第10話 窮地



 一方、ここは後宮区域の一番奥にあたる北側。

 そこには、壁の塗装が剥がれ落ちて瓦も石畳も手入れがされていない廟がひっそりと建つ。

 その屋内にある小さな一室に、朱璃は閉じ込められていた。

 棚が均等に配置され、書物がいくつも積み上げられて保管されているのをみると、おそらくここは書庫だろう。

 夜も更けり誰か立ち寄る様子はなく、聞こえてくるのは葉ずれの音かアオバズクの鳴き声のみ。

 朱璃の口は布で覆われたまま、廟に到着してからは尚華の侍女らに手足を縄で縛られた。


(はあ……伯蓮様、心配するだろうなー)


 てっきり尚華の目の前で肉刑の執行がされるか、集団で暴行されるかだろうと思っていたら。

 手足を縛り身動きの自由は奪ったものの、書庫に閉じ込めただけで侍女らは退散していった。


(どうして尚華様は、私を閉じ込めるだけにしたんだろう……)


 朱璃の命は、尚華が握っている。

 そう宣言されたにもかかわらず、今のところ命の危険が迫る感じを受けていなかった。

 もしかして他にも目的があり、処分を後回しにされているのか。

 もしくは本気で命を奪ってやろうとは思っていないのか。


(……尚華妃も、何かに迷われているのかな……)


 いつも周囲の侍女や朱璃のような下女にキツく当たるのも、それだけの負荷が本人にかかっているのだとしたら。

 そんな孤独を抱える妃を、朱璃はなんとか救う方法はないのかと考えたのだが――。

 突然、ふっと冷たい空気が流れ込んできて身を震わせた。


(……さ、寒くなってきた)


 冷気が入ってくる方に視線を向けると、天井近い位置にある細窓が開いていた。

 紙を扱う書庫ならば、湿気を発生させないために換気は必要。

 しかし、冬を間近にした外気は刺すように冷たく、それが朱璃の頭上から漏れ入ってくる。

 徐々に書庫内を冷やしていき、木板でできた床さえも冷たく感じてきた。

 朝までに耐えられるかもわからないし、このまま誰にも発見されなければ低体温症になってしまう。

 そうなれば誰に手をかけられたわけでもなく、眠るようにこの命が消える可能性も浮上した。


(もしかして、これが最終目的……?)


 侍女らは口裏を合わせているだろうし、朱璃の証言がなければ犯人は不明のまま。

 何者かに攫われ監禁されている自分は寒さに耐えきれずここで命を落としても、尚華は罪に問われず明日を生きる。

 伯蓮との初夜を妨害したことを、やはり今でも充分恨まれていたと悟った朱璃。


(……お父さんお母さん、もう会えないかも)


