第10話 “私”が消えたあと
「娘は姉妹都市の提携イベントで出張に行くっていったんです。もう10日も帰ってこないんです。一体いつになったら帰ってくるんですか?」
「お母さん、落ち着いてください。先ほどから申し上げておりますように娘さんはもうこちらを退職しております。退職後の転職先などは伺っておりません」
「そんな、嘘よ。隠しているんでしょう? 娘をどこにやったの? 返してよ!」
年配の女性が叫んでいる。上司がうんざりした顔をしながらも、努めて落ち着いた声で同じ説明を繰り返している。
「あれ、どうしちゃったの?」
「なんかね、都市計画課の人が家出? しちゃったらしい。まあ、家出って歳でもないみたいだけどね」
「何それ? 家族に内緒で役所辞めて姿くらませちゃったってこと?」
「そう! なんかね、役所のイベントで出張に行くっていって出たっきり帰ってこなくて、部屋をみたら空っぽだったらしいよ」
「マジで? つか、同じ家に住んでてなんで気が付かないの? 空っぽになるくらい荷物運んでたら普通気がつくでしょ! ありえないー」
隣の課の女性達が集まって、ひそひそというには大きい声で盛り上がっている。いなくなってしまった“彼女”は私の同僚だ。短大卒の私と“彼女”は二歳違いの同期だった。微妙に年齢が違うこともあり、同期といっても当たり障りない世間話をする程度で特に仲が良かったわけでなはない。
何年も同じ職場にいたけれど、退職に備えて“彼女”の業務を一部、引き継ぐために何度か打ち合わせをしたこのひと月程が一番距離が近かったくらいだ。その間、日頃はお弁当持参の彼女と何度かランチを一緒にする機会があった。会計の時に、“彼女”がバッグから本を落とした。拾い上げると、それは色とりどりの付箋が貼られた古いガイドブックだった。
「東京歩き? すごい、いろいろ調べてありますね」
「ありがとう、これね、学生時代に修学旅行で使ったの。部屋の掃除をしていたら出てきて懐かしくなっちゃって、読み直しているところ」
バッグに本をしまいながら、懐かし気に目を細めていた。
「私も修学旅行、東京でした。ネズミーランド初めてだったんですよ」
「私も! 修学旅行で初めていった。あと東京タワーとスカイツリーも! これだけ付箋貼りまくって調べたけど、全然回れなかったんだよね。いつか、全部制覇したいな」
「いいですね! でも大変ですよ、新しい観光名所もどんどんできているでしょう? 一週間や十日じゃ回り切れないかも」
「だよね。古いのだけじゃなくて、新しいガイドブックも買って、その日のために予習もしちゃおうかなあ」
10年近く同僚をしていたけれど、いつも疲れたような諦めた顔をしていた。あれ程楽しそうに笑った“彼女”を見たのは初めてだった。その後すぐ“彼女”は有休消化に入って、思えばあれが一緒に行った最後のランチだった。
「辞めたんだったら退職金とかだって出ているんでしょう? それは親に振り込んでもらうようにしてください」
「お母さん、そういうことはできませんよ。もう退職手続きは完了しています。親御さんといっても、社会人のことですから。勝手なことはできません」
「でも、困るんです。 妹が、下の子が出産で旦那さんも連れて帰ってくるんです。家の増築も始まってるし、孫が乗れる大きな車も買わないといけないし。あの子がいなきゃお金が足りないんです。困るのよ、ほんとに。困るんです」
「お母さん、何度もいってますけど、退職後のことはそちらのご家庭の事情でしょう? いい加減にしていただかないと、警備員を呼びますよ?」
「でも、あなたは娘の上司なんでしょう?」
「あなたは母親でしょう? 私はただの職場の上司。赤の他人ですよ、まったく」
警備員さん!と上司が手を挙げると、“お母さん”は不満気な顔のまま足早に去っていった。
「ちょ、マジ? 妹のお産対応で“お姉ちゃん”に家を増築させたり車買わせたりとか、おかしくない?」
「いやー、そら娘も逃げるよねえ」
「っていうかさ、その妹の旦那はお金出さないの確定? 自分の嫁と自分の子供のことなのにね」
「あの“お母さん”が見栄張って出させないか、旦那も甲斐性なしか」
「うわ、嫌な二択。どっちもないわー。みんなで“お姉ちゃん”に集りまくり」
「集られる前に逃げてよかった」
「いや、あの様子じゃもう結構集られてると思うわ。あの“お母さん”だもん」
「逃げてー、“お姉ちゃん”全力で逃げてー」
隣の課の女性達はひとしきり盛り上がると、それぞれの仕事へ戻っていった。
少し俯いてモニターの陰に隠れ、私はこみ上げてくる笑いを手で隠す。“彼女”が消えたことで、私は少し仕事が増えてしまった。でも、あの“お母さん”を見たら、そんなことがどうでもいいくらいに“彼女”の勝利が嬉しくなってしまった。いつもお弁当持参だった“彼女”。ポットにコーヒーも持参していた。長期休暇明けはいつも、旅行に行った人達がお土産のお菓子を配るなかで、「私、どこにも行ってなくて。貰ってばかりですみません」と申し訳なさそうにしていた“彼女”。
「ざまあみろ」私は手のひらの中に小さく勝利宣言をこぼす。
“彼女”は逃げた。今頃きっと、東京を満喫しているに違いない。古いのと、新しいの。二冊のガイドブックを持って、東京の空の下で。これ以上ないというほど楽しそうに、きっと笑っている。
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