第六章 守りたいもの

第16話 青春




 翌日、朝餉を乗せた配膳台車を押しながら、朱璃は廊下をとぼとぼ歩いていた。

 その目の下にはくっきりと寝不足の痕が刻まれている。

 昨夜の出来事が頭から離れず、眠ろうとすればするほど鮮明に思い出されてしまった。

 蓮の香に包まれながら、キツく抱きしめられた時の感覚。

 それが朝まで残っていたのだから、眠れなかったのも無理はない。

 しかし仕事は疎かにできない。朱璃は何度も気を引き締め直し、伯蓮の部屋の扉を開けた。


「……失礼いたします」


 朱璃が恐る恐る顔を上げると、起床直後の伯蓮が眠そうに目を閉じて椅子に座り、傍らには背筋を伸ばした関韋が困った様子で控えていた。

 しかし朱璃の声に気がついた途端、伯蓮はパッと目を開けて立ち上がる。

 そして朱璃の元に近づいて、花が舞うような柔らかい笑顔を咲かせた。


「朱璃、おはよう」

「お、おはようございます」

「昨夜はよく眠れたか?」

「は、はい……」


 いつも通りの伯蓮の態度に、少し安堵した朱璃がにこりと返事をした。

 しかし朱璃の顔がよく眠れたようには見えなかった伯蓮が、そっと手を伸ばしてくる。

 朱璃の目元を親指でスッと優しくなぞると、心配そうに声をかけた。


「嘘だな。あまり眠れていないだろう」


 見破られた上に突然の接触が合わさって、朱璃の心臓の鼓動は一気に加速する。

 いつも通りだと思っていたけれど、いつにも増して距離の詰め方が早い。

 それだけでなく、伯蓮から注がれる視線は以前より熱を帯びているよう。

 初心な朱璃は慣れないことの連続で戸惑うばかりだった。


「あ、朝餉の準備をいたしますね」


 料理が盛られた皿を円卓に並べていく朱璃の手が、変な緊張で震えてしまう。

 その間、関韋は伯蓮に業務連絡をはじめた。


「尚華妃の謹慎の件は三省に周知済みです」

「ご苦労。あとは豪子からの抗議を待つのみだな」


 三省とは、政治機関の重要な三本柱。皇帝の補佐的存在の宰相とは別の、法案を審査したり行政化したりする機関。

 しかし朱璃は、尚華の謹慎という言葉に一番の衝撃を受けて、朝餉の準備に勤しむ手が止まる。


「伯蓮様に薬を盛ったにもかかわらず謹慎のみとは、少々ぬるい気もしますが」

「尚華妃は餌だ。親玉を表舞台に出させるための」


 伯蓮と関韋の会話内容は、おそらく自分が捕らわれている間にあった出来事。

 そう思った朱璃が、目が飛び出るくらい大きく見開きながら伯蓮に尋ねた。


「尚華妃に薬を盛られたのですか⁉︎」

「あ、ああ。すまぬ、朱璃には言ってなかったな」

「そんな、今はもう大丈夫なんですか⁉︎ どこかお辛いところは……」


 勢いの凄まじい質問責めに、伯蓮も少し押され気味で戸惑っていた。

 その助け舟のつもりで、関韋がわかりやすく詳細を語りはじめる。


「薬といっても体に害はないものです」

「え……そうですか、良かったです……」


 説明を聞いて心底安心した朱璃が、胸を押さえて口元を緩ませた。

 ただ、真面目すぎる関韋が必要以上の情報まで口にする。


「服薬直後は動悸と発汗で、体が燃えるように熱くなったようですが」

「え! それは本当に大丈夫なのですが⁉︎」


 とんでもない症状を知り、朱璃は伯蓮の体を上から下まで視線を配って心配した。


「大丈夫です。何せその薬は催淫――」

「関韋!!」


 慌てて関韋の口を塞いだ伯蓮は、なぜか顔を紅潮させる。

 薬に詳しくない朱璃は、キョトンとした表情で首を傾げていた。

 その様子に、伯蓮がほっと肩を撫で下ろす。

 催淫薬を飲まされたなんて、できれば朱璃に知られたくない。

 伯蓮は容赦なく関韋を睨むと、その圧を感じ取りつつも悪びれもない様子。

 そして関韋はぺこりと頭を下げるのだから、なんとも肝が据わった侍従だと思った。


「そんなに辛いお体で私を助けに来てくれたんですね……」


 体の不調を抱えながらも、伯蓮は助けに来てくれた。

