第20話 スローライフ

「タビー、ごめん、ちょっと痛い。わかった、ありがとう。大丈夫だから」

森に囲まれた美しい湖の畔で、私はタビーに甘噛み、…髪をむしられていた。公爵家を出るときに、腰まで伸びた髪を肩程に切ってきた。タビーもむしりやすくなったというものだ。励ましてくれているのだろうけど、タビーは馬の中でも大きく力が強いので割と痛い。鼻づらを撫でると離してくれた。

「こんな綺麗な湖のそばにきたから、ちょっと感傷的になっていただけよ」


あの時はつい、おかしなテンションに任せて思いつく限りいろいろ持ち出してしまったけれど。両親や兄弟はともかく、使用人や領民が困ったことになってしまったらどうしようかと今更ちょっとだけ自責の念に駆られていたところだ。草地から立ち上がると、タビーはフヒンと鼻を鳴らした。


あの日、公爵家から逃げ出してそろそろ半月くらいになる。初日は夜中の出発だったから、頭上に大きめのファイアボールを浮かべたものの視界の悪い中で走らせることになり、タビーには無理をさせてしまった。休み休み、一日移動したあと、捜索の手配がまわっていると困るので、夜は街道から外れた人目につかない場所に頂戴してきた小屋を出して休んだ。


タビーを連れ出す時に目についた小屋を貰ってきたけれど、これがなかなか便利な代物だった。庭師達が作業用に使っているようで、休憩や打ち合わせができるように大きなテーブルと複数の椅子、暖炉に簡単な調理台もついている。隣は着替えや仮眠で使っていたのか、個室になっていた。裏側は造園用具や肥料、苗や種などを保管したり、鉢植えや育苗の作業ができるようになっている。ここをタビーの部屋にすることにした。


自分も野宿はしたくないし、タビーだって馬とはいえこれまでちゃんと馬房で暮らしてきたのだから、やっぱり屋根と壁のあるところで休めるほうがいい。厩舎に比べて天井は低いけれど、資材や用具を取り払えば広々としている。ここならタビーもくつろいでくれるだろう。

私は個室のほうにベッドを出した。これまで使っていた天蓋付きの寝台は大きすぎてそうそう使えないだろうと思い、上級使用人達の寮の空き部屋をいくつか空にしてきたのだ。


上級使用人は中級下級貴族の次男三男、行儀見習い令嬢なので、寮は個室だしそれなりの家具を使っている。一緒にいただいてきたカーテンもかけて、なかなかくつろげる部屋に仕上がった。公爵家の自室と比べれば、クローゼットルームよりも小さな部屋だけど。ここには私を責めたり蔑んだり傷つけたりするものは何もない。侍女や執事、家庭教師の侵入もない。私だけの空間だ。日本風にいえば“1K+倉庫付き”といったところか。

「狭いながらも楽しい我が家、ね」

きっと逃げたであろう“私”は、その後一体どんな部屋で暮らしていたのかなと考えた。


何日かをそんな風に過ごして、とうとう国境が見える場所までたどり着いた。このまま関所を超えられるのか、私は迷っていた。後を追えないように馬具はいただいてきた。だけど、町に行けば買えないことはない。金庫もいただいてきたけど、それ以外にもお金を保管してある場所があるはずだ。私たちが夜に休んでいる間に騎士達に追い越されている可能性はある。伝書バトのような仕組みで、関所に手配が回っている可能性も捨てきれない。関所を超えて街道を行くのが一番楽で安全ではあるのだけれど…。


水と火種には困らない。寝泊りする小屋も食糧もある。

「タビー、ごめんね。あなたには負担をかけるわね」

少し汗ばんだ白い首をなでると、フヒヒンとタビーがたてがみを揺らした。私は関所から少し離れた場所に広がる、終わりの見えない森へと馬首を巡らせた。


そうしてタビーと森を行くこと、何日経ったのか? 私たちは美しい湖の畔にたどり着き、少し体を休めることにしたのだ。


「私、これでも少し落ち込んでいるのよ?」

国境は超えているはずだけど、海どころか、町も村すら見つからず、未だ途切れぬ森の中にいた。そう、私たちは道に迷っていた。いや、道すらない。森をさ迷っている、か。

「まあ、衣食住に問題はないし、こんなに美しい湖も見られたしね」

タビーの首に両腕を伸ばすと、少しかがんでくれる。馬の体温はとても高く、顔をよせると熱いくらいに感じる。この世界にきて、自分以外の体温を感じたのは初めてかもしれない。日本であった親子やお友達とのスキンシップは、この世界では、いや、貴族の世界ではない。


「タビーがいてくれて本当によかった。乗合馬車で逃げることも考えていたんだけど、タビーと一緒で本当によかった。ありがとうね」

自分の都合で連れ出してしまったタビーだけれど、街道を駆け、森を歩き、馬具を外せば草地で寝転ぶ様子を見ると、タビーもこの旅を結構楽しんでくれているのではないかと思えた。


「ねえ、ここで小屋を出して何日か休まない? 私たちずっと逃げてきたでしょう? 少しはお休みも必要だと思うの。ここは森の中でも開けていて明るいし、タビーも走り回る場所があるでしょう?」

湖のお魚も食べられそうだし、という言葉は飲み込んでおくことにした。

「そうだ、お風呂も出しちゃおうかな。公爵家の自室のお風呂も持ってきたの。今までは急いでいたから夜に濡れタオルで体を拭くしかできなかったけど、ここまで逃げれば誰にも見つけられないと思うし。湖の畔で露天風呂なんて贅沢じゃない?」

“スローライフ”という単語が頭に浮かんだ瞬間だった。


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