ひゅっかち

「……と、いうわけですので、ひゅっかちが大流行の兆しを見せています。みなさん、くれぐれもひゅっかちに気をつけましょう」


 ヒューナがテレビをつけたときにはそんな声がわずかに聞き取れただけでした。それがヒューナがひゅっかちという単語をはじめて知った瞬間でした。


「ひゅっかちか。何だろうな」


 ヒューナは学生時代の辞書を引っぱり出してきて、さっそく調べてみます。


「ひゅっかち、ひゅっかち、と。駄目だ。載ってない」


 次なる手段はインターネットによる検索です。しかし、関係のない似たような単語はヒットするものの、肝心のひゅっかちは現れません。そんなに新しい言葉なのでしょうか。「ひ っかち」とか「ひゅ かち」とか「ひゅっ ち」などはパソコンの画面に出現したわけですから、あるいは通信異常によって、ヒューナのパソコンが認識できないだけなのかも。


「いや、違うぞ。これはウイルスかもしれない。おれのパソコン、コンピューターウイルスに感染したんじゃないのか」


 急いでパソコンメーカーの安心サポートセンターに電話します。


「あのう、パソコンがひゅっかち、ああ、つまりウイルスに感染したらしいんですが」


 ――お客さん、冗談はやめてくださいよ。今どき、ひゅっかちなんて。ありえません。


「え、だってさっき、テレビのニュースでよくわからないけれど、ひゅっかちが何とかって」


 ――ああ、お客さん、ひょっとしてひゅっかちをよくご存じないのですね。


「は、はい」


 ――じゃあ、急いで救急車でも呼ばれたほうがよろしいかと。


「なぜ」


 ――失礼ですが、お客さま、年齢は。


「四十です」


 ――そうですか。すると、ひゅっかちのワクチン接種を受けてから二十年以上たつわけですね。そろそろヒトひゅっかちにかかってもおかしくないころです。


「ヒトひゅっかち? それってひゅっかちの一種ですか。ひゅっかちって何かの病気なんですか」


 ――やっぱりだ。お客さま、ひゅっかちがわからないとは、ひゅっかちの第二期に突入していらっしゃる証拠ですよ。うつされては困りますのでお電話切らせていただきます。


 電話を切られたヒューナは、しばし受話器を見つめて途方に暮れました。


「どういうことかな。ひゅっかちのワクチン接種なんて受けた覚えはないぞ」


 ヒューナはふたたびテレビをつけてみました。さっきのアナウンサーがしきりに頭を下げています。


「ええ、つい先ほどの放送中に不適切な表現があったことをおわびいたします。もし、先ほどの放送をご覧になって健康に不安を感じられた方は至急、最寄りの医療機関を受診してください。なお、病名は……ええ、これ以上の流行を防ぐためにも病名は伏せさせていただきます」