 感動と感謝の思いが溢れてきた朱璃は、その懐の深さにじんわりと胸を熱くさせる。


「も、もういいのだ。朱璃が監禁されたのは私のせいでもあるのだし」

「帰り道もずっと抱えてくださって……」

「当然のことだ。朱璃が気にすることではない」


 伯蓮は変わらず、優しい瞳と柔らかな声で朱璃を気にかけた。

 文句も言わず疲れも見せない姿に、朱璃が言葉を失っていたとき。

 いつもと様子が違う、胸の鼓動を感じていた。


「朱璃殿、朝餉の準備は整いましたか?」

「……あ、お待たせしました! どうぞ召し上がってください!」


 関韋の声かけに我に返った朱璃は、慌てて朝餉の準備完了を告げた。

 邪魔にならない部屋の隅で待機すると、伯蓮がニコリと微笑んで「いただきます」と食事を開始する。

 相変わらず綺麗な作法で皿と箸を持ち、静かに咀嚼する伯蓮。

 その姿をじっと見つめているだけで呼吸は浅く、鼓動はますます加速していく。


 *


 朝餉を終えると、伯蓮は毎日鍛錬場に向かって体を動かしている。

 その間、執務室を清掃する朱璃は、遊びにやってきた三々に相談した。

 伯蓮を眺めたり会話をしていたりすると、自分の身に起こってしまう変化を。

 すると三々は、あっけらかんとして言い放つ。


「それは恋だな」

「え⁉︎ ケホ……ケホ!」


 埃を吸ってしまったのか、掃除中の朱璃が大袈裟に咳き込む。

 それを気に留めない三々が、やっと動き出した二人の関係をまとめはじめた。


「昨夜、伯蓮に“妃になればいい”と言われた」

「冗談だったかもしれないけど」

「伯蓮の心臓の音を聞いたら、めちゃくちゃ速かった」

「……たまたまかも」


 三々に改めて尋ねられると、冷静に“じゃない方”を考えられた。

 やはり勘違いの可能性が大きい気がして、朱璃は三々に話したことを少し後悔する。


「伯蓮を見ているとドキドキする、抱きしめられた感覚が忘れられない」

「う……声に出されると恥ずかしい」


 熱を帯びた頬を両手で包み込む朱璃は、慣れない話に眉を下げた。

 それらを総合的に判断した三々は、確信を持って朱璃をじっと見つめる。


「二人とも、恋だな」

「やめてよー!」


 朱璃はとうとう耐えきれなくなって、床に手をついて崩れ落ちた。

 生まれて十七年、恋とは無縁に生きてきたし、後宮で働く自分には関係ない話だと思っていた。

 ましてやお相手は皇太子。許される相手ではないことだけは、朱璃が一番よくわかっている。


「朱璃も伯蓮も好き同士なら良いじゃん」

「良くないよ! 私は侍女で、伯蓮様は皇太子! 身分が全然違うのーっ」

「じゃあ妃になれば?」


 それで問題は解決すると思って、三々は悪びれもなく朱璃が妃になることを勧めた。


「……そんな簡単に言わないで、私には荷が重すぎるよ」


 特別美しいわけでも、楽器や舞の才能があるわけでもない。

 そんな人間が突然妃になっても、誰にも認めてもらえない。

 朱璃は、そんなことになってしまうと伯蓮の評価を下げると思った。

 表情に影が落ちた朱璃を気遣って、三々は励ますように説明する。


「朱璃を妃に指名するなんざ、伯蓮なら簡単だろ。それをしないのはなぜだと思う?」

「え……と。本気ではないから……?」

「伯蓮が不憫だな。朱璃の気持ちを尊重しているからに決まってんだろ」


 言いながら、三々は呆れたため息を漏らす。

 皇太子なのだから、朱璃を妃にするなんてことは簡単なはず。

 そうしないのは、朱璃が何よりも大切で嫌われたくないからだと、三々にも理解できた。


「てことで、俺は伯蓮を応援するぜ」

「ええ……⁉︎」


 高貴な身分でありながら、朱璃のような優しい人間を大切に思う。

 そんな伯蓮の恋が叶うことを三々は望んだが、ますます困惑する朱璃は、でもだってを繰り返していた。

 そのとき、微かに執務室に近づいてくる足音に気づいて、三々が声を上げる。


「わ、やべ!」

「え?」


