第19話 感謝




 深々と雪が降り積もりはじめた、三日後の夜。

 本日の業務を全て終えた朱璃は、侍女の専用部屋に帰るため一人雪道を歩いていた。

 肩こり解消のために腕を伸ばすと、白い息が空を舞う。


「はー、毎日忙しいけど充実してる」


 ついこの間まで下女として働いていたのに、皇太子宮の侍女に昇進したり、あやかし捜索係に任命されたり。

 突然攫われて監禁されたり、あやかしの秘密が明かされたり……。

 色んなことが朱璃の身に起こったけれど、蒼山宮の侍女に昇進してからまだ一月も経っていなかった。

 時の流れが早すぎて少し恐怖を覚えていた時、門前で待ち伏せしていた関韋に声をかけられた。


「朱璃殿、少しよいか?」

「関韋様! どうされましたか?」


 業務を終えたというのに、疲れた表情を見せない朱璃は関韋に駆け寄った。

 それを申し訳なく思いつつ、関韋は用件を述べはじめる。


「勤務時間外に悪いのだが、ついてきてほしい場所がある」

「わかりました。大丈夫です」


 朱璃の返事を聞いて、歩き出した関韋の様子はいつも通り。

 しかし、仕事を終えた後にわざわざ呼ばれることがなかった朱璃は、若干の違和感を覚えていた。


「関韋様、一体どちらに行こうと……?」


 朱璃の問いかけは聞こえているはずなのに、関韋は答えなかった。

 何か仕事を任されるものだと思っていた朱璃は、何の疑問も持たずに関韋の後ろをついて行く。

 すると向かった先は、伯蓮の生活する蒼山宮だった。

 朱璃が三階建ての宮を見上げていると、関韋が扉を開けて中へと誘導する。


「これより先は朱璃殿お一人で向かってください」

「え? どちらに向かえばいいのですか?」

「伯蓮様のお部屋です」


 そう言われた瞬間、今まで冷静だった朱璃が突然慌てふためきはじめた。


「ええ! でも伯蓮様はもうお休みになられる頃ですよね⁉︎」


 朱璃の問いかけに、関韋は無言のまま頷いた。

 そして見て見ぬふりをするように、朱璃を置いて立ち去ってしまった。

 就寝前だとわかっていて、それでも伯蓮の部屋に朱璃を向かわせようとする。

 侍女一人を皇太子の部屋に行かせるなんて、本来あってはならないことだ。

 それを関韋が許すということは、伯蓮の命令なのかもしれないと悟った。


『朱璃に伝えたいことがある』

(……もしかして、この前の?)


