第四章 二人のピンチ

第9話 危機



 その異変に気づいたのは、ちょうど夕餉の準備が整いそうな頃だった。

 公務を終え着替えた伯蓮は、椅子に座り食事が円卓に並んでいくのを眺めていた。

 今日はいつもより疲労を感じていたから、たくさん食べて体力をつけなければと考えていると、侍従の関韋が小さな声で耳打ちしてくる。


「朱璃殿がまだ戻っておりません」

「は? 本当か?」


 窓の外に視線を向けると、とっくに日は落ちている。

 以前にも似たようなことはあったが、その時は無事に帰ってきた。

 そして「今後は日没までに戻る」約束を守り続けていたのだが、ここへきて再び遅れるとは。


「何か、胸騒ぎがする……」

「ですが、もうすぐ戻ってくるような気もしますし」

「確かに、おおらかな朱璃のことだからな……」


 例えば迷子のあやかしを見つけて、送り届けたために遅れているのかもしれない。

 前回は早とちりして門まで出迎えてしまったから、今回はもう少し冷静に対応したい。

 そんなふうに思っていた伯蓮だが、胸の奥ではもう一人の自分が「本当にそれでいいのか?」と問いかけてくる。

 狭間に立たされて、もちろん食事の手は止まってしまう。

 前回と全く同じ様子に、関韋はもう驚かなくなった。


「伯蓮様、どうされたいですか?」

「……っどう、とは……」

「探しに行きたいですか?」

「っ!」


 関韋の問いかけがあまりに真っ直ぐで、色々と思考が混雑していた伯蓮の行くべき道を照らしてくれた。

 本来ならば、侍女一人が戻らないことで皇太子自らが行動するのは、まずありえない。

 ただ、それをわかった上で関韋は伯蓮の意思を確認したかった。

 その視線が、皇太子というよりも一人の男を見るように――伯蓮を試しているように思えたのだ。

 ガタッ!

