人は全く気づかないようだ。そして模範的な笑顔でオレに朝食を作ってくれる。そんなことが何度かあった。そのうちナハトまで出てきてな、オレのベッドの横の窓からじっとオレを覗き込む。アレが泣き止めば馬たちも厩へ戻る。さすがにオレは眠れなかった。あの状況ではな」
殿下が小さく苦笑した。
「馬たちが浮足立たなければ、俺は気づかなかったかもしれぬ。人知れず、一人きりで。夜のとばりの中でアレは泣くのだ」
「女にはよくあることでございましょう」
「そうかもしれぬな」
自嘲するように、唇を引く。
「俺は馬共と同じように、扉の前でただ立っているしかできなかった。泣き声が止むのを、息をひそめて待つしかできなかった。次期皇帝たるこのオレが、馬と同じに無力であったのだ。胸が掻きむしられるような心地であった。人が泣く姿がこれほど苦しいものかと」
そういって、大きく息を吐きだす。ため息をついた殿下など、私は初めてみたかもしれない。
「寝室に入って慰めてやるわけにもいかぬ。アレもそんなことを望まぬだろう。それどころか、泣いたことを知られたくすらないだろう。だからオレはいつも知らないふりをした。何かしてやりたくなったのだ。アレを少しでも喜ばせてやりたいと。楽しいと思わせたかった。笑った顔が見たかった」
「殿下……」
「城にいる女たちならドレスや宝石を与え、オレの名を呼んでいいといえば喜色満面の笑みを見せてくれよう。だがここには何もない。試しに名を与えてみたら、アレは一瞬呆けた後に、それはそれは嫌な顔をして聞こえなかったふりをしたのだ。あの顔は見ものあった」
本当に楽しかったのだろう。一人で思いだし笑いをしている。守役として長くお仕えしているが、子供の頃とあわせても、こんな殿下は見たことがない。
「ブチ馬を褒めた時、アレは笑ったのだ。満面の笑みで、前に見せてもらったシュヴァルツの赤子のようであった。世界には何も悲しいことなどないというよな無邪気な笑顔であった」
その場面を目に映すように、殿下が微笑む。これは……。
「オレは調子に乗ってな、もっと喜ばせたいと思ったのだ。それで野営食をつくってやることにした。兵どもがいつも上手いと喜んでくれるからな。オレが作ればアレも楽ができるであろう? 最初は少し迷惑そうであったのだがな。その後にありがとうと言われたのだ」
殿下が、それはそれは嬉しそうに笑った。
「あれからオレはいろいろ頑張っているのだが、ブチ馬を褒めた時以上の笑顔は見られぬ。オレもまだまだだな」
また、殿下が歩き始めた。
「民を幸せにしなければならぬと教えられてきた。できる男だと自負してきた。それなりに実行できていると思っていたのだ。国は富み、民は概ね平穏な暮らしがてきている。城下をいけば皆が笑顔でオレに手を振る。次代の君主として満足していた。それがどうだ、たった一人の女の前に、オレは無力だ。泣き止ませることもできず、馬を褒めねば笑ってもらえぬ」
そんな言葉と裏腹に、殿下はとても満足げにみえた。
それは君主としてではなく、一人の男として向き合っているからですよ、という言葉は告げなかった。殿下は皇帝になるお方。森で出会った得体の知れぬ小娘のことは良い思い出にしてもらわなければ。
「つまらぬ話をした。なぜかお前に聞いて欲しかったのだ。」
「さようですか」
「いかんな、饒舌な男では嫌われてしまうやもしれぬ」
ここにいるのは明らかに恋を知った男。本人はまだ気づいていないようだが。
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