第20話 恋情
「……伯蓮様」
朱璃は意を決して、伯蓮の名前を呼ぶ。
今抱えている想いが溢れたまま胸がいっぱいで苦しい。それを吐き出したかった。
「わ……私、多分。恋を、しています」
初めて明かされた朱璃の胸中に、伯蓮も驚きを隠せずに目を見張った。
振り絞るように出した声と、耳まで真っ赤にした朱璃の様子に、伯蓮の期待が高まる。
「その方の幸せを願い、その方を想うと胸が激しく脈打つのは、恋、なんですよね?」
伯蓮の心臓の鼓動を聞かされたことがある朱璃が、確かめるように尋ねた。
恋をすると生じる異変は、すでに朱璃の身にも起こっていた。
ただ、朱璃には伯蓮以外にもそう思える存在があった。
「そのもふもふに触れると、こう、心臓がきゅーんとして……」
「…………ん? もふもふ?」
様子のおかしい会話になってきて、伯蓮が怪訝な表情を浮かべる。
朱璃は両頬を包み込んで陶酔しており、体をクネクネさせていた。
そしてついに宣言される。
「伯蓮様とあやかしたちに、恋をしているみたいなんです!」
「…………ん……?」
朱璃との相思相愛が確立されて、超絶嬉しいはずの伯蓮が無表情になる。
どうやら伯蓮に向けられる朱璃の想いは、あやかしに向けられるものと同格らしい。
その新事実に、周りにいた三々、そして流と星が一斉に朱璃を凝視して空気が凍る。
すると皆を代表して、眠っていたはずの貂々が呆れたため息を漏らし説教をはじめた。
「朱璃」
「わ、貂々。起きてたの?」
突然目を開けて話しはじめた貂々に驚く朱璃は、先ほどの問題発言を問題と思ってない様子だった。
肝心なところで間違う朱璃に、貂々はわかりやすく恋とは何かを解説する。
「お前は人間だ」
「わ、わかってるよ……」
「ならば恋をする相手は当然人間。あやかしが好きなのは結構だが、その好きは“恋”とは違う」
断言された朱璃は、雷を受けたような衝撃に打ちひしがれていた。
あやかしを想う気持ちと、伯蓮を想う気持ちが同じだと考えてみたら、朱璃の中で気持ちが軽くなった。
一国の皇太子に恋をしたなんて認めたら、報われない恋に苦しむだけの未来が待っているから。
ただし、その考えを貂々は逃げだと悟った。
すると、徐々に表情がこわばってきた朱璃が、とうとう観念したように本音を漏らしはじめた。
「……だって、私なんかが伯蓮様をお慕いするなんて、そんなのダメに決まってる……」
両手で顔を隠しながら、朱璃は今すぐ部屋を逃げ出したいと思った。
伯蓮の気持ちに気付きながらも誤魔化して、自分の気持ちにも嘘をつく。
その理由が朱璃の言葉から読み取れて、伯蓮は臓器をもぎ取られるような痛みを感じた。
朱璃の立場を思えば当然ともいえる、身分の差。
苦しむ朱璃を慰めたくて、伯蓮はそっと席を立つ。
そして朱璃の席まで歩み寄ると、その場に跪いて優しい声をかけた。
「私には勿体無いほどに、朱璃は素敵な女性だ」
「そ、そんなはずありません。私は国境近い郷の貧しい家の出で――」
「違うんだ朱璃……私を見て」
顔を隠したまま首を横に振るので、伯蓮は朱璃の名をそっと呼んだ。
すると、顔を覆っていたは両手を下ろした朱璃の、今にも泣き出しそうな顔が露わになった。
その潤んだ瞳も、震える唇も。
今の伯蓮にとっては褒美になるほどに、愛おしい姿がそこにある。
「私が朱璃を想う気持ちはもう止めようがない。同じように朱璃も想ってくれているなら、嬉しい」
「っ……伯蓮様……」
「それだけで、私はとても幸せだ」
家柄も身分も負い目に感じることなく、朱璃には自分の気持ちに正直でいてほしい。