 勢いよく立ち上がった伯蓮は「食事は後にする」と他の侍女に説明して、身支度をはじめる。

 察した関韋は、用意していた外套を伯蓮の肩に掛けて、その手助けをした。


「……関韋……」

「さあ、急ぎましょう」


 いつも無表情で、滅多なことでは感情を表に出さない関韋。

 しかしこの時は、まるで年の離れた弟を応援するような優しい目をしていて。

 背中を押された気持ちになった伯蓮は、自分に仕える侍従が関韋で本当に良かったと改めて思った。




 後宮の正門前までやってきた伯蓮と関韋。

 他の従者をつけず二人きりで現れたことに、門番の二人はかなり驚いていた。


「こ、皇太子殿下⁉︎」

「今朝、蒼山宮の侍女が後宮に入ったはずなのだが、まだ戻っていないのだ」

「い、今お調べいたします!」


 急ぎ記録帳を確認する門番を横目に、伯蓮は関韋と示し合わせるように視線を交わした。

 後宮内でも単独行動ができない伯蓮は、宦官らを引き連れて朱璃を探すことになる。

 そして男子禁制の後宮への立入ができない関韋は、朱璃との行き違い防止のため門前で待機。


「もしも朱璃が来たら、遣いをよこしてくれ」

「かしこまりました」


 すると門番は記録帳を何度も確認して、首を傾げながら伯蓮に伝える。


「入場記録はありましたが、退場記録が見当たりません」

「では連れ戻す。門を開けよ」

「か、かしこまりました!」


 記録帳を閉じた門番は威勢の良い返事をして、もう一人の門番は慌てて宦官を呼び出した。

 すっかり日が暮れた空は三日月と星々が輝いていたが、それらの光だけでは足りず。

 後宮の敷地内に設置された灯籠と、宦官らが持つ手持ち行灯の光が頼りとなる。


「伯蓮様、後宮にいらっしゃるなら事前にご連絡をいただかないと……」

「緊急なのだ。悪いが手分けして人を探してくれ。私の宮で働く侍女を」


 正門をくぐり後宮に入った伯蓮は、五人の宦官と合流した。

 しかし、ここへきた目的を話し朱璃の外見の特徴を説明して、すぐに各方面へと捜索に向かわせる。

 そうして一人の宦官だけが、付き人として伯蓮のもとに残った。

 少しずつ奥へと進んでいく伯蓮に、宦官は戸惑いながらも従うのみ。

 あちらこちらにあやかしの姿が確認できたが、宦官がいる手前、朱璃の行方を尋ねることはできない。

 すると、焦りが表情に出ている伯蓮に意外な人物の声がかけられた。


「まあ、伯蓮様ではありませんか」

「……尚華妃……」

「そんなに急いで、どうされたのですか?」


 まるで、伯蓮が来るのを予測していたかのように微笑みを浮かべた尚華が、華応宮の門前で立っていた。

 初夜の日以降、会うことを避けていた彼女を目の前にして、少し気まずさは覚えたものの。

 朱璃探しに急いでいた伯蓮は、ここは穏便に済ませたいと思った。


「尚華妃。すまないが今急いでいるのだ。初夜の件はまた日を改めて詫びに――」

「まあ、それは順序が逆ですわ」

「……なに?」

「先にわたくしと次回初夜について話し合いをしていただかないと、探しものは?」


 ニコリと口角を上げた尚華は、伯蓮が後宮に訪れた目的をすでに知っているような口ぶりだった。

 なぜ?と思うより先に、朱璃の安否が一気に危険と隣り合わせだと悟って不穏な空気が流れる。

 朱璃は尚華の手によって攫われ、帰ることができなくなった。

 そう理解した伯蓮が、尚華に近づき冷ややかな目で見下ろす。


「……朱璃に何かしたのか」

「それも、一緒に夕餉を楽しんでくれましたらお話しします」

「無事なんだろうな?」

「伯蓮様次第ですわね」


 そう言って門を開けた尚華は、「こちらへどうぞ」と招き入れる。

 沈黙した伯蓮は拳を握って怒りを耐えるが、ここで従わなければ朱璃の居場所がわからないまま。

 闇雲に探すよりは、尚華から情報を聞き出す方が確実。

 伯蓮は覚悟を決めて招かれるままに門を潜ると、宦官と共にその敷地内に入った。

 石畳の上を歩く足音がやけに響く中、伯蓮は中庭を通過する。

 その時、一本の木の上に視線を向けた。

 朱璃曰く、貂々はいつもここを棲み家にしていると聞いていたから。

 しかしそこには貂々の姿はなく、伯蓮は頼みの綱が不在だったことに肩を落とす。


「こちらです」


 通された部屋の壁際には数人の侍女が待機しており、まさに夕餉を開始する準備が整われていた。

 円卓には二人分の席と取り皿や筒杯が用意され、初めから伯蓮をここに呼ぶためだったことが窺える。


(……一体、なにを考えているんだ……?)


 朱璃が攫われたのは、自分を誘き寄せて話し合いの場を設けさせるため?

