第12話 チート

ドアを叩く音がする。

「お嬢様、そろそろお仕度よろしいでしょうか?」

「…お願いするわ」

「失礼いたします」

侍女が入室してきた。


「今、何時くらいかしら?」

「昼前でございます。お休みのところ申し訳ないのですが、そろそろお声をかけたほうがよろしいかと思いまして」

「そうね、ありがとう。お風呂に入りたいわ」

侍女は一礼すると浴室の準備に下がっていった。


昨日、あのまま寝てしまったようだ。室内は大分明るい。いままでそっとしておいてくれて助かった。まあ、放置されていたともいうけれど。今の私にはちょうどいい。

入浴のあと、コルセットのない簡単な室内着に着替える。これまでの私なら、きちんとしない格好は不安に感じたけれど、今の私はもう、自室にいるのにコルセットなんて締めていられない。運ばれた軽食を済ませ、侍女を下がらせる。やっと一人になれた。早速寝台に寝転ぶ。この世界でも、食事の後にすぐ横になると牛になる、というのだろうか?


昨夜、寝台では前世の、あれから先の夢を見ることはできなかった。ただ、“私”が逃げ出すまでの生活で楽しかったことや好きだったものを、断片的に少し見ることができた。ネット小説やオンラインゲーム、デパートのイベントなど主にお金のかからないことを楽しんでいた。“私”も“お母さん”も、何も、誰の顔もぼんやりとしてわからないままだけど。楽しい、嬉しいという気持ちが目覚めた今も胸に残る。


今の私、「公爵家の長女」は苦しい立場だ。王太子の婚約者を降ろされ、自邸に閉じ込められている。味方をしてくれる人は誰も思いつかない。衣食住に不自由がない、それだけ。いずれ修道院に行かされるか、領地の屋敷に閉じ込められるか。良い未来は思い浮かばない。本当はとても辛いはずなのに、何故だかすごく遠く、他人事のように感じる。ローザリンデ、大変ね、と。前世のことを、辛いことも楽しいことも思い出して、気持ちがそちら寄りになってしまっているせいかもしれない。いや、恐怖に負けないように、“私”よりに心を置いて無意識に自分を守っているのかもしれない。


でも、いいのだ。私はここから逃げ出す。着の身着のままとはいかない。準備は必要になる。そのためにじっくり作戦を考える。ここから逃げ出す私にはもう、父に見限られようと、王都の屋敷を追い出されようと関係ない。むしろフロレンツィアには盛大に男爵令嬢を蹴散らしてもらいたい。


婚約解消を言い渡されたときに、何でエミリー様はわざわざ殿下にくっついてきていたのか。しかも私に謝ってみせて。何が「レオさま…」よ。今思えば、その太々しさには驚いてしまう。せいぜいフロレンツィアと潰しあえばいいのだ!


私は自分の足でここを出ていく、そう決めたのだから。悔しさも悲しさも、嬉しさも楽しさも、夢で伝わった“私”の気持ちだけが今の私を支えてくれる。誰にも奪われない私の味方。父は捨てるから、もう怖くない。王太子妃になれなくたって問題ない。家族に上辺だけ祝福されるような虚飾の結婚は必要ない。どこか遠い土地で“私”のように働いて、お給料で楽しいことをすることだってきっとできる。“私”は彼氏がいた気配が今見ている夢の範囲ではないけれど、それはそれ。今後に乞うご期待!だ。


今まで、王宮と自邸の往復ばかりだった。母に連れられていった他所のお茶会がせいぜいか。清廉潔白、身を慎んでお妃教育に励んでいた私はカゴの鳥で。経験値も知人もゼロに近い。でも、今の私には“私”がいる。働いたり、お友達と楽しんだりした経験を自分のものとして感じられる。“私”は私なのだから。溺愛家族もイケメン幼馴染もいないハズレ異世界転生かもしれないけど、“私”の記憶を得られただけでも、私にとってはチートなのだ。


「まあ、“私”の記憶で何かを発明して大儲けとかは難しいかもしれないけど…」

便利な道具を使うだけで、その仕組みは知らない。私でも作れるもの、小学生の時に学習雑誌の付録についていた水車なら仕組みはわかる。この世界水車、あるのかな? あ、化学の実験で味噌を作ったことがある。

「でも、この世界では味噌はさすがに売れなさそう」

具体的な解決策にはならなくても、とりとめもなく考えるだけで楽しい。どうせ自宅謹慎で時間はあるんだし。ゆっくりいろいろ考えよう。


ふとあることを思いついて、でも、実行するのは少し恥ずかしい気持ちになる。でも、これは異世界転生のお約束だし。この部屋には一人きりで誰もいないし。小さい声でそっと試してみるだけならいいんじゃない? 上手くいかなくても、それはそれ。どうせイケメン従者がセットされていない残念異世界転生なんだし。自分で自分に言い訳をしながら、思い切って!小声でつぶやいてみる。

「ステータス、オープン」


懐かしい、パソコンの電源を入れたときのような感覚で。目の前にヒョンッと画面が現れた。「おー! 神様、ハズレとか残念とかいってごめんなさい。当たり異世界転生だったかも?」

“私”という心の味方だけじゃなく、本当のチートを手に入れたかもしれない。

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