第六章 守りたいもの

第16話 青春



 翌日、朝餉を運んでいた朱璃の目の下には、くっきりと寝不足の痕が残されていた。

 昨夜の出来事が頭から離れず、眠ろうとすればするほど鮮明に思い出される。

 蓮の香に包まれながら伯蓮に抱きしめられた時の感覚が、朝になっても取れなくて。

 だけど仕事は疎かにできないとして、何度も気を引き締め直す朱璃。


「……し、失礼いたします」


 配膳台を押しながら部屋に入った朱璃は、恐る恐る顔を上げる。

 すると、起床直後の伯蓮が眠そうな表情で椅子に座っていて、傍らには関韋が困った様子で控えていた。

 しかし朱璃の声に気がついた途端、パッと柔らかな笑顔が咲いた伯蓮。


「朱璃、おはよう」

「お、おはようございます」

「昨夜はよく眠れたか?」

「は、はい……」


 昨夜あんなことがあったあとだけれど、いつも通りの伯蓮に朱璃は少し安心した。

 が、朱璃の顔がよく眠れたようには見えなかった伯蓮が、そっと手を伸ばしてくる。

 親指でスッと優しく朱璃の目元をなぞると、心配そうに声をかけてきた。


「嘘。あまり眠れていないだろう」

「……っ⁉︎」


 見破られた上に、突然触れられたことで朱璃の心臓が一気に加速する。

 いつも通りだと思っていたけれど、いつにも増して距離の詰め方が早い。

 それだけでなく、伯蓮から注がれる視線は昨日よりも熱を帯びているようで、慣れない朱璃は戸惑うばかり。

 料理が盛られた皿を円卓に並べていく朱璃の手が、変な緊張で震えてしまう。

 そんな朝餉の準備の間、関韋は伯蓮に業務連絡をはじめた。


「尚華妃の謹慎の件は六部に周知済みです」

「ご苦労。あとは豪子からの抗議を待つのみだな」

「しかし伯蓮様に薬を盛ったにもかかわらず謹慎のみとは、少々ぬるい気もしますが」

「尚華妃は餌だ。親玉を表舞台に出させるためのな」


 その会話が耳に入ってしまった朱璃は、自分が捕らわれている間にあった出来事を初めて知る。

 そして朝餉の準備中であることを忘れ、驚いた顔を伯蓮に近づけた。


「尚華妃に薬を盛られたのですか!」

「あ、ああ……朱璃には言ってなかったな」

「そんな、今はもう大丈夫なんですか⁉︎ どこか痛いところとか……」


 ものすごい剣幕で問いかけられ、伯蓮も押され気味の様子。

 すると、助け舟のつもりで関韋が詳細を語り出した。


「薬といっても体に害はないものです」

「え? そうなんですか、良かったです……」

「まあ直後は体が熱くなり発汗して、ムラムラすることもあったでしょうが」

「村?」

「何せその薬は催――」

「関韋!!」


 慌てて関韋の口を塞いだ伯蓮は、なぜか顔を紅潮させながら朱璃の顔色を確認してきた。

 しかし薬の正体まではわからず首を傾げている朱璃を見て、ほっと肩を撫で下ろす。

 催淫薬を飲まされた体で朱璃を助けに行ったなんて、できれば知られたくない伯蓮は容赦なく関韋を睨んだ。

 その圧を感じ取った関韋は、悪びれもなくぺこりと頭を下げるだけ。

 それでも伯蓮の体調が心配だった朱璃は、眉を下げて問いかける。


「でも、そんな辛いお体で私を助けに来てくれたんですか……」

「も、もういいのだ。朱璃が監禁されたのは私のせいでもあるのだし」

「帰り道もずっと抱えてくださって……」

「当然のことをしたまで。朱璃が気にすることではない」

「っ……」


 優しく微笑む伯蓮に、朱璃はますます胸を熱くさせた。

 皇太子ともあろう方が、侍女にそこまでする必要なんてないはずなのに。

 ましてや元下女の、身分の低い朱璃にそこまでの対応は通常ではあり得ない。


「朱璃殿?」

「あ……はい!」

「朝餉の準備は整いましたか?」

「あ、お待たせしました! どうぞ召し上がってください!」


 ぼんやりしながら準備をしたせいで、完了を伝え忘れてしまった。