 突然、窓の外へと飛んで行ってしまった三々に、朱璃が唖然とする。

 同時に執務室の扉が開いて、神妙な面持ちの伯蓮が入ってきた。


「あ、伯蓮様! おかえりなさいませ」

「朱璃、清掃中か?」

「はい。もうすぐ終わりますので」


 少し息を切らし慌てた様子の伯蓮。その額には汗が滲み出ていた。

 なんとも色っぽく魅力的な姿に、朱璃の心臓が大きく反応する。

 しかし黙って眺めるわけにもいかないので、すぐに巾を用意した。


「これをどうぞ」

「ああ、ありがとう」


 受け取った伯蓮は牀に腰掛けて汗を拭き取る。そんな姿もまた美しくて、眩しさを感じた朱璃が後退りしそうになった。

 ただ 朝餉の時とは打って変わって、伯蓮には緊張感が漂っていた。

 それが気掛かりとなり、朱璃は尋ねてみた。


「何か、あったのですか?」

「……先ほど従者がやってきた。これから豪子と会ってくる」


 謹慎中の尚華の件で、ついに豪子から連絡があったという。

 待ちに待った最終決戦前だというのに、伯蓮の表情は少し不安な表情を浮かべていた。

 朱璃から受け取った巾も握りしめたまま、じっと床に視線を落とす。


(……伯蓮様、緊張しているんだ……)


 朱璃は昨夜、宰相の豪子が陰謀を企てていることを初めて知った。

 それを阻止するため、伯蓮と貂々が各々動いていたということも。

 いずれ政権を乗っ取ろうとしている豪子を、このまま野放しにはできない。

 その事情を理解している朱璃は、両手に拳を作って伯蓮を励ました。


「きっと大丈夫です! 全てうまくいきます!」


 なんの根拠もなければ自信もない。けれど、朱璃はどんなことがあっても伯蓮の味方であることは変わりない。

 それに貂々の正体は十代皇帝の鮑泉。彼も豪子の陰謀を阻止するために、暗躍していた。

 伯蓮は正しい。正しい者には、必ず明るい未来が待っていることを、朱璃は信じている。


「……はは、朱璃に言われると、不思議と力が湧いてくるな」

「そ、そうですか?」

「ああ、本当に……」


 不安げだった伯蓮の顔から、ふっと力が抜けていく。

 いつもの優しい笑みを浮かべて、朱璃に感謝の念を抱いていた時。

 互いに目を離す機会を失い、見つめ合ったまま緊張した空気が流れていく。

 さらには、三々の“恋だな”という言葉も蘇ってきて、朱璃は変に意識してしまう。

 心臓が慌ただしく大きな音を鳴らして、収まる気配もなく頬が熱くなる。

 すると、朱璃の異変に気付いたのか、伯蓮が呟くように話しはじめた。


「……豪子の件が、無事に終わったら」

「え……?」

「朱璃に伝えたいことがある」


 真摯な態度と熱意のこもった伯蓮の眼差しは、朱璃に息の仕方を忘れさせた。

 伯蓮が朱璃に伝えたいこと。それは豪子の件が無事に終われば明かされる。

 しかし今の朱璃は、その言葉を聞いて期待せずにはいられなかった。


「……わ、わかりました」


 朱璃はギュッと喉に力を入れながら、なんとか返事をする。

 その間も、心臓の鼓動が激しく波打ちどうにも収まらなかった。

 それは伯蓮に恋をしているのかもしれないと、ついに自分を疑いはじめてしまったから。


(私なんかが皇太子様に恋をするなんて、いったいどうしちゃったの……⁉︎)


 今まで認めるわけにはいかないと頑なだったせいか、疑った途端に制御不能になりかける思考。

 どうやって伯蓮と接していたかもわからなくなりそうで、朱璃は頭を抱えた。

 すると伯蓮が笑いながら立ち上がり、朱璃の頬にそっと触れる。


「楽しみだな」

「っ……!」


 挙動不審な朱璃を可愛らしいと思いながら、伯蓮は不敵な笑みを浮かべた。

 無邪気さと確信的な意味を含んだ笑顔が、再び朱璃の鼓動を加速させる。

 これから行われる宰相豪子との最終決戦。

 その陰謀を暴くために、想いを寄せる朱璃から立ち向かう力を分けてもらった。



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