 豪子の件が片付いたら、伝えたいことがあると宣言されていた。

 それが今夜なのかもしれないと思い、一気に緊張が走る。

 朱璃は意を決して宮の扉を開け、薄暗い階段を上っていく。

 程よいドキドキ感と期待を胸に抱き、ついに三階へと到着した。

 伯蓮の私室前までやってきた朱璃は、すぐに違和感に気づいた。

 部屋の中は明かりが灯っておらず、伯蓮が待っているはずなのに物音すらしない。


「伯蓮様、朱璃です……」


 呼びかけたが返事がなく、すでに伯蓮は就寝しているのではと不安がよぎる。

 聞こえてなかっただけかもしれない。そんな心配もあって、朱璃は扉をそっと開け室内を覗き込んだ。

 その瞬間、室内に設置されていた燭台全てに火が灯り、パッと目の前が明るくなる。

 まるで妖術のような不思議な現象に、朱璃は声が出ないほど驚いた。

 そして落ち着く間もなく視界に入ったのは、円卓を埋める点心や果物の数々と、甘い香りを放つ果酒。

 お馴染みの三々に、渋々呼ばれた様子の貂々は窓辺でそっと眠っていた。

 架子牀には流と星の姿もあり、仲睦まじく寄り添っている。

 それらに囲まれて、嬉しそうに微笑む伯蓮が中心に立つ。


「よくきてくれた、朱璃」

「は、伯蓮様⁉︎ こ、これは一体……」


 状況が飲み込めずに戸惑っている朱璃を、伯蓮が優しく椅子に誘導する。

 着席した朱璃の様子を窺いながら、眉を下げて丁寧に説明をはじめた。


「驚かせてすまない。実はずっと、朱璃に礼がしたくてこのような場を用意した」

「え……?」

「流を搜索してくれた礼。発見してくれた礼。せっかくだから顔見知りのあやかしにも参加してもらったぞ」


 あやかしみんなの顔に視線を送りながら、伯蓮が楽しそうに話す。

 その気持ちだけで充分嬉しい朱璃は、胸を熱くさせて感謝を伝えた。


「……こちらこそ、お招きありがとうございます。なんだか秘密の集会みたいでワクワクしてきました」

「それはよかった。……それと、もう一つ理由があって」


 言いながら、伯蓮自ら筒杯に果酒を注いだ。

 それを静かに朱璃の手元に置くと、照れたように頬を赤く染めて呟いた。


「……朱璃と初めて出会った日から、一月が経った」

「あの中庭で出会ってからですか?」

「ああ。あっという間だな」


 自分の席に座った伯蓮は、自分の筒杯に果酒を注ぎながら懐かしむ。

 今にも溶けてしまいそうな甘い微笑みを浮かべるので、朱璃の心臓がキュッと音を鳴らした。

 鼓動が速くなっていき、伯蓮を直視できなくてそっと俯いてしまう。


(やっぱりこれが恋なのかな……)