 慌てて答えた朱璃に、伯蓮はニコリとしながらも「いただきます」と囁いて食事を開始する。

 相変わらず綺麗な作法で皿と箸を持ち、静かに咀嚼する伯蓮。

 その姿をじっと見つめていると、昨夜その腕にきつく抱きしめられたことを思い出した。

 すると突然、顔が熱くなって激しい動悸に襲われた朱璃だが、退室するわけにもいかないので。

 グッと胸を抑えながら、鎮まるまでひたすら我慢した。




 朝餉を終えた伯蓮は、毎日鍛錬場に向かって体を動かすのが日課だった。

 その間、伯蓮の執務室を清掃する朱璃は、遊びにやってきた三々に相談する。

 伯蓮とのやりとりと、自分の身に起こっている説明のしようがない変化を――。


「それは恋だな」

「え⁉︎ ……ゲホ、ゲホ!」


 三々の発した単語に驚いた朱璃は、盛大にむせてしまった。

 しかし、そんなことはお構いなしの三々は、やっと動き出した二人の関係をわかりやすくまとめはじめる。


「伯蓮を見ているとドキドキする、抱きしめられた感覚が忘れられない」

「う……そんなはっきりした感じには言ってない」

「んで伯蓮からは妃になればいいと言われた」

「それも、冗談だったかもしれないけど」

「でも伯蓮のドキドキしていた心臓の音を聞いた」

「……たまたまかも」

「二人とも、恋だな」

「やめてよー!」


 自慢ではないが、生まれて十七年恋とは無縁に生きてきたし、そんな余裕がなかった朱璃は頭を抱えた。

 恋をする感覚も、どこからが恋と呼べるものなのかも不明。

 ましてやお相手は皇太子。恋をしていい相手ではないことだけは朱璃が一番よくわかっている。


「何の問題があるんだよ、朱璃も伯蓮も好き同士なら――」

「大問題だよ! 大体私は侍女で、伯蓮様は皇太子! 身分が全然違うっ」

「人間ってめんどくせぇな。あやかしに身分なんてもんはねーから」

「三々も元は人間だったくせにぃ」

「はーあやかし最高だぜ」


 人間だった頃に比べてあやかしである今が気楽で最高だと思っている三々が、嫌味混じりに言ってくる。

 頬を膨らませて睨む朱璃だが、こんなことを相談できる相手は今のところあやかししかいない。

 まともな答えを求める方が難しい気がしてきて、表情が曇ってしまった。

 それに気づいた三々は、少し考えてから朱璃の肩に乗って言い聞かせる。


「伯蓮ほどの身分の人間なら朱璃を妃に指名するなんざ簡単なのに、それをしないのはなぜだと思う?」

「え……と。本気ではないから……?」

「ばっ――伯蓮が不憫だな。朱璃の気持ちを尊重しているからに決まってんだろ」

「尊重……?」

「それほどに朱璃も、朱璃の気持ちも大事に思ってるってことだ」


 三々の指摘に何も言い返せない朱璃は、自分が思っている以上に伯蓮が色々と考えて気を遣っているということに気づく。

 あやかしを接点に距離が縮まった二人だけど、それ以上のことをいつも伯蓮はしてくれていた。

 朱璃がそれを感じているからこそ、自分が伯蓮にとって負担になっていないか不安になる。

 自分は何も返す事ができない、何も持っていないただの侍女。


「それほど想われてんだから口付けの一つや二つ許してやれよ」

「な! そんなことしてない! 暖をとるためにちょっと、こう、ぎゅっとしただけ!」

「え? そうだっけ?」


 誤った認識をしている三々に、顔を赤くした朱璃は慌てて訂正した。

 口付けなんて恋人でもないのにするはずないのに、許してやれとはどういう意味で言っているのやら。

 三々のいい加減さが窺えて、貂々に相談すればよかったと朱璃が後悔した、その時。


「わ、やべ!」

「え?」


 突然、三々が羽ばたいて窓の外へと飛んで行ってしまった。

 朱璃が唖然としていると同時に執務室の扉が開いて、神妙な面持ちの伯蓮が入ってくる。

