第5話 ディケンズ公爵

「それが婚約解消とはねえ…」

馬車が走り出してようやく少し気が緩んだか、つい、口からこぼれてしまった。向いに座る侍女には聞こえていなかったようだ。いや、聞こえないふりかもしれない。どちらでもいいことだ。私を気に掛ける人など、公爵家には使用人にすらいない。私がきちんとした身なりで病気などせず、見た目「正しい生活」をしていれば彼女たちは咎められることはない。


「王太子の婚約者」でなくなった私はどうすればいいのだろう。努力はしたのだ。努力しかなかったから。高位貴族の令嬢の中ではそれなりに評価を得られていると思っていた。それでは「王太子の婚約者」としては足りないことも。私には家柄以外飛びぬけたものがない。着飾ればそれなりには見栄えがして、それなりの教養がある。公爵家の人手や予算の上に私個人の努力を重ねても、それなりにしかなれなかった。だからこそ、努力をやめられなかった。手を抜けばどれだけ落ちるのか恐ろしかった。必死にしがみついていたのに、今では「男爵令嬢に負けた公爵令嬢」になってしまった。蝶になれなかったサナギどころか、もう毛虫クラスではないだろうか。


馬車が家についた。

「旦那様がお待ちです」

玄関を入ると、執事が待ち構えていた。


「わかりました」

執事の後について歩き出す。今日はこんなことばかりだ。でも、これがきっと、最後で最悪。握りしめた手が小さく震えているのが自分でわかる。私は王太子より王妃より、父の叱責が怖いのだ。期待されていないとはわかっていても、見限られたくはないのだ。


「失礼いたします」

執事が開けたドアをくぐる。父の執務室に入るのは久しぶりだ。5年前、殿下との婚約が決まったと告げられた日以来か。その日とおなじように、父は執務机で仕事をしている。私が前に立っても、そのまま手を止めることはない。


「今日、殿下からお前との婚約を解消したいと申し入れがあった」

「申し訳ございません」

私は謝罪の態で目を伏せ、頭を下げる。父がなるべく視界に入らないように。寒い。いや、体が震えているだけか。どんな叱責を受けるのか。父のペンが紙をこする音がやけに大きく聞こえる。と、パタリと音がやんだ。


「殿下には承服できないといったが、この機会に婚約者をフロレンツィアに入れ替える」

「は、あの、それは… 」

私は思わず顔を上げていた。


「殿下の縁談の話が出始めた頃、フロレンツィアの年齢では婚約者になるのは難しかったのだ。他家に年の釣り合う何人もいたから、当家もまずはお前を婚約者とした。婚約者の椅子を確保して、あとで姉妹を差し替える形のほうが確実だからな。あの男爵令嬢の件がなければあと1~2年、お前に持ちこたえてもらいたかったが、まさか殿下があのような児戯に走るとはな」


珍しく饒舌な父が、叱責どころかむしろ機嫌よさそうに話す声が耳と素通りしていく。

話の内容がわからない。どういう意味? 私は叱られない? 婚約者の入れ替え? 意味がわからない…。


「まあフロレンツィアも15歳にはなった。まだ青いが男爵家の貧相な令嬢くらいは蹴散らすだろう。あれは少し頭は足りないが、我が家という後ろ盾がある。王妃も喜んで受け入れるだろう。殿下も若気の至り、少し締めればのぼせた頭も冷えよう」

父は眉間を揉み解している。前に立つ私に向かって話しているように見えるけれど、実際は、独り言のようなものなんだろう。


「何を呆けている? まあいい。あとはこちらで上手く段取りするからお前は何もするな。誰にも会わず、手紙も禁止だ。私がいいというまで屋敷を出るな。わかったら、もう行きなさい」

「あの、お父様、私は」

「もういいと言っている。下がれ」


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