 そう思うと、巻き込んでしまった朱璃に対して、伯蓮は申し訳ない気持ちを抱いた。

 大人しく部屋に入った伯蓮は、尚華との食事を想像して表情を曇らせる。

 続いて宦官が部屋の中で待機しようと足を踏み入れると、退室する侍女らに止められた。


「ごめんなさい。伯蓮様と二人きりにしてほしいの」

「……伯蓮様、いかがなさいましょう?」

「…………部屋の外で、待機していてくれ」

「か、かしこまりました」


 尚華の言われた通りに事を運ぶ伯蓮は、その場で外套を脱ぎ宦官に手渡した。

 そうして着席したと同時に宦官が退出し、扉は静かに閉じられてついに二人きりとなる。

 料理の匂いが立ち込める部屋にもかかわらず、食欲が全く湧かないまま。

 正面の椅子には笑みを浮かべた尚華が腰掛け、満足げに話しかけてきた。


「ようやく、ゆっくりとお話しできますね」

「……なるべく手短に」

「例の“元下女”がそんなに心配ですか? 妻のわたくしには初夜の謝罪も未だにないというのに」

「それは……本当にすまなかった」


 余裕の表れなのか、筒杯を持ってゆっくりと水を飲む尚華に、伯蓮は視線を逸らして謝罪した。

 ただ、尚華は宰相である胡豪子の娘。

 関韋曰く「尚華妃は伯蓮様を慕っている」らしいが、父親に何を指示されているかもわからない妃の言動を、簡単に信じてはならない。

 だから伯蓮は、本当の“尚華”と対話がしたかった。


「しかし、尚華妃は本当にそれを望んでいるのか? 親に言われるがままの婚姻、片手の指で足りるほどしか会ったことのない私と……」

「もちろんです。伯蓮様の人気は父上から常々聞いておりましたし、お顔立ちもわたくしの好みですし」

「私にその気がないことはわかっているだろう? 惨めではないのか?」

「…………何が、おっしゃりたいのですか?」


 筒杯を静かに置いた尚華は、その笑顔を崩さない。

 しかし掴んでいた手はなかなか離れず、必要以上の力が加わっているように見受けられる。

 感情を揺さぶられていると感じた伯蓮が、尚華の目を見て語りかけた。


「尚華妃の人生は尚華妃のものだ。父、豪子のものではない」

「……そんなこと、わかっております……」

「だからこの婚姻の話は断るべきだったのだ。しかし……当時の私は、断るのを恐れてしまった」


 言いながら苦悩で歪む伯蓮の表情を、尚華もじっと見つめる。

 突然舞い降りた婚姻話を承諾したのは、豪子の後ろ盾がなければこの国を支えられないと考えた皇太子なりの決断だった。

 しかし、いざ尚華が入内し初夜を迎えようとした時、どうしてもその足取りは重く。

 部屋に入り妃を前にすると、とてつもなく消えてしまいたい衝動に駆られていた。

 そんな絶望の中、突然部屋に乱入し全力で威嚇していたのは、あやかしの貂々。

 そして、それを止めようと現れたのが、朱璃だった。


「あの乱入騒動で、私は目が醒めた気がした」

「な、なぜそのように……」

「私の人生も私のものだからだ。豪子と対立することになっても、私の妻は私自身で選びたい」

「っ……⁉︎」

「それは尚華妃も同じだろう? 気づけば恋に落ち、互いに想い合い、一生添い遂げると誓った相の方が幸せだと――」


 伯蓮の説得しようとする強い気持ちと優しい声は、尚華の心に絡まる鎖を緩めていく。

 互いに望まぬ婚姻関係となり、その心と体までも脅かされようとしている事を、伯蓮は尚華にわかって欲しかった。


「次期皇帝という宿命のもとに生まれると、そうもいかないと痛感している」

「わ、わたくしだって、胡一族の娘として生まれたからには……」

「だが、そんなしきたりは我々の代で断ち切らないか?」

「断ち切る? まさか婚姻を取り消すというのですか?」

「私はそうしたい……尚華妃にとってもその方が、良いと思っている」


 豪子の言われるがままに利用されている尚華を、救いたい気持ちは本当。

 だからきっと、同じ境遇で間違った選択をした二人で話し合えば、伯蓮は分かり合えると思っていた。

 すると、深いため息と共に立ち上がった尚華は、近くに用意されていた茶壺にお湯を注いで呟く。


「……わたくしは、伯蓮様を本当にお慕いしておりました」

