第19話 私が消えたあと2
ディケンズの朝は早い。高位貴族にしては、という注意書きがつくが。だが、その日は常よりも更に早い時間に起こされた。
「旦那様! 旦那様!」
執事に揺り起こされて、不機嫌そうに眉を顰める。
「どうした、王が馬から落ちでもしたか」
「お嬢様が、ローザリンデ様がいなくなってしまわれて」
「いなくなった? あれは牢に入れていたはずだ。まさか誰かが勝手に部屋に戻したか」
「お部屋にもおいでにならないのです。といいますか、その、なんといいますか…」
「なんだ、はっきりしろ」
「その、ないのです。ドアや窓が」
どうも理解がすすまない。寝起きのせいかもしれないとディケンズは思った。
「いなくなったのはローザリンデという話ではなかったか?」
「お嬢様もいないのですが、ドアも、窓も、他にも寝台や家具や部屋の中が何もないのです」
「お前が何をいっているのかわらかない。ローザリンデの部屋の家具? 誰かが牢に運ばせたということか?」
「そうではなくて、牢にお嬢様がおらず、お部屋は空で、それだけれはなくていろいろ空なのです」
早朝叩き起こされて訳のわからない話をされているのに、不思議と怒りはわかなかった。意味もなく取り乱す男ではない。確かに何かがあったのだろう。お互いに少し落ち着く時間が必要だ。
「埒が明かぬ。まず着替える。それから水を持て」
この執事は父の代から仕えてくれている。そろそろ引退を考えてやったほうがいいかもしれない。そんなことを考えながら身支度を整え、水を飲みほした。
執務室に移動し、机に座る。
「それで、もう一度落ち着いて報告をせよ」
改めて執事に話を促すと、
「閣下!」
従者がノックもせずに執務室に飛び込んできた。
「お前まで、今日は一体なにごとだ」
「閣下、武器庫が大変なことに!」
「武器庫? 」
「武器庫が空なのです。何もないのです!」
「まさか盗賊か?」
ローザリンデの部屋と武器庫が空で、ローザリンデがいなくなった。盗賊が入り込んで盗みをした挙句にローザリンデを連れ出したのだろうか?
「おかしいのです。荒らされた形跡がないというか、武器庫の格子と二重扉がないのです」
「見張りはなんといっている?」
「見張りは通常通り二人立っておりましたが、二人とも倒れておりまして。今だ目を覚ましません」
「わけがわからん」
「旦那様! 大変なことが」そこにまた上級使用人が駆け込んできた。
そんなことが何度も続いた。全員の話をまとめると。
ローザリンデの部屋、牢、武器庫、食糧庫、備品庫、リネン庫、そして金庫が空になっていた。窓やドアが壊された形跡がなく、丸ごとなくなっている。それだけの物量だ。余程の盗賊団であろうと騎士達を付近の捜索にだそうとしたら、今度は馬具すらないという。なぜか庭師の作業小屋も。
ここまで話をきいて、ようやく思い至った。作業小屋など人が持ち運べるものではない。盗賊団などではないだろう。武器や食料を持ち運ぶなど、どれだけの馬車と人手がいることか。まして小娘一人にできることではない。ありえない。しかし。
「ローザリンデか…」
手段や方法はわからない。だがこのタイミングといい、いなくなったローザリンデの仕業としか思えない。
「くそっ」
ディケンズは両のこぶしで机を叩いた。どうやって逃げ出した? どうやって盗みだした? 何を隠していた? 言いつけに背き、契約書を破り捨て、牢から逃げ出した。なぜだ?
「そんなことができる能力があるなら、あれを王妃にしてやってもよかったものを」
「旦那様…」
執事が情けない顔をしてこちらを見つめてくる。
「下働きをやって下町でまず馬具買わせろ。目立たぬように3つか4つだ。それで領地に早馬を立てる。金や物資を少しずつ運ばせよ。こちらも目立たぬように少しずつだ。それから」
次々と指示を出していく。その時、誰かの腹が鳴った。
「ああ、もう昼になるか。食事はどうした?」
「何分、食糧庫が空ですので…」
ディケンズは大きく息を吐きだした。
「“水差しはいれてもいいが食事は抜き”か…」
ローザリンデの仕業であることを確信した。どうやら娘は存外執念深いようだ。
「旦那様、あの、黒パンでよろしければご用意できますが」
厨房頭がおずおずと申し出た。
「黒パン? なぜだ」
「食糧庫は空なんでございますが、ライ麦とオーツ麦、それから少しの塩ならございます」
「そんなもの、どれも馬の餌ではないか」
「下級使用人の賄用でございます、一応人の食べ物です」
厨房頭が気まずそうに答えた。
「それしかないのであれば仕方ない。食糧も下働きを町にやって目立たぬ程度に少しずつ買い集めさせろ。それから商会にいって通常の納品を少し早めさせよ」
使用人たちには箝口令を敷くようにいいつけ、全員部屋から追い出した。
寝台から起き上がって数時間なのに、もう重い疲労を感じている。椅子に深くもたれると、今度は自分の腹が鳴った。
「…腹が鳴るなど、人生で初めてのことではないか?」
確かに、今日はまだ水しか飲んでいない。これまで空腹など感じたことがない。いつも時間がくれば食事をとる習慣だった。水差しから水を注いで飲み干す。
「ローザリンデ、どこに行った。何を考えている?」
これまで逆らったことなどない娘だった。いつでも「承知しました」と従順だった。昨日から急におかしくなったと思ったらこのありさまだ。
いつでも人の顔色ばかり窺って、親にも王家にも婚約者にまで都合よく使われるだけの娘。人を利用することができない娘。机上の知識がいくらついても到底王妃なぞさせらぬ。そもそも王妃になりたそうにも見えなかった。言いつけを守って下級貴族の小さな家に嫁げばそれなりに幸せになれただろうに。
それにしても、昨日の、正面から自分を睨みつけ、契約書を破り捨てたあの顔はよかった。いつも俯きがちで自分を見なかったローザリンデ。
「あんな目もできるのではないか」
もっと早く見せていれば、お互い違った選択肢もあったかもしれない。だが、もう遅い。牢を破り、家中が麻痺する程の盗みを働いて逃げて行った。必ず捕らえ、報いをおわせなければならぬ。ディケンズ公爵家の当主として。
「次に会うときは、もう娘ではない」
それが貴族、青き血の理で生きるもの。
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