第20話 恋情



「……伯蓮様」

「ん?」

「わ……私も多分。恋を、しています」

「っ!」


 初めて明かされた朱璃の胸中に、伯蓮も驚きを隠せずに目を見張った。

 互いに恋をしている宣言したものの、肝心の意中の相手は有耶無耶にしている今の状態。

 それでも、ようやく打ち明けてくれた朱璃に対して、伯蓮が期待しないわけがない。

 伯蓮が誰に想いを寄せているのかは、すでに朱璃には理解されているずだから――。


「その方の幸せを願い、その方を想うと胸が激しく脈打つのは、恋、なんですよね?」


 朱璃に自身の騒がしい心臓音を聞かせたことがある伯蓮は、いよいよ確信した。

 恋をするとどんな変化が体に起こるのか、朱璃の身にもそれが生じていたのなら――。


「そして、そのもふもふに触れると、こう、心臓がきゅーんと……」

「…………ん? もふもふ?」


 様子のおかしい会話になってきて伯蓮が怪訝な表情を浮かべると、朱璃は両頬を包み込んで陶酔していた。

 先ほどまで想いは同じと思っていたら、急に違う方向に走り出した朱璃の意識。

 それに危機感を覚えて、有耶無耶にすることを拒んだ伯蓮が席を立ち上がった。


「私はっ! に恋をしているのだっ」

「っ⁉︎ 私も伯蓮様……と、あやかしたちに、恋をしているみたいなんです!」

「…………はあ……?」


 相思相愛が認められて、超絶嬉しいはずの伯蓮がなんとも言えない顔をした。

 どうやら伯蓮に向けられる朱璃の恋心は、あやかしに向けられるものと同格らしい。

 その新事実に、周りにいた三々、そして流と星が一斉に朱璃を凝視して空気が凍る。

 すると皆を代表して、眠っていたはずの貂々が呆れたため息を漏らし、説教をはじめた。


「朱璃、お前は人間だ」

「わ、わかってるよ……」

「ならば恋をする相手は当然人間。あやかしが好きなのは理解するが、その好きは“恋”とは違う」

「え⁉︎ でも、あやかしを想う気持ちと伯蓮様を想う気持ちが同じって考えたら、自分の中で気持ちが軽くなったの……」

「なぜ同じと考える? あやかしは所詮あやかし。伯蓮はお前を慕うたった一人の男だ」

「〜〜っ!」


 認めたくなかった事実を貂々に言い当てられて、抑えていた朱璃の心が膨張した。

 伯蓮を想う気持ちとあやかしを想う気持ちが同じならば、どんなに楽だったことか。

 一国の皇太子に特別な想いを寄せるなんて自覚したら、報われない恋に苦しむだけの未来が待っている。

 それを知っていて、朱璃は現実から目を背けたかった。


「……だって、私が伯蓮様をお慕いするなんて、そんなのダメに決まって……」


 朱璃は先ほどまで陶酔していた顔を突然両手で隠すように覆い、その耳は今までにないほど真っ赤になる。

 伯蓮の気持ちに気付きながらもはぐらかし、自分の気持ちも誤魔化そうとしていた理由が垣間見えた。

 朱璃の立場を思えば当然ともいえる、身分の差。

 だから伯蓮はそっと朱璃の隣に歩み寄ると、その場に跪いて優しい声をかけた。


「私たちはあやかしが視える。が、やはり心までは視ることができないから、素直に言おう」

「……え……?」

「私には勿体無いほどに、朱璃は素敵な女性だ」

「! そ、そんなはずありません。私は国境近い郷の貧しい家の出で――」

「違うんだ朱璃……私を見て」


 恋する相手の名を呼びながら、その腕を掴んで開かせる。

 すると、こういう状況に慣れておらず、恥ずかしすぎて今にも泣き出しそうな朱璃の顔が露わになった。

 その潤んだ瞳も、震える唇も。

 今の伯蓮にとっては褒美になるほどの愛おしい姿に、心臓が激しく反応する。