「それは豪子が――」

「妃として入内したのは父上の指示ですが、これは正直な気持ちです」


 茶壺をゆっくりと空中で回し、二つの茶器に茶を注いでいくと甘い匂いが立ち込めた。

 そして尚華は、今までの余裕の笑みから一転、寂しげに微笑んで伯蓮の言葉の意味を理解する。


「なので、今婚姻を取り消すということは、今後どんなに伯蓮様を想ってもそれは届かないということですね」

「……尚華妃の気持ちには、応えられない」

「父上を敵にしてでも、わたくしとの婚姻を解消したい――と」

「…………ああ」


 断固たる返事を聞いた尚華は、茶器を運んで伯蓮の目の前に置くと静かに着席。

 そして、ようやく朱璃についての言及をはじめた。


「あの元下女を使って、伯蓮様をここに呼び寄せるのが目的でした」

「っ⁉︎」

「ですが、お話を聞いて諦めがつきました」

「尚華妃……」

「わたくしとのお茶に付き合ってください。そうしたら居場所をお教えいたします」


 瞳を潤ませながらも懸命に笑顔を絶やさない尚華を見て、伯蓮の心もしっかり痛んだ。

 しかし、これは乗り越えなくてはいけない痛みであり、それを覚悟で話をしている。

 だから、尚華とになるこのお茶だけは、望み通り付き合うべきだと――。

 片手で茶器を掴んだ伯蓮は、甘い香りと波紋の立つ薄茶色の眺め、ゆっくりと口に含んで飲んだ。

 その様子をじっと見ていた尚華の口角がわずかに上がった事を、伯蓮は知る由もなく。

 甘い香りに似合わず、舌がピリつくような初めての刺激を感じて瞠目する。


「……不思議な茶だな」

「はい。遠い異国の茶葉をいただきました。……父から」

「豪子から?」


 最近、豪子とやりとりでもあったのか?と思った、その時。

 体の奥から燃えるような熱を感じ、伯蓮は眉根を寄せて胸を掴んだ。

 血流が一気に加速したように体温が上がっていき、汗とともに呼吸も荒くなる。


「……っ、なんだ……?」


 明らかに体が異変を起こしていて、着ている服を脱ぎたくなるほどの衝動に駆られる伯蓮。

 そんな状況で尚華に目を向けると、と言っていたはずの茶を彼女は飲んでいなかった。


「……っ毒か⁉︎」

「毒ではありませんのでご安心ください、ただ……」


 言いながら尚華がふと目にしたのは、茶壺付近に置かれた鶸色の小さな巾着袋。

 それは先日、豪子の指示で初老の侍女が預かり持っていたものだった。


「血行促進と身体感覚が研ぎ澄まされて、催淫効果も期待できる“お薬”ですわ」

「っ……尚華妃、何を……考えて……」

「わたくしは胡一族のために皇后にならなくてはいけないのです。それには……伯蓮様とのお子を産まなくてはいけません」


 尚華は妖しく微笑みを浮かべると、ゆっくり席を立ち正面の伯蓮に腕を伸ばした。

 身の危険を感じてそれを避けようとした伯蓮は、バランスを崩して椅子から落ちる。

 すぐに立ちあがろうと床に膝をつけて踏ん張るが、うまく力が入らなくて立つことができない。


(……朱璃は、本当に無事なのか……?)


 皇太子の伯蓮に対しても、恐れる事なく媚薬を盛る尚華に捕まった朱璃の安否を、何より心配した。

 早く助けに行かないと――と思う反面、その居場所を知っている尚華にはもう話が通じそうにない。

 絶望を感じながらも上体を起こそうとする伯蓮の隣に、いつの間にか尚華が屈んでいた。


「いずれ理性を失い、わたくしのことを欲しくなりますわ」

「……これも、豪子の、指図か……」

「はい。これでお子ができたら、きっと父上も喜びますね」


 父親によって完全支配された娘の尚華にとっては、自分の意思や他人の意見よりも父親が絶対優先なのだろう。

 説き伏せることができなかった上に、伯蓮の油断が尚華に好機を与えてしまうなんて。

 そう後悔していると、伯蓮の火照った頬に触れてきた尚華が、蕩けた表情を近づける。


「さあ伯蓮様、今から初夜をやり直しましょう」

「ッ⁉︎」


 抵抗する力も間も無く、伯蓮の意思に反して触れてしまった唇は、怒りと無力を痛感して震えていた。



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