胸の穴
胸に穴があいたような心境でした。
あなたは大切なペットを失ってしまったのです。
キャリーと呼ばれたその室内犬が来客に合わせて開いた玄関から飛び出したとき、あなたはまず、いつも外を散歩させるときには必ず通る決まったコースを捜したものです。
しかしキャリーはいませんでした。
その日の夜のうちに「飼い犬、捜しています」というビラを作って、翌日には半径十キロほどの圏内にあるスーパーなどの掲示板に貼らせてもらいました。
あなたはひたすら情報を待ちました。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、とうとう一ヵ月もの期間が経過したというとき、あなたの体に異変が起こりました。
本当に、比喩ではなく、正真正銘の事実、あなたの胸にポッカリ穴があいていたのです。
お風呂に入ろうとして脱衣所で裸になり、ふと鏡を見たときに気づいたのですが、最初は目の錯覚かと思って、慌てて胸に手を当てたものでした。
しかし本当に真実、胸に直径十センチほどの穴があいていて、後ろの壁が鏡に映っていたのです。あなたは思わず「わっ」と叫んだものの、救急車を呼ぶべきかなんてことすら思いつかないくらいの驚きのために、しばらく何度も何度も胸を触っては、心臓の鼓動も消えていることを認めて、夢なんかじゃない現実なんだと、穴があくという異変を受け入れる努力をしたのでした。
努力、と言うと大げさかもしれません。確認作業と言ったほうがしっくりくるでしょう。あなたはまず、利き腕を胸の穴から背中まで通してみました。すると腕は胸の穴を抜けて、手先で背中に触れることができたのです。
さすがのあなたもそのままお風呂に入る気は失せて、その日はいつも観るテレビ番組も点けないで、ベッドに横になって、そのまま眠りに就いてしまいました。
*
今、あなたは夢の中にいます。
秋のような、冬のような、枯れ草で覆われた草地に立っています。
遠くで犬の鳴き声がします。
瞬間、あなたは「キャリーだ」と思いました。
キャリーが駆け寄ってきます。
あなたは足元に来たキャリーを抱き上げます。
すると、なんとキャリーの胸にも穴があいているのです。
「キャリー、今まで、どこへ行っていたのさ」
そこであなたは目を覚まします……
*
夜中の三時、ふたたび眠ることもできなくなったあなたは、ベッドの上でパジャマの上半身を脱いで、胸の穴に手をやります。
と、穴の奥に何か触るものがありました。
穴の奥から犬の鳴き声が聞こえてきます。
「キャリー?」
あなたは必死の思いで手に触れたものをたぐり寄せます。
穴から顔を出したのは……
キャリーでした。
急いでキャリーの全身を引っぱり出すと、あなたはすぐに夢の内容をたしかめました。キャリーの胸にも穴があいているかどうかです。
すると穴はあいていませんでした。
と、あなたの胸にも心臓の鼓動がよみがえっています。
手で触っても、まじまじ眺めても、もうあなたの胸に穴はあいていなかったのです。
この体験を誰に話してもあなたは嘘つき呼ばわりされるでしょう。それがわかって、まだ一度も、あなたはこのことを人に話したことはありません。
キャリーの身は名前も名乗らず親切にも捜し出してくれた人のおかげで戻ってきたと、そんな説明をしています。
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