「私が朱璃を恋しいと想うのは、もう止めようがないのだ。だから同じように、朱璃も私だけを見ていてほしい」

「っ……伯蓮様……」

「それが私の、望む幸せだ」


 家柄も出身も負い目に感じることなく、朱璃が快く皇太子の妃になるためにはどうするべきか考えた。

 そして、この王宮のしきたりを変えていくことこそが、今の伯蓮の幸せへと続く道なき道だと答えを出す。

 だから宿命に抗い、政略的な婚姻を解消し、二代皇帝に仕えた宰相と戦った。

 すると伯蓮の想いが届いたのか、その言葉に感動を覚えた朱璃は、目に涙を溜めて話しはじめる。


「っ……伯蓮様っを、お慕いしたままでも、いいのですか……?」

「もちろんだ、誰がなんと言おうと私がそれを許す。私は朱璃に想われたいし、こうして触れていたい……」


 言いながら、朱璃の涙が頬を流れる前に指先で優しく拭う。

 すると瞬きした朱璃が、上目遣いで伯蓮を見つめた。

 そんな反応をされては居ても立っても居られず、跪いていた伯蓮は腰を浮かせてゆっくり顔を近づける。

 互いの心が通った直後、その喜びを実感するためにも求め合うのは当然。

 ――しかし、そう思っていたのは伯蓮だけで、鼻先が触れそうな地点で朱璃の上体が後ろに下がった。


「…………え」

「ハッ、ごごごめんなさい! お顔が近くにあって心臓がもたないので、つい!」


 必死に言い訳をする朱璃だが、伯蓮は活力を失った目をしたまま動かない。

 悪気があったわけではないとわかっていても、ようやく迎えた口付けの機会を拒まれたことに変わりなく。

 今にも灰になって風に飛ばされそうな伯蓮の背後で、貂々と三々がコソコソと会話する。


「うわ、皇太子が拒否られてんぞ」

「私の子孫として恥ずかしいな」

「今の空気感でイケると思った伯蓮憐れ」

「驕りが過ぎた」


 全くコソコソできていない二匹の容赦ない言葉の数々が、しっかりと伯蓮の耳にも届いていた。

 すると羞恥と鬱憤で肩を震わせながら立ち上がった伯蓮は、二匹に近づいて窓を開けると、無言で二匹の首根っこを掴んで屋外にぺッと閉め出した。

 ここは三階。つまり二階の琉璃瓦の上で呆然とする貂々と三々は、互いの顔を見合わせて少しだけ反省会をする。


「からかいすぎた?」

「皇太子といえど、まだまだ青いな」


 一方、窓を閉めて深呼吸した伯蓮は、言葉が話せるあやかしも考えものだなと思いつつ、

 不機嫌を隠しきれなかった自分の未熟さを痛感していた。

 たかが口付けを断られたくらいで、と悔恨の念にかられていると背後で朱璃の声がする。


「伯蓮様、そのまま後ろを向いていてくださいっ」

「え? 朱璃、一体……っ⁉︎」


 動きを制限された伯蓮は、朱璃に何かあったのかと不安になった。

 しかし、その思考は背中に伝わってきた温もりによって、すぐに解除される。

 慣れないなりに、後ろからそっと抱きついてきた朱璃の気持ちが、伯蓮の心を大きく震わせた。


「さ、先ほどはすみませんでした……い、今は、これが限界で……」

「あ……いや、朱璃は悪くないのだ。私が急に……」

「違うんです。伯蓮様は、いつも私に、その……」


 言いながら伯蓮の体を抱く腕の力が、ぎゅっと強くなる。

 言葉はぎこちなくても、その行動は朱璃の今の気持ちの表れ。

 だから伯蓮は、振り向いて抱きしめ返したい衝動を必死に抑え、続く言葉を待った。


「……私に、“初めて”をくれるんです……」


 蓮の香りを初めて近くに感じた時、綺麗な手を差し伸べながら初めて会話した時。

 思いがけない胸の高鳴りを覚えて、思い返せばこれが恋の始まりだったようにも思う。

 そして初めて笑顔を見せてくれた時、初めて抱き抱えてくれた時。

 激しく波立つ鼓動を抑えられなくて、眠れない夜を初めて経験した。


