第24話 君の名は
なにやらいい匂いがする。空腹を覚えて目を覚まし、体を起こそうとしたが上手くいかない。
「なんだ、これは? どうなっている?」
「毛布の上からベッドごと、縄で結んであるから起き上がることはできません」
頭を向けると、女がスープ皿を手に立っていた。
「先ほど、寝ぼけたあなた様に敵呼ばわりされて抑え込まれたのです。何度も同じ目にあうわけには参りませんから、そうして簡単には起き上がれないようにさせていただきました」
意識がある状態であれば、いきなり押し倒してきたりはしないでしょう? とすました顔でいう。
「押し倒したなどと、人聞きの悪い」
「覚えていらっしゃらないのですか? 私は痛い思いをしたといいますのに」
「お前は誰だ?」
「先ほども申しましたけど、黒馬に乞われてあなた様をお助けした者です。襲った者ではありませんから、その点お含みおきください」
「そうか、助けてくれたことには礼を言う。それで、そろそろこれを解いてはもらえぬか」
「もう押し倒さないとお約束いただけるのでしたら、貴きお方。スープは召し上がれそうですか?」
「だから、押し倒したなどと……。もうよい、約束する。縄を解け。スープをいただこう」
女はテーブルにスープを置くと、ベッドに巻き付けた縄を解いてくれた。ようやく体を起こすと、くらりと眩暈を感じる。目を瞑り、こめかみを抑えてやり過ごした。
「二日近く目を覚まさなかったのです。無理はなさらないでください。スープはベッドにお持ちしましょう」
「大事ない。テーブルでいただこう」
大雑把な木のテーブルには美しいクロスがかかっている。素朴な木の皿。具沢山のスープ。白パンにたっぷりのバター。美しい銀のスプーン。使い古しの木のゴブレット。陶磁器の水差し。この食卓は何ともちぐはぐだ。
「毒見をいたしましょうか?」
ここに一番ちぐはぐな女がいう。
「問題ない。お前に殺す気があれば、そもそも俺は目覚めなかった」
女がクスリと笑って、椅子をひいた。。
「食べられるようならお肉かお魚もお出しできますが」
「では、魚をもらおう。このような森の中で魚とは趣がある」
「その湖の恵みです」
魚をテーブルに出すと、女はキッチンのほうへ下がっていった。
「座らないのか?」
「同じテーブルにつくことはできません、貴きお方」
「なぜ俺をそう呼ぶ? お前は何を知っている?」
「何も存じ上げません。ただお召し物や黒馬からやんごとなきお方とお見受けしたまで」
俺は黙ってスプーンを口に運んだ。
「なかなかいい味だ」
「空腹は最高のスパイスと申します」
「素直に褒められておけばよいものを」
意固地な奴だというと、女はすまし顔を少し崩した。
「私は自室に下がります、貴きお方。食事の後はまたお休みになったほうがよろしいかと」
「お前、名は?」
女は2~3度瞬いて、おぼつかなげに小さく呟いた。
「……ロ」
「ロ?」
「リ?」
なぜ疑問形なのだ? 偽名ならもっと上手く名乗ればよいものを。まあいい。
「ローリか」
あえて確認すると、口もとだけで微笑んだ。
「黒馬にも食事は与えてあります。しっかり食べて裏の厩で休んでおりますよ」
そういって女は部屋を出て行った。
ここは奇妙な空間だ。森の中にぽつんと立つ小ぎれいな小屋。板張りの床に直置きされているベッドや寝具は、到底平民が使えるものではない。その隣に積まれた木箱は薄汚れていて、いかにも貴族然とした女が料理をしている。侍女のようにふるまっているが、その所作は明らかに上流階級のものだ。
それにあの言葉。同じ言語を話していても、地域や階級によって発音や単語の選び方は変わってくる。高位貴族だって領地で育てばお国訛りが多少はでる。あの女の発音は美しすぎる。まるで一度も帝都から出ることなく育てられた令嬢のようだ。焦げ茶の髪に焦げ茶の瞳。色合いは地味だがなかなかに美しい。だがありえない。肩につくほどの短い髪に、薄く日に焼けた肌をしているから。白い肌と長く伸ばした髪が令嬢の証。それらを維持する財力と人手、衣装や装飾品とあわせて家門の勢威の程を示すためのものだ。
靴は少しくたびれているが、着ている服の仕立てはまあ悪くない。森に暮らして馬の世話をする令嬢? いや、ありえない。どこぞの貴族の隠し子だろうか? このような森の小屋に娘が一人で? ここには人の気配がない。いくら隠したいにしても不用心に過ぎる。
行き倒れた男を部屋に招き入れる迂闊さ。挙句の果てにはベッドごと縄で縛り上げる突拍子のなさ。放り出すこともできように、食事の世話までしてくれる。お人好しなことだ。一方で俺の事情を決して尋ねようとしない抜け目のなさもある。あの年頃の女であれば普通、どうしてここにいるのかとか、なぜ倒れていたのかとか、俺に確かめずにはおれないはずだ。聞かないこと、知らないことで我が身を守ろうとしているのだろう。全く、ちぐはぐな女。
「わからん」
俺はスプーンを置いた。気づけばどの皿も空になっていた。覚えず口もとが弧を描く。ローリが料理上手であることだけは確かなようだ
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