第16話 婚約破棄

「引っ越し先はどこの街がいいかなあ。あったかいのはいいけど、暑いまでいっちゃうとちょっとね。この世界はエアコンもないし」

図書室から持ってきた周辺国の概説書を読み比べていく。国の成り立ち、国民性、特産物、地理や天候について。お妃教育でも使っていた本だけど、目的が変わるととても楽しく読める。

「海の近くならお魚もおいしいかもしれないなあ」

王都は海から離れているので魚は口に入らない。お刺身やお寿司は無理でも、焼き魚とか焼貝とか焼きイカならありそうだ。なくても自分で焼けば食べられるし。


交易の盛んな港町なら就職先もみつかりそう。いくつかピックアップして、次は逃亡ルートを考える。逃げやすさも大切だ。乗合馬車でいくか、馬を一頭頂戴していくか。

「愛馬と逃亡の旅もいいかも」

まあ、愛馬はいないんですけど。


詳しい事情は知らされなくても、朝晩家族の食卓についていた「公爵家の長女」が自室に籠められている様子なのは使用人たちにもわかる。腫物に触るような侍女たちのピリピリした空気の中。夜な夜な食糧庫やリネン庫、倉庫などで物資を調達しながら、昼はこっそり乗馬の練習をしたり、今後の計画を練ったり。私にとっては平穏で静かな、そしてとても楽しい時間が流れた。


この家で生まれてから今まで、「今」が一番楽しい。人に嫌われないようにとか、評価されたいとか。この家から逃げ出すと決めたことで、そういう気持ちが切り取られたようになくなって。自分のこれからのことを自分で考えて、その準備をすすめていく。

「“私”が逃げると決めたときも、こんな風に過ごしたのかな」

相変わらず、あの時より先の夢はみないけれど。そんな風に“私”とのつながりを感じていた。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」

その平穏を乱す嵐がやってきた。執事の声だ。これまで、父の呼び出しは怖いばかりだった。でも、ここを出ていくと決めた私にとって何を言われようと痛くもかゆくもない。婚約解消関係の進捗状況を偵察できると思えば願ったり叶ったりだ。


執事のあとをついて父の執務室へと向かう。婚約解消を告げられたあの日から一週間。そろそろフロレンツィアとの入れ替え準備が整った頃ということだろう。別に報告してなくていいんだけど。


「失礼いたします」

執事が開けたドアをくぐる。あの日と同じように、父は執務机で仕事をしている。私が前に立っても、手を止める様子はない。私はもう、俯いたりしない。正面から父を見下ろす。


「お前の婚約破棄の手続きが整った。その書類にサインをしなさい」

「は?」

「婚約破棄が整ったといったのだ。さっさとサインしろ」

父が執事に向かって目をやると、書見台に書類とペン、インクがセットしてある。


「婚約は解消されたのではなかったのですか?」

「殿下は将来王になるのだ。おかしな瑕疵をつけるわけにはいかない」

「それがなんで婚約破棄なんて話になるのですか?」

声が少し震えてしまう。怒りなのか、悲しみなのかわからない。

父はようやく手を止めて顔をあげた。


「教会が認めた正当な婚約者がいるのに、男爵令嬢にのぼせあがった結果の婚約解消などと記録に残っては困るのだ。お前がたまたま王宮で話している二人を見て逆上し、男爵令嬢に手をあげたことにした。公式記録上はお前の瑕疵だ。我が家はお前に罰を与え、フロレンツィアと差し替える。持参金をたっぷりつけてな。王家は受け入れることで寛容さを示しつつ懐をあたためる。男爵令嬢は王宮で怪我の療養をする。婚約者を差し替える理由にもなるし、殿下の醜聞を被ることで我が家は王家に恩を売るいい機会だ。結婚前にせいぜい男爵令嬢と遊ばせてやれば殿下は今後我が家に頭は上がらなくなる。末永く、即位後もな」


楽しそうに笑う父から、私は目が離せなかった。

「それで、それが私に何の得があるのですか?」

「お前の得? そんなものはない。我が家の得になるということだ」


頭がカッと熱くなる。ダメだ。飲み込め。ぎゅっと口を強く結ぶ。手が震える。ダメだ。面倒になる前にサインをしてこの部屋を出るんだ。私はどうせ逃げる。何を言われてもかまわないではないか。でも…。

「私は、私は何もしていません。何も悪いことはしていません。なぜ私に瑕疵がつかなければいけないのですか? 王妃の器には足りなかったかもしれないけれど、私はずっと、ずっと努力してきました」

「努力がなんだ? お前には一度婚約者の椅子を預けた。お前に実力があれば何もフロレンツィアと差し替える必要はなかったのだ。結果はどうだ? お前は殿下を手中にできず、男爵令嬢に侮られ、貴族社会で謗りをうけた。王妃の器ではないと、今自分でもいっただろう。実力で役に立てなかったのだ。その身に泥を被って借りを返せ」

父は葉巻を切って火をつけた。


「どうして、私が? 私は何なのですか? なんで…」

「家の利益に貢献するのが貴族の娘の役割だ。この家に、公爵令嬢として生まれてきたから今のお前の生活がある。その身にまとう衣装も、体を作った食事も、身に着けた知識も全て公爵家の糧から得たものだ。公爵家の利益になることをするのは当たり前だろう」

頭が真っ白になって、何を言い返せばいいのかわからない。

「お前は2~3年領地でおとなしくしておけ。フロレンツィアが嫁いで少ししたら恩赦という形でどこかの寄子に嫁にだしてやる。公爵令嬢としては格が落ちるが、お前にはそのくらいがちょうどいいだろう」


私は書見台に駆け寄ると、書類を破った。

「何をしている?」

父は声を荒げるでもなく、冷ややかな目で私を見ている。

「承服できません」

「面倒をかけるな。いう通りにしろ」

「承服できません!」


父は一つため息をついて、執事に目をやった

「これを地下牢へ」

「旦那様?!」

「身の程をわきまえさせる。水差しはいれてもいいが食事は抜きだ」

「では、貴賓牢へ」

「一般牢でいい」

「…かしこまりました」


お嬢様、と執事に促される。私は父に退室の挨拶もせず、執事のあとに続いた

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