第8話 心配



 何とか逃げ延びた朱璃は無事、東宮区域に到着して蒼山宮まで続く最初の門を潜った。

 しかし「日没までには戻る」と言っていたのに、日が暮れてから少し経過している。


(結構かかっちゃうなぁ。明日はもう少し早く後宮を出ないと……)


 そしてこの後は、侍女としての仕事も待っていた。

 今は伯蓮が夕餉を開始した頃だから、その後の片付けや湯浴みの準備をしなければ。

 侍女としての仕事も頑張りたい朱璃が、頭の中で仕事手順をおさらいしていると、突然名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「朱璃!」

「え……、伯蓮様?」


 視線を上げると、正面から石畳を駆けてくる伯蓮を確認した。

 その後ろには侍従の関韋が、少し呆れた様子でついてくる。

 何かしでかしたのだろうかと不安に思った朱璃は、目の前で停止し肩で息をする伯蓮に問いかけた。


「あ、あの……私また失敗を……?」

「はぁ、はぁ……いや、私が勝手に、心配しただけだ……」


 日没はとっくに過ぎているのになかなか帰ってこない朱璃を心配して、わざわざ門まで様子を見にきたらしい。

 そんな伯蓮は今頃夕餉中のはずなのに、と朱璃が不思議に思っていると、関韋が無表情のまま詳細を語りはじめる。


「食事中、何度も席を立ち窓の外を確認しようとするので中断してきました」

「え……?」

「か、関韋! そんなことは言わなくて良いっ」


 侍従も愚痴ってしまうほどに、朱璃が宣言通りに戻ってこないことで落ち着きがなかった伯蓮の様子。

 それが朱璃の前で明かされ、慌てて関韋の口を塞いだ伯蓮はすぐに訂正した。


「……朱璃のことだから、必ず帰ってくることはわかっていたのだ」

「は、はい……」

「ただ、突然雨や雪が降ってきたらと思い、心配していただけで……」


 朱璃が当初の予定よりも帰るのが遅れてしまったのは事実。

 それでも伯蓮は朱璃が必ず戻ると信じていたし、そわそわしていた原因は単に空模様を心配していただけだという。

 伯蓮の話を理解して、ようやく安堵した朱璃は表情を和らげた。


「そういうことでしたか。戻りが遅くなって申し訳ありませんでした」

「あ、ああ……ご苦労だった」

「明日はもっと早く戻りますね」


 朱璃も無事戻り、それを確認した伯蓮は部屋に戻ろうと踵を返す。

 すると報告漏れがあった朱璃がその腕を咄嗟に掴んで、耳に唇を寄せてきた。


「あの、伯蓮様……」

「っ!!」

「流は見つからなかったのですが、また明日頑張りますから」


 不意打ちすぎる腕への絡みと耳打ちに、伯蓮は一気に顔を紅潮させて思考は停止。

 関韋が同じ空間にいる場合、あやかしの流について報告するには耳打ちしかなかった。

 だから何も間違ったことはしていないと思い込んでいる朱璃は、さっさと持ち場へ向かって歩きはじめる。

 しかし、朱璃が立ち去ったあともずっと耳に残る声と息遣いに、さすがの伯蓮はその場に膝をついて項垂れた。


「……伯蓮様。お気を確かに」

「関韋……私の気は確かだ」

「左様でございますか、そうは見えませんでしたので」

「っ……少し、黙っていてくれ」


 石畳を見つめながら、伯蓮がたまに思うこと。

 それは伯蓮が、朱璃に振り回されたりもどかしくなっているこの状況を、実は関韋は楽しんでいるのではないか。

 今の一言でその疑念がより強いものになったが、いつまでも寒空の下でこうしているわけにもいかない。

 深呼吸を繰り返してようやく落ち着きを取り戻した伯蓮が、何事もなかったようにスッと立ち上がる。


「……関韋、戻るぞ」

「かしこまりました」


 そうして姿勢を正し、胸を張って歩く伯蓮は行きとは全くの別人のように、誰もが尊敬する皇太子の姿。

 しかし、思うがままに行動していた先ほどの背中は、とても力強くて頼もしく、一切の迷いがなかった。

 心の中でそう考えていた関韋は、伯蓮の後ろを歩きながら密かに微笑む。

 ただ、肝心の伯蓮は反省点ばかりが頭の中を支配した。


(私は一体、何がしたいのだ……)