「これが、恋をするってことなんですね。伯蓮様……」


 感情を揺さぶられて、それがたまらなく嬉しくてもどかしくて。

 それが伯蓮と同じ気持ちだということが、また喜びに変わる。

 そう思うとなかなか離れ難い朱璃だったが、さすがの伯蓮も我慢の限界が訪れた。

 自身の体に背後から抱きつく細い腕に手を添えて、ガラリと空気を変える一言を伝える。


「……っでは朱璃、そろそろ飲み直そうか」

「は、はい! そうですねっ」

「こちらの杏仁豆腐も是非食べてほしい」

「伯蓮様のおすすめですか? いただきます!」


 二人は席に座り直すと、再度果酒を注いで乾杯し、楽しそうに会話をはじめた。

 朱璃と伯蓮の笑顔を眺めていた流と星はホッと肩を撫で下ろし、衾の上で欠伸を漏らして寄り添うように入眠。

 閉め出されていた貂々と三々は、窓の外から覗き込んで懲りずに様子を実況していた。


「貂々、伯蓮が耐えたぞぉぉ!」

「……はあ、私たちは一体何を見せられているのだ……」

「まあいいじゃん。始まったばかりの二人なんだから見守ってやろうぜ」


 目の前の現実に疑問を抱き困った顔をする貂々を、三々が励ましながら微笑みを浮かべた。

 未来ある皇太子が宿命に抗い、しきたりを変えようと奮闘していて。

 健気で鈍感な侍女が、初めての恋に胸を躍らせている。

 その瞬間に立ち会えたのだから、と話してその場を離れた二匹のあやかしは、まるで二人の保護者のような背中をしていた。



  ***



 深夜になるまで点心や果酒、会話を大いに楽しんだ二人。

 いつからあやかしが視えていたのか、今までどんなあやかしと出会ってきたのか。

 伯蓮は話しやすい雰囲気作りを心がけながら、朱璃自身のこともたくさん尋ねた。

 故郷のこと、家族のこと、あとは――。


「なあ朱璃、私のどんなところが好きだと感じたのだ?」

「ええ⁉︎ そ、そんなことまだ言えませんっ、恥ずかしいです」

「なぜ? 私は朱璃のどこが好きなのか、言い出したら止まらないと思う」

「う……それを平常心では聞けないので、もう少し留めておいてください……」

「はは、わかった。楽しみにしている」


 伯蓮の笑い声を聞いて、安心した朱璃は不意に自然な欠伸が出てしまった。

 普段ならとっくに寝ている頃だから、眠くて当然だと微笑む伯蓮。

 そして席を立ち朱璃の元に向かうと、そのままヒョイと抱き抱えた。


「わ、伯蓮様⁉︎」

「眠いのだろう? 今日はもう休もうか」


 すぐそばにある架子牀まで朱璃の体を運ぶと、流と星が端っこで仲良く就寝中だった。

 そして衾の上に朱璃の体を優しく置くと、伯蓮自身も添い寝のように隣へと横たわる。

 朱璃は慌てふためき、頬を紅潮させながら声をかけた。


「あの! さすがに伯蓮様の部屋で休むわけにはっ……私は自分の部屋に戻――」

「今夜はここで休め。もう手は出さないから安心しろ。……今夜はな」

「っ! ……あああ明日は出すんですか⁉︎」

「それは、朱璃次第かもしれぬ」


 そうして無邪気な笑顔を発揮されると、朱璃も何も言えないくらいにこの顔に弱く、そんな伯蓮に惹かれていく。

 手は出さないという気遣いの言葉と、それを信用できるほどに誠実なところも好き。

 ただ、今夜はもうお腹も心もいっぱいなので、それらを伝えていくのはもう少し気持ちに余裕ができてから――。


「……伯蓮様もこのままお休みになりますよね?」

「ああ、朱璃が眠ったら……」

「いえ同時に寝ましょう! さあ目を閉じてください早くっ」


 寝顔を見られるのが恥ずかしい朱璃は、同時に入眠することを無理矢理勧める。