 込み上げる感情を抑えて、朱璃は冷静を装うことで精一杯だ。

 けれど、せっかく伯蓮が用意してくれた秘密の集会。

 深呼吸した朱璃はいつも通りを心掛け、伯蓮との会話を楽しんだ。


「あの時は本当にヒヤヒヤしましたぁ」

「私のことになると、見境がなくすぐに下の者を怒鳴りつけるからな……」


 貂々を追いかけて、伯蓮の通過を妨害してしまった最初の出会い。

 あの時の宦官が朱璃を鞭打ちに処そうとしたところを、伯蓮に助けてもらった。

 あれから一月しか経っていないのに、色々なことが起こりすぎて遠い昔のように感じる。

 伯蓮と同じ記憶を懐かしむこの瞬間も、朱璃にとっては夢のような時間だ。

 すると、朱璃の手元に見かねた三々が円卓まで飛んできて、二人を仕切りはじめる。


「ほら二人とも、乾杯しろよ」

「え?」

「じゃないと集会が始まらねぇだろ? ほらほら」


 早く筒杯を持てと強引に促してくる三々。

 それもそうかと思った朱璃と伯蓮が、どちらからともなく目を合わせ自然と笑みをこぼした。

 互いに恥じらいを感じつつ、だけど確実に信頼感は抱いている不思議な関係。

 促されるまま円卓の上でコツンと当たった筒杯は、「乾杯」と発せられた口元に運ばれる。


「ん! とっても美味しいですね!」

「葡萄酒だが酒の成分はごく僅かだ。大丈夫だったか?」

「はい! こんな美味しい物を飲んだのは初めてです」


 今日のために宮廷料理人にお願いして作らせた、飲みやすさ重視の葡萄酒。

 初心者の朱璃にも好評で、伯蓮は胸を撫で下ろす。

 円卓に並ぶ豪勢な食事にも朱璃のワクワクが止まらず、瞳を輝かせている。


「食べ物もこんなにたくさん……」

「朱璃の好物がわからなかったから、多めに用意してしまった」

「ふふ、全部大好物なので嬉しいです。ありがとうございます」


 立案から準備までしてくれた伯蓮に、朱璃は心から感謝した。

 好きなものを食して良いと言われ、迷った朱璃は目の前の皿に手を伸ばす。

 白くて丸みを帯びた体に、桃色が華やかに色づけられた桃饅頭ももまんじゅうだ。

 ふわふわした感触を楽しみながら、朱璃は幸せそうな表情を浮かべて頬張った。


「おいひいれす!」

「そうか。良かった」


 口いっぱいに桃饅頭を詰め込んだ朱璃の言葉も、伯蓮は正しく聞き取って返事をした。

 ただ、準備中に少しだけ反省することがあり、情けなさを滲ませる。


「……私は、思ったほど朱璃のことを知らなかった――」

「え? 私のこと、ですか」

「好物もだが、酒が苦手ではないか、嫌いな食べ物はないかと悩んだ」


 好きな色。出身地。得意なこと。

 一番知りたい朱璃の気持ちさえも未だ聞けずにいる伯蓮が、寂しげな目をした。

 そんな伯蓮の気持ちは、朱璃もよく理解できた。

 噂にはよく聞いていたけれど、それは伯蓮の表面上の姿にすぎなかった。

 こうして伯蓮に出会わなければ、彼があやかし好きであることも、一生知ることがなかった真実。

 そんな伯蓮のことを、朱璃はもっと知りたいと思ってしまうのは――。


「恋だな」

「な、三々⁉︎」


 朱璃の思考を盗み見たように、今旬の言葉を発した三々。

 不意を突かれて顔を真っ赤にする朱璃は、円卓で桃饅頭をくちばしでつまむ三々を睨んだ。

 危険を察して窓辺へと飛び立った三々だが、伯蓮は朱璃の変化を逃すわけがない。


「恋?」

「今のはなんでもありません! 忘れてください! 桃饅頭美味しいです!」


 話題を変えようと、朱璃は必死に桃饅頭を頬張る。

 しかしその脳内では、あらゆる記憶が蘇ってきた。

 廟から助け出された帰り道で、「妃になればいい」と伯蓮に言われた。

 そんな恐れ多いことを即答できるはずがなく、誤魔化すように振る舞ってしまった。

 いっそ「妃になれ」と命令してくれた方が、迷わずに済んだのかもしれない。

 けれど、そうしない伯蓮を思うと、大切に想われていることが実感できた。

 そうして朱璃の中で芽生えたのが、恋かもしれないという心情。

 それを疑いはじめてから、伯蓮のことを考えるだけで胸の奥が騒がしくて熱っぽくて、幸福感に包まれた。

 すると伯蓮が、筒杯に入る果酒を突然飲み干して沈黙を破る。


「……朱璃と出会う一月前までは、宿命に抗う力さえ湧いてこなかった」

「伯蓮様?」

「尚華妃との婚姻も初夜を迎えることも。皇太子だから仕方がないのだと――」


 記憶を振り返って話す伯蓮は、哀愁を帯びた瞳をしていた。

 その姿もまた繊細な美しさを纏っていて、朱璃は引き込まれるように息を呑む。


「そんな時、貂々を捕まえるため自身の危険を顧みない朱璃に出会ったのだ」


 あやかしが視える人間に初めて出会い、伯蓮は驚きと喜びの感情がグッと湧いた。

 それだけでなく、自分の立場が危うくなることより思ったまま行動する朱璃に、伯蓮は心動かされた。

 茶会の時と初夜の時。あの瞬間に決まって、二度も朱璃に出会えたのは、宿命から抗えと通知されているようで。

 実際には、それらは貂々の作戦にまんまと嵌められていたわけなのだが、それでも朱璃には感謝している。


「あの時、朱璃を助けられるのは自分しかいないと思った選択が、宿命と戦う結果に繋がった」

「……それは、伯蓮様にとって良かったことなんでしょうか?」

「もちろん。私が一番、私らしく生きたがっていたのだから……」


 朱璃の問いかけに、伯蓮は満足感たっぷりの微笑みで応えた。

 その様子に、朱璃も自然と嬉しくなって笑みがこぼれる。


『伯蓮様には、幸せになってほしいなって思うんだ』


 朱璃がまだ下女を務めていた頃、貂々に向けて何気なく口にしたセリフを思い出した。

 心優しい皇太子の幸せを陰ながら願っていたのは、後宮の下女をしていた頃から変わらない。

 その伯蓮が、これからは伯蓮らしく生きられる。

 それに少しでも自分が力添えできたのなら、朱璃にとってこの上ない喜びだった。



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