「ひゅっかちのことだな。いったいひゅっかちとは何なんだ。そんなに恐ろしい病気なのか」


 ヒューナはすでにひゅっかちにかかっている可能性があります。念のため、近所の内科を受診しておくことにしました。


「お、ヒューナじゃないか。どこへ行くんだ」


 歩いているところでした。幼なじみのカナタに呼び止められました。


「ああ、カナタか。おれ……えーと、何だったっけ。何かの病気なんだけれど。それで一応、内科を受診しようと思ったんだ」


「ヒューナもか。おれも内科に行くところだったんだ。一緒に行こうぜ」


「そうか。カナタは何の病気だ」


「それが、忘れちまった」


「ははは、おまえもか。おれも何の病気だったか忘れたんだ」


「おっ、行列してるぜ」


 カナタが指差す先には、内科の前に長い行列を作る人々の姿がありました。二人は行列の最後尾に並びました。


「何の行列ですか」


 ヒューナは前に並ぶ女性に訊きました。


「じつはわたしもわからないんですよ。何で並んでいるのかしら。ここに来るまでは覚えていた気がするんですけれど」


「つまりわれわれは何で内科を訪れたのかも忘れている、と、そういうわけですな」


「あら、じゃあ、あなたも覚えていないのね」


「はい」


 そんなときでした。玄関から近所で評判の内科医が顔をのぞかせたのです。


「みなさんのなかに今日、こちらに来られた理由を覚えている方、いらっしゃいませんか」


 みんな静まり返っています。


「これはいけない。流行の兆しかもしれない」


「先生、流行って何の病気ですか」


 カナタがよく通る声で訊ねると、内科医は首をひねりました。


「それがわたしもわからないんですよ。先ほどのテレビ放送と関係があるようにも思うんですが。もう一度、待合室でテレビを見ていた方に訊いてみます」


 しばらくしてふたたび現れた内科医の顔は青ざめていました。


「みなさん、お気を確かに持って聞いてください。みなさんはすでに病気です」


「何の病気ですか」


 何人かが訊く声が重なりました。


「それが、よくわからないんです」


 内科医の答えは頼りありません。ヒューナはその場にとどまろうとするカナタを連れて、家に戻ることにしました。


「とりあえずネットで調べてみよう」


 ヒューナがパソコンを起動した瞬間、画面が真っ白に光ったかと思いきや、ぷつんと音がして、パソコンはうんともすんとも動かなくなりました。


「故障か」


 カナタは理工学部の出身です。パソコンのふたを開けてみるものの、故障の原因はわかりませんでした。


「テレビをつけてみよう」


 と、こちらも電源を入れたとたんに、ザッと音がして何も映らなくなりました。


「困ったな。おい、カナタ。おまえの家に行ってみよう」


 カナタの家はヒューナの家と目と鼻の先にあります。ヒューナはカナタの細君に軽くアイサツしてから、テレビの前に陣取りました。


「あなた、駄目なのよ」


 ヒューナとカナタが振り向くと、細君が眉を八の字に垂れ下げて立っていました。


「さっきから何も映らないの」


「それは困ったな。おい、ひょっとするとパソコンのほうも」


「駄目よ。突然、壊れちゃったみたい。携帯端末のたぐいも全部、駄目なの」


 カナタとヒューナは顔を見合わせます。


「いったい、どういうことだ」


「わからん」


 ヒューナは言ってから、はたと気づきました。


「あの謎の病気のせいじゃないのか。名前も思い出せない病気だが、きっとウイルスだ。パソコンメーカーの安心サポートセンターの人間は人にしかうつらないような話をしていたが、それは方便だったのかもしれん。人にも物にもうつるウイルスが現れたんだ。あるいはそうなるように進化してしまったのかも」


 ヒューナは腕時計を見ます。秒針が止まっています。カナタの家の時計も止まったようです。細君の話では洗濯機も、電子レンジも、ウォッシュレットも、冷蔵庫も、故障してしまったらしいというのです。


 突然、室内の明かりが消えました。夕暮れ間近の薄明かりだけがヒューナたち三人の顔を照らしています。何かが流行しはじめたのです。何か得体の知れないウイルスなのです。


 ふと、ヒューナの頭のなかから何かが消えました。一つや二つじゃありません。どんどん記憶が、情報が失われていく気がします。カナタを見ると頭を両手で抱えています。細君……だったかな? もその場にしゃがみ込んでしまいました。


 ふらふらとした足取りでヒューナは玄関……だったかな? まで行くと、靴……だったかな? を履いて自宅に戻ります。と、見知らぬ女が立っています。


「どなたですか」


「そちらこそどなた」


 女の横には男の子がいます。


「どうしたの、お父さん。それにお母さんもさっきから変だよ」


「坊やはおれの子どもかい」


「当たり前じゃないか」


「どうしてここにいるんだい」


「どうしてって、学校から帰ってきたからだよ」


「ふーん、学校は楽しかったかい」


「今日はねえ、ひゅっかちの予防接種があったんだ。怖い病気らしいんだ」


「ひゅっかち?」


「お父さん、知らないの」


「うん。教えてくれないか」


「ひゅっかちはね、音波や、電波に乗ってうつる病気で、機械を故障させるんだって」


「機械ってなんだい」


「なんだ、お父さん。そんなこともわからなくなっちゃったの? ぼくたちのことじゃないか」


「どういうことだい、坊や。もっとわかりやすく教えておくれ」


「ぼくらはこの星・地球の人間だ。地球はいまや機械の星。本物の人間はいなくなって、ぼくらが人間を名乗るようになった。つまりぼくらは古語でいうところのロボットじゃないか。忘れたの?」


 男の子は「だからこんなことだってできるよ」と言って、さも楽しそうに笑いながら、頭をくるくると何度も何度も回転させるのでした。


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