第28話 湖畔にて
いたずらが成功した子供のような笑顔を見ながら、私は言葉を失っていた。
“アーノルド”
それは私の聖域。女子供を守る強い男、強いロボットたちの「中の人」の本名だ。いいなあ。いやいや、そうじゃない。私がこの外見でその名を名乗っても怪しいだけだし。アーニーとかはちょっと考えたことがなかったこともないんだけど。逃亡後は国外にでるまでは人と関わらないようにと名前を名乗る機会もなかったから。いや、そうじゃない。今は。私は心を立て直し、ニッコリと笑った。
「食事の支度をしてまいります、貴きお方」
聞こえなかったことにするという意思を強く示して歩き出す。と、後ろに気配が続いて来た。タビーかと振り向くと、彼がついてきていた。
「オレもやろう」
「何をおっしゃいます。貴きお方にそのようなことはさせられません。どうかお体を休めてください」
そして早く出て行ってください。言えない部分の代わりに、私はもう一度力強く微笑んだ。
「オレはこう見えても料理は上手いほうだ。ことに臨めば一軍を率いる身であるからな。野営の術は一通り叩き込まれている。中でも食事は兵の士気に関わることだ。前線ではやむを得ないが、それ以外の場ではやはり温かい汁物などをふるまって兵どもの鋭気を養ってやらねばならぬ」
彼が何やら語りだした。こういう時、どんな顔をしたらいいのかわからないの。私の心が無になってしまった。何も聞きたくない、知りたくないと言っているのに。今何かものすごい追加情報がでてきた気がする。気がするだけだ、……そう、気のせいだ。そういうことにしよう。ここは平常心だ。
「あの、私がご用意いたしますので、どうか」
“ご遠慮ください”と心で叫んだ。
「なに、こうして体も動かせるようになったことであるしな。これまで任せきりですっかり世話になってしまった。出立する前の体慣らしもかねて、恩を少しでも返させてもらいたい」
そういわれると断りにくくなってしまう。出て行ってくれる気もあるとわかって安心した面もある。私が答えあぐねていると、旨いものを食わせてやろうと背中を押されてしまった。
「狭いな」
小屋のキッチン部分で、彼は少し動きにくそうにしている。あなた様が大きいのでしょう、と心の中で答える。最近の私は心の中がとてもおしゃべりだ。いいたいこともいえないこんな世の中じゃ……。
棚や引き出し、木箱などをあちこち開けて入用なものを台の上に揃えていく。
「鍋はこれか、小さいな。 これでは少ししか作れぬ」
「ここには食べる者は少ないですから」
「まあ、そうだな。ナイフはあるか?」
「こちらです」
「借りよう。では、今日はお前がテーブルで待つとよい」
そういって準備を始める様は、本人がいうだけあってなかなか手際がいい。
「野営の時は台が出せずに地べたに座って作業をすることもある。ここはとてもやりやすい」
機嫌よさそうにお芋の皮をするすると剥いていく。あれ? すごく上手くない? 皮が細切れにならずに、長く薄くつながっているよ? 内心の意外さが表情に出てしまったらしく。
「上手いであろう? 兵たちにふるまう時は木箱単位で剥くからな。上達したのだ」
さも自慢げにいいながら、あっという間に野菜やベーコンを切り終えてしまった。
「さて、火種はあるか」
材料を鍋に移しながら、彼は周囲をうかがっている。ないよ。いつも火魔法でボッと薪を燃やしちゃうからね。しょうがない。私は椅子から立ち上がり、なるべくキッチンから離れた木箱の前にしゃがみ込む。箱の中を探るふりで、アイテムボックスからそっと火打ち石を取り出した。
「どうぞ、こちらをお使いください」
「助かる、手間をかけたな」
彼は火打石を手に竈の前に屈みこんだけれど、どうにも狭すぎたようだ。この小屋を使っていた庭師のおじさんたちは、彼のような長身細マッチョではないもんね。
「そこで待て。煮炊きは外ですることにする」
おもむろに立ち上がると、彼は小屋を出て行った。後を追って私も外にでる。彼は小屋から少し離れた場所にサクサクと小さな穴を掘り、湖の畔で集めた石を並べて、あっという間に小さな竈を組んで火を起こした。本当に手馴れているのだ、と感心してしまった。
「お前もそこに座れ。こうして火の番をしながら鍋の煮えるのを待つのは楽しいものだぞ」
向いに腰を下ろうそうとすると、こちらだと彼の隣を示された。
「俺が火を調節するからな。向かいでは薪が爆ぜたり、風の向きで火の粉が飛ぶこともある。こちらのほうが安全だ」
そういうものなのだろうか? 私はもちろん、“私”も日本でキャンプなどしたことがなかった。まあ、小さな竈だ。向かいも隣もあまり変わりはない。いわれた通りに隣に腰を下ろした。それを見て、逆に彼が立ち上がる。
「少し火を見ていてくれ」
そういって小屋に入っていった。
人間たちが外で何をしているのかと、気配を察したタビーたちがやってきた。焚火から少し離れた場所で、こちらを伺いながら草を食みはじめる。彼が何かすれば、またタビーが助けてくれるだろう。私は少し安心した。タビーはなんて頼りになるいい子なんだろうか。
「火を見ていろといったであろう」
草を食べるタビーたちを眺めていたら、いつの間にか、少し呆れた顔で彼が戻ってきていた。木箱に食器や調味料、パンのかごなどをいれて抱えている。あとはなぜか毛布を抱えていた。
「ちょっと立ち上がってみろ」
と私を立たせた。毛布を二度三度折りたたんで地面に置く。
「さあ、ここに座るといい」
「いいえ、私など。あなた様こそお使いください、貴きお方」
「俺はいい、野営で慣れているからな。だがお前には地べたは固く冷たいであろう。女は体を冷やしてはならぬと聞く。さあ、座れ」
確かに、焚火は熱いくらいだけど、お尻が痛くて冷たかった。公爵令嬢として育ったこの体は脆弱だ。いつも地面に座るときはタビーに寄りかかっていたから、あまり感じたことがなかったのだと今さら気が付いた。
「ありがとう存じます」
私は毛布に座らせてもらうことにした。もとは私のものだしね! いや、公爵家のものか。まあいい。
隣に腰を下ろした彼が、長い脚を折って胡坐をくんだ。この世界にも胡坐があるのだな、と私は変なところに関心をしていた。
それからは特に話すこともなく。並んで焚火とお鍋を見ていた。薪を調節し、鍋をかき混ぜ、調味料を加えて味見をして。パンを軽く火にあぶり、チーズを挟んで渡してくれた。いうだけあってスープも美味しかった。とっても偉そうな彼の、とても生活感のあるさまが、なんだかとてもおかしかった。見ていると、私にも薪をくべさせてくれた。悪い人ではないのだろう。
キラキラと光を反射する湖から森へ流れる風の匂い。パチパチと薪の爆ぜる音。時々、湖で魚のはねる水音がする。明るくて静かな世界。キャンプっていいなあ。“私”の世界でキャンプブームがあったのもわかる気がした。
「ありがとう存じます」
私は彼を見ずに、焚火に向かってそういった。
「よい」
目の端で、彼が小さく笑った。それからまた、何をいうこともなく、二人で焚火を眺めていた。
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