第9話 “私”と私


ふと目を開ける。随分と天井が高い。床に横たわっていたようだ。こすれた頬がヒリヒリ痛む。体を起こそうとついた手がフカリと沈む。毛足の長い、柔らかく美しい絨毯。周囲を見回す。広い部屋。曲線的な美しい家具。足を投げ出して床に座り、長椅子に背中を預けた。


「そうだ、公爵家の長女だった…」

“夢”の中の怒りや悔しさに飲み込まれてしまいそうだけれど、今の私は違う。私を見下ろす。美しいシルクのドレスに包まれた体。改めて両手を見ると、白く折れそうな指。一束手にした栗色の髪は柔らかくウェーブしてツヤツヤと輝いている。


「フロレンツィア程ではないけれど、ローザリンデも十分に美人だよ」

手元に鏡はないけれど、いつもの私を思い描く。使用人達にしっかりと管理されてきた公爵令嬢。甘いものは好きだけれど、決められた食事やお茶の時間に給仕された以上は食べられない。お代わりをいえる感じでもなかったし。そのお陰か肌荒れも余分な脂肪もない。まあ、胸もないけども。毎晩の入浴後はマッサージや肌の手入れを受けているから、足はすらり、ウエストはほっそり、お肌はツルスベだ。年齢が17歳というのも大きいだろう。


「異世界転生ってやつなのかな」

確信しながら、口からは疑問形の言葉になった。“夢”の世界の“私”。前世の“私”。名前や顔は思い出せない。でも“お姉ちゃん”だった。“お母さん”に褒められたくて必死だった。実際は「お金と人手」としか評価されていなかった。やっぱり道化者だった“私”。


「こういうのって、転生後はいい思いをさせて貰えるものじゃないのかなあ。溺愛家族とか、イケメン幼馴染とか従者とかがセットじゃないの? 異世界で生まれ変わってまで“お姉ちゃん”とかおかしくない? 」


公爵令嬢だけど男爵令嬢に負けて、王子さまは妹に奪われる。まあ、衣食住だけは保証されていたから、それはよかったかもしれない。

長椅子の座面に頭を預けて天井を仰ぐ。一日の密度が濃すぎて、もう笑いも怒りもわいてこない。でも、思い出せてよかった。前世の記憶が蘇らなかったら、あのまま立ち直れなかったかもしれない。前世も残念だったけれど、アラサーまで生きた記憶が私を強くしてくれている。後継でも愛娘でもない、「公爵家の長女」。それで結構。でも、どうせならもう何年か早く思い出したかった。そうすれば、もっと上手くやれたのではないか? と考えてしまう。どうかな? 別に殿下が好きだった訳ではないし、数年早く思い出したところきっと、嫌われたくないとか波風を立てたくないとかいって周囲を伺って。結局は男爵令嬢に負けて…。前世だって“お母さん”に「人手とお金」呼ばわりされるまで30年近く気が付かなかったし。今生もし早めに思い出してもきっと、父に「妹の代役婚約者」とあかされるまではなんだかんだ事なかれ主義で過ごしていたような気がする。前世も今生も本質的には変わらないのかもしれない。


そんな風にしばらく天井を眺めていると、喉の渇きを覚えた。前世の夢の前は散々泣いていた。椅子から床に転げ落ちてそのまま眠り込む勢いだ、喉も乾くというものだろう。立ち上がり、水差しからグラスに水を注ぐ。口に含むと、少し生臭く感じた。


前世の私、日本での感覚を得たせいだろうか。水道で汲んだばかりのお水でも気持ち飲みにくい。沸かしてお茶にするとか、ペットボトルならおいしく飲めるけど、あいにくこの世界にはない。あのあと、“私”はどうしたのだろう。思い通り、家をでて“家族”と離れることができたのだろうか。いや、あの勢いだ。きっと逃げ出したはずだ。家に給料やボーナスを入れ奨学金の返済もしていたけれど、倹約してそこそこ貯金もあった。成人も通り越してアラサーの社会人。部屋を借りるくらいはなんとかなるだろう。


グラスを置き、靴を脱いで寝台にあがる。大の字に寝転んでも余る広い寝台。

「あー、やっぱり靴を脱ぐとホッとするわー」

王子王妃の二連戦後、王宮から戻って父にとどめを刺されて。泣きながら寝落ちしたからドレスや靴はそのままだった。コルセットは苦しいけれど、靴を脱いだだけでも大きな解放感だ。


「やっぱり日本人ね」

世を儚んで崖やビルから飛んでしまうとき、日本人だけは靴を脱いで揃えていくという。気持ちはわかる。枷を外して身軽になりたい。ゴソゴソと身をよじり、スカートの中に手を突っ込む。あちらこちら身じろぎして、なんとか靴下止めを外した。長い靴下を脱ぎ捨て、足の指をニギニギしてみる。

「はー、すっきり」

解放感、たまらない。


「これからのこと、考えないとね」

少し声が小さくなった。父には許可が出るまで外出禁止を言い渡された。今の、婚約解消された私なら、朝晩の家族の食卓につきたくないといっても誰も不思議に思わないだろう。いや、私が仲間はずれになりたくなくて居心地悪くもしがみ付いていただけだから、私が食卓に現れなくても誰も何も思わないかもしれない。どっちでもいい。部屋に引きこもっても怪しまれない状況で、その間に今後のことを考えなくては。


「私だって逃げて見せる」

成人して社会人で貯金もあった“私”より、今の私は分が悪い。治安、仕事、環境。女が一人で生きようとすればこの世界は日本より格段に厳しい。それでも、ここにはいられない。「後継のスペア」になれなかった「愛娘の代役」。「公爵家の長女」でいたってどうせロクなことにはならない。溺愛家族もイケメン幼馴染もいないハズレ異世界転生かもしれないけれど。前世の経験値と今のスペックで何とかするしかない。アラサー+17歳=だいたいアラフィフ。赤ちゃん幼児時代を差し引いても、アラフォーくらいの分別はあるはず。こげ茶の髪にこげ茶の瞳。高位貴族にとっては残念ポイントでも、逃亡には目立たなくて有利になる。


「私だって、あの人達とはさようならだ。」

家族。血がつながっている人。一緒に暮らしてきた人。「血がつながっているだけの人」、さようなら。

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