第25話 彼の名は

「はあー、私、なんか怪しすぎない?」

自室の扉を背に、息を吐きだした。


黒髪の人、目が覚めてくれてよかった。食事も結構食べられていたから、すぐに元気になるだろう。しかし、ボロが出ないうちに部屋に逃げようと思ったタイミングで名前を聞かれるとは思わなかった。一瞬言葉に詰まって、とっさに偽名が思いつかずに言い淀んでいたら、まあまあいい感じに誤解してくれたみたいでよかった。ローリ、ほんの数日、私はローリ! 音も似ているから、呼ばれて気づかずに無視ということはないだろう。


「ここは帝国に近いところなのかもしれない」

敵と疑われた寝起きの時から目覚めた時まで、彼は迷うこともなくずっと当たり前に帝国語を話している。

「私の帝国語も通じていたみたいでよかった」

腕を掴まれた時は咄嗟のことで上手く話せなかったけど、食事の時の様子では疑われてはいなかったようだ。家庭教師としか会話をしたことがなかったから、本場の人にちゃんと通じるか不安だったけど普通に会話できた! お妃教育が実生活で役に立った初めての瞬間ともいえる。


帝国は長い歴史と広大な領土を持ち、周辺国に多大な影響力を持っている。と、これもお妃教育で習った。帝国語は周辺国の上位貴族が身に着けるべき教養とされており、実質的なこの大陸の公用語として一部の商人なども習得しているという。


地理的にみて、逃げ出してきた国からすると隣国というには少し遠い。大森林と呼ばれる樹海地帯を挟んで9時方向にある大国だ。私は樹海地帯を12時方向に突っ切った先の近い隣国に移動するつもりだったのだけれど、大分明後日の方向にきてしまっていたようだ。タビーに申し訳なさを感じる。あとで角砂糖を持っていこう。


「でも、帝国で帝国語を話すのは当たり前のことだから、怪しまれずに市中で暮らすのならこっち方面でよかったかも」

もともと目指していたほうの国の言葉は嗜み程度だったから、それなりに習得できた帝国のほうが生活に不便はないだろう。いずれは帝国の町にいってみよう。いくつもの国や民族を取り込んで、いろいろな文化が混在しているときく。食べたことのないものや、見たこともないものもたくさんあるだろう。それに。


「もしかして、お米にも出会えるかもしれない」

日本人の価値観を得てから、お米と魚への渇望が続いている。お魚はとりあえず食べられたので、次はお米! ごはんだ!

でも、もう少しここでゆっくりしていたい。早くあの人を送り出してのんびりしたい。早く元気になってもらわなくては。


最初こそ問題があったが、その後は波乱もなく数日が過ぎた。彼は朝昼晩モリモリと食事をとり、体を休め、大分回復してきたようだ。

「今日は少し体を慣らす」

そういって、湖の畔をゆっくり歩いて行った。すぐ後ろを黒馬がついていく。黒髪の美丈夫に従う黒馬。背景は美しい湖と森。

「絵になるわねえ」

冷やかすようにいって、私は皿洗いに戻った。


厩の前でタビーにブラシをかけていると、湖をぐるりと周って彼が戻ってきた。

「ブラシはもう一つあるか?」

「こちらをどうぞ」

隣に立って、彼も黒馬にブラシをかけ始めた。


「あなた様がお倒れになっていたとき、必死で私を呼びにまいりましたよ。主思いの良い馬ですね」

「ナハトだ」

「ナハト?」

「異国の言葉で夜という意味だ。この黒い毛並みにぴったりであろう」

「ああ、馬の名前ですか。なるほど、いい名ですね。ツヤのある漆黒の毛並みは月に照らされた夜のようです」

「お前の馬はなんという」

「タビーでございます」

「そうか、いい馬だ」

「そう思われますか?」

「ああ、馬体を見ればわかる。ナハトにも負けぬ豪脚であろう」


思いがけずタビーを褒められて、私は嬉しくなった。

「忠誠心も高いようだ。いつもお前を気にしている。今も愛嬌のあるような素振りしながら俺をにらみつけているぞ」

カラリと彼が笑った。

「タビーは優しくて強い馬なのです。いつも助けられています」

「そうか」

そうしてまた、それぞれの馬にブラシをかけ、濡れタオルで拭いて世話をして。

互いの馬自慢で思いがけず楽しいひと時を過ごした。


「では、私は先に失礼して食事の支度をいたします」

まだブラシをかけている彼に声をかけた。

「お前、なぜ俺の名を訊かぬ?」

先ほどまでの緩い雰囲気を消して、無表情に彼がいった。


「お互いのためです、貴きお方。勝手ながら、何やら訳ありとお見受けいたしますゆえ。山出しの小娘にできることといえば、余計なことは伺わずにお身体の回復をお手伝いするだけと存じます。あなた様はそう遠くないうちに出立されるでしょう。その時にはささやかですが食糧などを準備させていただく所存です」

「そうか、賢明であるな」

「恐れ入ります」


胸に手をあて、小さく膝を屈めた。まずい。彼の雰囲気に押されてつい上位者に対する貴族の挨拶を返してしまった。余計なことを言われないうちに逃げなければと向けた背中に彼の声がぶつかった。

「アーノルドだ」

「はい?」

思わず振り向く。

「俺の名はアーノルドだ」

してやったりという顔で楽しそうに笑う彼に、小さく胸の鼓動を感じた。


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