そう思い、伯蓮が朱璃に微笑みかけると、朱璃の瞳から涙が溢れ出る。
「っ……伯蓮様を、お慕いしたままでも、いいのですか……?」
「私が許す。私は朱璃に想われたいし、こうして触れたいのだから……」
声を震わせながら歓喜する朱璃の涙を、伯蓮が指先で優しく拭う。
すると瞬きした朱璃が、潤んだ瞳で伯蓮を見つめてきた。
そんなふうに見られては居ても立っても居られなくなる。
跪いていた伯蓮は、感情のままにそっと顔を近づけていく。
互いの心が通った直後、その喜びを分かち合うためにも唇を重ねたい思うのは当然のこと。
しかしそう思っていたのは伯蓮だけで、鼻先が触れそうな地点で朱璃の顔が後退りした。
「ハッ、ごごごめんなさい! お顔が近くにあって心臓がもたないので、つい!」
「…………つい、か」
必死に言い訳をする朱璃だが、伯蓮は活力を失った目をしたまま動かない。
悪気があったわけではないと理解しつつも、ようやく迎えた口付けの機会を拒まれたことに変わりはない。
今にも灰になって風に飛ばされそうな伯蓮の背後で、三々と貂々がコソコソと会話する。
「うわ、皇太子が拒否られてんぞ」
「私の子孫として非常に恥ずかしいな」
「今の空気感でイケると思った伯蓮、憐れ」
「驕りが過ぎた」
全くコソコソできていない二匹の容赦ない言葉の数々が、しっかりと伯蓮の耳にも届いていた。
羞恥と鬱憤で肩を震わせながら立ち上がった伯蓮は、二匹に近づいていく。
そして窓を開け放ち、二匹の首根っこを掴んでペッと追い出した。
ここは三階。つまり二階部分の琉璃瓦上に置かれた貂々と三々は、互いの顔を見合わせて少しだけ反省会をす開く。
「からかいすぎた?」
「皇太子といえど、まだまだ青いな」
一方、窓を閉めた伯蓮は、言葉が話せるあやかしも考えものだなとため息をついた。
ただ、不機嫌を隠しきれなかった自分の未熟さも痛感して、少し反省の色を見せる。
たかが口付けを断られたくらいで。と悔恨の念にかられていると、背後から声をかけられた。
「伯蓮様、そのまま後ろを向いていてくださいっ」
「朱璃……?」
動きを制限された伯蓮は、窓の方を向いたまま朱璃に何かあったのかと不安になる。
しかし、その思考は背中に伝わってきた温もりによって、すぐに解除された。
慣れないなりに、後ろからそっと抱きついてきた朱璃の気持ちが、伯蓮の心を大きな衝撃を与える。
「さ、先ほどはすみませんでした……。い、今は、これが限界で……」
「……いや、朱璃は悪くない。私が急に……」
「違うんです。伯蓮様は、その……」
言いながら伯蓮の体を抱く腕の力が、ぎゅっと強くなる。
言葉はぎこちなくても、その行動は朱璃の今の気持ちの表れだ。
だから伯蓮は、振り向いて抱きしめ返したい衝動を必死に抑え、続く言葉を待った。
「……伯蓮様は私に、“初めて”をくれるんです……」
蓮の香りを初めて近くに感じたあの日。綺麗な手を差し伸べながら初めて会話したあの瞬間。
思いがけない胸の高鳴りを覚えて、思い返せばこれが恋の始まりだったようにも思う。
そして初めて笑顔を見せてくれた時、初めて抱き抱えてくれた時。
激しく波立つ鼓動を抑えられなくて、眠れない夜を初めて経験した。
「これが、恋をするってことなんですね。伯蓮様……」
感情を揺さぶられて、それがたまらなく嬉しくてもどかしい。
それが伯蓮と同じ気持ちだということが、朱璃にとってまた喜びに変わる。
そう思うと離れ難い朱璃だったが、さすがの伯蓮も我慢の限界を訪れようとしていた。
「……っ朱璃、飲み直そう」