 距離を置くと決めた矢先、こんなに朱璃を意識してしまうとは思ってもみなかった。

 こんなふうに思い悩むことも、心が躍ることも、何もかもが初めての経験。

 正解や対策がわからない伯蓮が部屋に戻ると、案の定夕餉はすっかり冷えてしまっていた。



  ***



 それから連日、後宮に通っては流を捜索する朱璃。

 南から徐々に北に向かって、一つ一つの建物の中も慎重に確認していた。

 しかし、努力虚しく流はまだ見つからないまま。

 五日目の日没間際に、事件は起こる。


「三々、今日も協力してくれてありがとうね」

「だけど流は見つけられなかったな。お前はこれから貂々のところ寄るのか?」

「うん。でも最近、いつも昼寝していた木の上にいないんだよね」


 華応宮の中庭に向かって歩く中、肩に乗る三々とそんな話をする。

 ずっと中庭の木の上にいた貂々を、ここ最近全く姿を見ない。

 棲み家を移したのか、それとも何か他の原因があるのか。

 行方不明の流も見つからなくて、あやかしが突然いなくなってしまうことに少し敏感になる。


「あやかしが攫われる話とかは、聞いたことある?」

「いや、凶暴な奴はもっと人里離れた山奥や海にいるし、王宮ここのは大人しいあやかしばかりだ」

「へぇそうなんだ。凶暴なあやかしもちょっと見てみたいかも……」

「やめろ、いい事ないぞ」

「ごめんごめん」


 危険なあやかしにまで興味を持ちそうになった朱璃を、三々は冷静に窘めた。

 王宮に棲みつくあやかしに慣れて、朱璃は可愛い外見の想像しかできていなかったけれど、

 きっと世の中にはもっと恐ろしい姿のあやかしもいるんだろうな、と三々のおかげで考え直した。

 ただ、流に引き続き貂々の行方もわからないのは、流石に事件性も感じてしまう。


「そろそろ日が暮れるぞ、早く帰った方がいいんじゃねーのか?」

「わ、ほんとだ! 急がないと」


 日没までには蒼山宮に帰って、伯蓮の夕餉に間に合うように朱璃は心がけていた。

 そうしないと、また伯蓮に冷えた食事をさせてしまう(心配させてしまう)と思ったから。


「ていうか、あの皇太子はちょっと過保護すぎないか?」

「私が頼りないから心配してくれているんだよ」

「は? それだけ?」

「それだけって……私のような元下女にも優しくしてくれる人格者なんだから」

「あ、そう(わかってねーなー)」


 三々でさえ感じていた、伯蓮が朱璃に対する特別な振る舞い。

 残念ながらそれら全て本人には全然伝わっていないことを、伯蓮に教えてやりたくなる三々だった。



 そうこうしていると華応宮に到着して、その門の前で三々と別れた。

 日没も近いから、中庭をちらっと確認することしかできない。

 そっと門を開けて、今日こそ貂々に会えますようにと願いながら、中庭目指して進んでいくと――。


 ガシ!

「な、なに⁉︎」


 突然数人の侍女に囲まれて、抵抗する間もなく取り押さえられた朱璃。

 無理矢理押さえ込まれた体は屈むしかなく、地面に膝をつけて動きを封じられる。

 背後に立つ侍女二人には左右の腕を掴まれていて、振り解くこともできなくなった。

 そこへ優雅に歩いてきたのは、嬉しそうに微笑む尚華。


「ふふ、懲りもせず毎日ノコノコやってくるのが悪いのよ」

「尚、華様……?」


 肉刑を下された日以降会っていなかった尚華が、目の前に立ち朱璃を見下ろしてくる。

 この状況を指示したのが妃だとすぐに理解して、なぜこんなことをするのかと尋ねようとした。

 しかし声に出すより前に、その口は長い巾で覆われ後頭部で玉結びにされる。


「んー!」

「勝手に喋らないで。あんたの命はわたくしが握っているんだから」

「っ……⁉︎」


 それは一体どういう意味なのか。

 初夜を妨害した恨みがまだ強くて、これから刑の執行をするのだろうか。

 それとも伯蓮の侍女に昇進したことが癇に障り、集団で暴行されるのだろうか。

 色んな憶測が頭の中をぐるぐると駆け巡ったが、おそらくその全てが当てはまりそうな状況。


「例の場所に連れていって。絶対に見つけられないようにしなさい」

「かしこまりました」


 尚華の指示は事前に計画していたような口ぶりで、侍女たちはすんなりと聞き入れて朱璃を立たせる。

 そして“例の場所”へと向かって歩きはじめた。

 華応宮の敷地内で起こった出来事。

 もう少し先に行けば中庭があって、貂々が戻ってきているか確認できたのに。

 それが叶わなくて眉を下げた朱璃は、今夜は蒼山宮に戻れないことを悟った。


(――どうしよう、ごめんなさい伯蓮様……!)


 そして、伯蓮に心配をかけてしまうことを考えて、胸が押し潰されるほどの苦痛を覚える。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る