 急かされて仕方なく目を閉じた伯蓮だったが、朱璃と幸せな夜を過ごせたおかげで、今夜は快眠できそうだと予感した。

 そしてその予感はすぐに的中し、日頃の疲れのせいかそのまま眠ってしまった伯蓮。

 しばし時間が経ちゆっくりと瞼を開けた朱璃が、すぐ隣で寝息を立てる伯蓮を静かに見つめた。

 相変わらず美しいままの伯蓮だけど、寝顔となると皇太子といえど少しだけあどけなさも含まれている。

 そう感じて柔らかい笑みをこぼした朱璃は、眠る伯蓮の耳元で囁いた。


「今日は本当にありがとうございました。おやすみなさい、伯蓮様……」


 気持ちを伝えられて満足げな朱璃は再び目を閉じて、やがて眠りについた。

 誰かが隣にいることの安心感を覚えると、こんなにもすんなり眠れることを互いに理解する。

 そんな忘れられない一夜となった。



  ***



 朝日が昇ると共に、本日の業務が始まる侍従の関韋。

 伯蓮の私室までやってきて、いつものように起床刻を知らせようとしているのだが、扉前で暫し考える。


(……大丈夫、だろうな……?)


 昨夜の宴会は、どうしても朱璃と二人でお祝いをしたいという伯蓮の頼みだった。

 ここ最近の伯蓮の心労を考えて、今回だけはと承知することにした関韋。

 しかし、一応二人は年頃の男女なわけで、それなりに危惧していた。


(あんなことやこんなことまでは許可していませんからね、伯蓮様……)


 そう念じ「失礼いたします」と声をかけ、いざ私室の扉を開ける。

 しんと静まり返った室内を進むと、円卓の上には空の皿や筒杯が置かれたままで、二人の姿は確認できず。

 奥に視線を向けた時、架子牀の衾の上に何かが存在していることに気づいた。

 その正体は衣服を纏ったまま並んで寝転がっている朱璃と伯蓮で、小さな寝息を立て寄り添いながら眠っている。


(……な、なんだこの、純真な二人は……!)


 その光景は関韋には眩しさを覚えるほどに、清らかな空気を放っていた。

 そして自分の想像していたものが、いかに汚い大人の発想だったかを突きつけられて猛省した。

 二人とも無防備に安心しきった表情で眠り、その手はそっと繋がれているのが確認できる。

 関韋は強い衝撃を受けて、ぐっと眉間を押さえた。そして――。


「……尊い」


 つい口を滑らせて出た言葉と共に、二人に畏敬の念を抱く侍従。

 もう少しだけこのままでいさせてあげようと、気を利かせて静かに部屋をあとにする。

 パタンと閉じられた微かな扉の音に、伯蓮の瞼がピクリと動いた。


「……ん……朝、か……」


 寝ぼけた意識の中で、昨夜のことを思い出す。

 朱璃に急かされて目を閉じると、まるで遊び疲れた子供のようにすぐ寝てしまった。

 本当はもう少し語り合いながらゆっくり眠りたかった伯蓮は、一瞬にして朝を迎えたことを後悔する。

 しかし、片手に感じた温もりに気づいて瞼を全開させると、隣に眠る朱璃といつの間にか手を繋いでいた。


「……さっそく、手を出してしまったな」


 朱璃への宣言はあくまでも“今夜は手を出さない”だったため、翌日は無効。

 よって約束を破ったわけではないと心の中で言い訳をする伯蓮だが、繋がれた手を離そうとはせず。

 むしろ、ぎゅっと握り返して朱璃の寝顔を愛おしそうに見つめはじめた。

 今なら、昨夜拒まれた口付けが容易にできる。

 と一瞬邪念を抱いたが、尚華と同類になりたくない意志が働いてすぐに払われた。

 色欲をグッと堪えた伯蓮は、その代わりに強く願う。

 こうして手を繋いだまま朝を迎えられる日が、また訪れますように――と。




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