背後から抱きつく細い腕に手を添えて、伯蓮は空気を変える一言を伝える。
朱璃は明るく返事をして、二人は席に座り直した。
「この杏仁豆腐も是非食べてほしい。私の大好物だ」
「伯蓮様のおすすめですね! いただきます!」
再度果酒を注いで乾杯し、楽しそうに会話を弾ませる。
架子牀の隅から一部始終を見ていた流と星は、二人の笑顔にホッと胸を撫で下ろす。
そして衾の上で欠伸を漏らし、寄り添いながら入眠した。
閉め出されてしまった三々は外から部屋を覗き込み、その様子を貂々に実況する。
「貂々、伯蓮が耐えたぞぉぉ!」
「……はあ、私たちは一体何を見せられているのだ……」
「まあいいじゃん。始まったばかりの二人なんだから見守ってやろうぜ」
呆れた顔をする貂々を励ます三々は、楽しそうに笑みを浮かべる。
未来ある皇太子が宿命に抗い、しきたりを変えようと奮闘した。
健気で鈍感な侍女が、初めての恋に胸を躍らせている。
歴史的瞬間に立ち会えたことを良しとして、夜空を見上げた二匹のあやかし。
その背中は、まるで二人の保護者のようだった。
***
朝日が昇ると共に、本日の業務が始まる侍従の関韋。
伯蓮の私室までやってきて、いつものように起床刻を知らせようとしている。
しかし本日は、扉前で腕を組み暫し考える。
(……大丈夫、だろうな……?)
昨夜の宴会は、どうしても朱璃と二人でお祝いをしたいという伯蓮の頼みだった。
ここ最近の伯蓮の心労を考えて、今回のみと承知することにした関韋。
しかし、一応二人は年頃の男女なわけでそれなりに危惧していた。
(あんなことやこんなことまでは許可していませんからね、伯蓮様……)
そう念じ「失礼いたします」と声をかけ、いざ私室の扉を開ける。
しんと静まり返った室内を進むと、円卓の上には空の皿や筒杯が置かれたまま。
しかし二人の姿は確認できず、関韋は部屋中に視線を配った。
すると、架子牀の衾の上に大きな影が存在していることに気づく。
その正体は、衣服を纏ったまま並んで寝転がっている朱璃と伯蓮。
小さな寝息を立てて、寄り添いながら眠っていた。
(……な、なんだこの、純真な二人は……!)
その光景は関韋には眩しさを覚えるほどに、清らかな空気を放っていた。
そして自分の想像していたものが、いかに汚い大人の発想だったかを突きつけられて猛省した。
二人とも無防備な状態で眠り、その手はそっと繋がれているのが確認できる。
関韋は強い衝撃を受けて、ぐっと眉間を押さえた。そして――。
「……尊い」
つい口を滑らせて出た言葉と共に、二人に畏敬の念を抱く侍従。
もう少しだけこのままでいさせてあげようと、気を利かせて静かに部屋をあとにする。
パタンと閉じられた微かな扉の音に、伯蓮の瞼がピクリと動いた。
「……ん……朝か……」
寝ぼけた意識の中で、昨夜のことを思い出す。
まるで遊び疲れた子供のように、二人揃って寝てしまった。
すると片手に温もりを感じて、伯蓮が起き上がる。
隣に眠る朱璃と、いつの間にか手を繋いでいたのだ。
「……無意識の中でも、朱璃を求めてしまうのだな」
それはもう仕方のないことだと諦めた伯蓮は、繋がれた手をキュッと優しく握る。
朱璃の寝顔を愛おしそうに見つめ、幸せを噛み締めていた。
今なら昨夜拒まれた口付けが容易にできる。
そんな邪念を一瞬抱いたものの、尚華との嫌な出来事を思い出してすぐに振り払われた。
こうして手を繋いだまま、朱璃と朝を迎えられる日がまた訪れることを、伯蓮は密かに願う。
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