 両親の顔を思い浮かべながら、ただただ寒さに耐えるため体を丸めた。

 そして、いつくるかもわからない助けをひたすら待つ。

 しかし、ここは後宮内でも誰も近寄ることのない場所のため、誰かが通りかかることは諦めていた。

 せめて声が出せたら――そう思って顔を上げた朱璃は、柱に顔を擦り付けて口を塞ぐ巾を外そうと試みる。

 すると思い通りにズルズルずれて巾が首元にぶら下がり、なんとか自由に話せるようになったその時。 


「ぷは、やった外せた!」

「……ミャウ」

「うわ⁉︎ 誰……?」


 どこからか猫のような鳴き声が聞こえてきて、朱璃は視線を至るところに向けた。

 すると本棚下のわずかな隙間から、一匹のあやかしが姿を現す。

 姿は猫のようで耳は兎のように大きい、空色をした可愛いあやかし。

 どこかで見たことのある特徴と容姿に、朱璃は確信して名前を呼んだ。


りゅう! 伯蓮様のところの流でしょ⁉︎」

「ミャウ⁉︎」

「やっと見つけた! 流〜!」


 あやかしが視える人間に出会ったことと、名前を呼ばれたことに驚いた流は一度は身を潜めたものの。

 恐る恐る顔を出して、朱璃の顔を再度確認して首を傾げる。


「あ、ごめんね驚かせて。私は朱璃。伯蓮様に流の捜索を頼まれていたの」

「ミャ?」

「伯蓮様も星も心配しているから、一緒に蒼山宮に帰ろう?」


 朱璃が優しい口調で語りかけると、流は安心したのか少しずつ近づいてきた。

 そして座り込む朱璃の足元までやってきたのだが、不服そうな表情で見上げてくる。

 何を訴えかけられているのか気づいた朱璃は、危機感のない笑顔を浮かべた。


「あはは、そうだった。私たち閉じ込められてるんだった……」

「ミャウ」


 流もコクリと頷いてみたが、朱璃を心配して不安げな瞳を向けてくる。

 今の状況では、せっかく流を発見できたのに伯蓮の元に連れ帰ることができない。

 そのことが何より残念で、朱璃は項垂れた。

 しかし、せっかく声は出せるようになったのだから、いちかばちかで朱璃が大声で助けを求める。


「すみませーーん! 誰かいませんかーー!」


 もちろん廟の周囲には誰もいないし、気配もない。

 それでも声が聞こえて近寄ってきてくれたら、見つけてもらえる可能性は充分にある。

 懸命に大きな声を張り上げるが、出せば出すほど疲労は溜まった。

 それでも朱璃は、目一杯息を吸って声を出す。


「閉じ込められてますーー! 助けてくださーーい!」


 流の発見を早く伯蓮に知らせたい。

 だけど手足は縛られ体は自由に動かなく、寒くてうまく思考も働かなくなってくる。

 徐々に瞼が重たく感じて、何度も閉じそうになる時。

 足元にいる流が、小さな手でトントン叩き起こしてくれた。


「え、うそ。寝そうだった?」

「ミャ」

「どうしよう。眠ったら絶対だめなのに……そうだ! 流にお願いが」

「ミャウ?」

「私の指噛んで!」


 言いながら流に背中を向けた朱璃は、縛られた両手を見せて指先を動かした。

 ここだよ、と主張するようにして、流に噛み付くよう促す。

 痛みが走れば眠たくなることもないと思って、そう提案したはずなのだが――。


 ガブッ!

「……あまり、痛くない……」


 どうやら流にはそれほど鋭い歯はなく、噛まれても目を覚ますほどの激痛は感じられなかった。

 それだけでなく、朱璃の指先が異様に冷たくなっていて、ついに感覚がないことにも気づく。

 足の指先も同様で、確実に体が冷えに耐えられなくなっていることが表れはじめた。


「どうしよう、いよいよまずいかも……」

「ミャウミャーウ!」

「……そうだよね、諦めちゃ、ダメだよね……」


 流の鳴き声だけで何を言っているのか伝わった朱璃が、力無く微笑む。

 しかし、冷えてきた体を起こしているだけでも辛く感じて、朱璃はとうとうその場に倒れてしまった。

 横になれば一気に眠気に襲われることをわかっていても、震える体がいうことを利かない。

 目の前には流があたふたしながら、不明瞭な意識の朱璃を見守る。

 もしかすると後日、尚華の侍女が様子を見に扉を開けるかもしれないから。

 流にはその時にこの部屋を抜けてもらって、無事に伯蓮の宮に変えることができればそれで良い。

 あやかしは空腹感も寒暖差も感じないから、今すぐ流の命が危険に晒されるという心配もないと思った。

 だから朱璃は、薄れる意識の中でつい口走る。


「…………生まれ変わったら、あやかしに、なりたいな……」

「……ミャ……」


 驚愕した流が目を見張る中、眠りについてしまった朱璃。

 こんな寒い場所でこのまま寝ていたら、朝までには持たないだろう。

 あやかしの流にはどうすることもできなくて、横たわる朱璃の体の周りをぐるぐる走る。

 その時、外気が漏れてくる細窓から星々が輝く夜空が見えた。

 そして奇跡的に一筋の光がものすごい速さで夜空を駆ける。


「……ミャウ」


 それを目撃した流は、暫し考えたあとに朱璃の背後に回って目を閉じ、精神を集中させた。

 流の主人あるじである伯蓮に頼まれて捜索していたと言っていた朱璃。

 彼女に出会ってそれほど時間は経っていないけれど、それでも今の朱璃を助けたいと強く思えたのは。

 伯蓮にとって朱璃がどんな存在なのか、なんとなく理解できたような気がしたから。

 ここで見す見す死なせてしまっては、伯蓮が悲しむことが容易に想像できた。

 流と星にとって伯蓮は、自分たちあやかしを大切にしてくれる、尊敬に値するご主人様。

 その伯蓮と同じように、あやかしを大切にする心が朱璃にも感じられた。


「…………だから、俺が人肌脱いでやるよ」


 どこからか男性の声が聞こえてきて、眠りの中の朱璃は助けが来たのかと思い、意識を呼び起こそうとした。

 すると手足を縛っていた縄が解かれていく感覚がわかって、一目その姿を拝んでお礼を述べようと瞼をピクリと動かす。

 しかし、重たい瞼を開けようとしたところで、大きな手のひらで覆われてしまった。


「っ……あ……」

「いいから、眠ったままでいいよ」

「……は、い……」


 その手の温もりは明らかに人のもので、安心した朱璃は言われるがままに再度眠りにつく。

 そして冷たい床からそっと抱き起こされると、まるで誰かの腕の中で抱えられているような体温を感じた。

 朱璃の体を抱きしめながら暖めていく一人の男性。

 その髪色は、人間にしては実に珍しい空色をしていた。



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