 急いで戻ってきたのか、鍛錬を途中で切り上げたのか。

 額に汗を滲ませたままの伯蓮に、朱璃の胸が一瞬跳ねた。


「あ、おかえりなさい伯蓮様」

「っ⁉︎ ……すまない、清掃中だったか」

「いえ、もうすぐ終わりますので」


 言いながら巾を用意した朱璃は、牀に腰掛けた伯蓮に手渡した。

 礼と共にそれを受け取った伯蓮は、汗を拭き取りながら深呼吸をする。

 朝餉の時の微笑みの絶えない伯蓮とは違い、なんだか緊張感が漂っていて。

 自然と、何か力になりたいと思った朱璃はそれとなく尋ねてみた。


「何か、あったのですか?」

「……これから、豪子と会ってくる」

「胡豪子様に?」

「ああ。先ほど従者を通して連絡があった」


 昨夜、宰相の豪子が陰謀を企てていることを朱璃は初めて知った。

 それを阻止するため、伯蓮と貂々が各々動いていたのだが、ついに豪子との直接対決がはじまるらしい。

 いずれ政権を乗っ取ろうとしている豪子を、このまま野放しにはできない伯蓮と貂々。

 その事情を理解している朱璃は、両手に拳を作って応援した。


「伯蓮様、頑張ってきてくださいね!」

「はは、朱璃の応援は心強いな」

「そ、そうですか?」

「ああ、本当に……」


 すると、不意に視線が合って、時間が止まったような感覚に襲われる。

 目が離せない、だけでなく三々の“恋だな”という言葉も蘇ってきて、変に意識してしまう朱璃に緊張が走った。

 その異変に気付いたのか、伯蓮がポツリと話しはじめる。


「……豪子の件、無事に終わったら……」

「はい……?」

「朱璃に伝えたいことがある」


 真摯な態度と熱意のこもる眼差しに圧倒されて、朱璃はコクリと頷いた。

 今のが、自分に対する恋心からくるものだとしたら、すごく嬉しいような恥ずかしいような。

 三々の言葉にまんまと左右される朱璃は、いろんな思考がぐるぐると駆け巡る。

 ただ、心優しい伯蓮の力になりたいという願いだけは真実だった。


「よし。おかげで元気が出てきた」

「良かったです!」

「着替えたら出発だ」

「はい! ……え?」


 すると鍛錬後だった伯蓮は、汗を吸い取った服を着替えるために突然脱ぎはじめた。

 露わになる程よく引き締まった上半身に、朱璃の心臓がギュンと握りつぶされそうになる。

 侍女としてそこまでの務めをしたことがなくて、その場であたふたしていると。

 少し遅れて執務室に入ってきた関韋が、困った顔で伯蓮に物申す。


「伯蓮様、朱璃殿が挙動不審になっています」

「え! あ、すまなかった。着替えを手伝うのは初めてだったな」

「……ひゃい」


 目を閉じながら首を縦に何度も振る朱璃は、簡単な返事も噛んでしまうほど男の体に慣れていなかった。

 それは人間の姿の流と対面した時に知っていたことだが、気配りに欠けていたと詫びる伯蓮。

 しかし、今後は身の回りのことも朱璃にお願いしたいと思っていたので――。


「では少しずつ慣らしていこう」

「な! 何をですか!」

「ほら、早く手伝ってもらわないと私が風邪を引く」

「え、う、っは、はいぃ!」


 風邪を引かれては困る朱璃は、新しい衣服を取りに奥の間へと向かう。

 戸惑いの中にいても従順で健気な後ろ姿を見て、伯蓮はますます心が奪われていく感覚を覚えた。

 ただ、そんな様子に関韋はというと。


「好きな子ほどいじめたくなる気持ちはわかりますが……」

「な、なんだ……」

「今のはセクハラ性的嫌がらせかと」

「朱璃! やはり着替えは関韋に手伝ってもらう!」


 どうしても朱璃には嫌われたくない伯蓮が、その言葉で危機感に襲われ必死になる姿もまた珍しく。

 関韋は一人、恋愛は人をいいようにも悪いようにも変えると考えていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る