第3話 昇進



  ***



 突然の昇進と異動命令が下った朱璃は、早急に私物をまとめて寝静まった後宮を出る。

 そうして宦官の案内のもとやってきたのは、皇帝陛下の血筋の皇子たちが住まう内廷の東側、東宮。

 中でも一番の豪華さを誇るのが、皇太子の伯蓮が生活を送る蒼山宮区域だった。


(な、何この広さ……!)


 外塀の端から端が目で追えず、広範囲な敷地というのが容易に想像できる。

 最初の門を潜ってもなお、最奥に建つ蒼山宮まではほど遠く。

 その間、更に三つの門があり、途中には侍女らの寝床や調理場などの建物を通過する。

 そんな道のりでようやく辿り着いたのが、三階建ての建造物。

 煌びやかな場所に住んでいる皇太子に、今夜から侍女として仕えるなんて――。


(初夜を台無しにした私に、伯蓮様は一体何を頼むのかな……)


 本来、身分の低い者が下女。

 そしてそれなりに家柄がしっかりしている者は侍女として、王宮内で職を与えられる。

 それゆえに、朱璃の昇進は誰もが驚いていた。

 蒼山宮の侍女が着用する鴇色の衣装を与えられ、今まで一束にしていた髪は下ろし左右に小さなお団子を作る。

 元下女には到底見えないほどに、朱璃は年相応の綺麗な女性に変貌を遂げた。

 しかし服の肌触りが良すぎて落ち着かず、そわそわしたまま二階の執務室前に到着。


「夜分遅くに申し訳ありません。華応宮から参りました、朱璃です……」


 すでに公務は終了しているから、執務室から物音は聞こえず不安がよぎる。

 するとゆっくり扉が開いて、侍従らしき長身の男性が現れた。

 八尺はありそうな背丈と筋肉質で丈夫な体つきは、壁のような圧を感じる。

 朱璃より一回り年齢が離れていそうな落ち着いた態度に、緊張が走った。


関韋かんい、通してくれ」

「かしこまりました」


 奥から伯蓮の指示が聞こえてきて返事をした関韋が、朱璃には無言のまま部屋の中へと招き入れる。

 やはり歓迎されていないのかな、なんて思う朱璃は、関韋に一礼して先に進んだ。

 いかにも高級な壺や鏡、家具なども揃えられている部屋に、緊張感は上昇するばかり。

 華応宮の下女が皇太子に見初められて妃に――。

 というわけでは決してなく、皇太子の侍女として迎えられた朱璃は。

 これから主人となる伯蓮と再び顔を合わせた。


「急に呼び出してすまなかったな、朱璃」

「い、いえ……」

「……着替えたのだな。侍女の服装もよく似合っている」

「あ、ありがとうございます」


 部屋の奥には、艶めく橙色のしょうに腰かけてくつろぐ、薄着の伯蓮が確認できる。

 ただ、頬は少しばかり赤く染まり、長い髪は水分を含んでいるようにも見えたので、朱璃はすぐに湯上がり直後だということに気がついた。


「あああすみません! 出直してきましょうか⁉︎」

「いや、大丈夫だ。それよりも急ぎの大事な話があるのだ」

「急ぎ……」


 伯蓮はそばにあった椅子に座るよう朱璃に指示を出し、自分も今一度姿勢を正した。

 無自覚な色気が皇太子から放出される中、朱璃は恐縮しながらも心臓はドキドキと音を立てる。


「そう緊張しなくても良い」

「は、はい。しかし……」

「“あやかしが視える”者同士、仲良くしていこうではないか」


 言いながらニコリと微笑んだ伯蓮は、今までの大人な雰囲気とは少し違い、朱璃と同い年だということを思い出させた。

 同時に、先日の分と先ほどの危機を救ってもらった分のお礼が、ようやくできるとも。


「あの、二度も助けていただきありがとうございました」

「礼など不要だ。それにお前は貂々を止めようとしていただけだろう」

「はい……」

「私にはそれが視えていた。それに……実は感謝したいのは私の方だ」


 すると伯蓮が俯いたまま無言になるので、朱璃は心配しながらも様子を窺っていると、やがて恥じらいの顔を浮かべながらポツリと呟いた。


「その……私はあまり乗り気ではなかったのだ」

「へ?」

「今夜の、尚華妃との閨事を……」

「え……あ! さ、左様でしたか!」


 つまり初夜を迎えようとしていた伯蓮は、尚華妃との閨事を望んではおらず、朱璃の侵入事件は有難い妨害だったということらしい。

 だから尚華妃の部屋の前で、あんな暗い顔をしていたのかと納得した朱璃だが。

 なんだかこちらまで恥ずかしくなってきて、それを誤魔化すように饒舌多弁になる。


「あああの貂々というあやかしとは華応宮内で初めて出会いまして、いつも中庭の木の上で昼寝をしている子なんです!」

「え?」

「最近は急に予測不可能な行動に出るので危なっかしいと思っていたんですけど、普段は大人しくてもふもふしていて可愛いんです!」


 必死に話題を変えたつもりだが、相手は皇太子だ。

 もっと丁寧かつ上品な話し方で接するべきだったと、朱璃は反省する。

 しかし伯蓮にとっては、そんな朱璃の対応はとても新鮮で楽しさを感じていた。

 そして話題に出てきた貂々について、伯蓮からも報告を受ける。


「先ほど後宮を出る際、貂々を逃がしてしまったのだ」

「そうでしたか。でも大丈夫です。いつもの中庭の木に戻ったのだと思います」

「尚華妃の宮に居座るとは、貂々はそれほど妃を好いているのか?」

「ふふ、私も最初はそう思っていました。ですが――」


 普段は大人しく、一方的に語ってくる朱璃に対しても不快感を露わにしたことがない。

 なのに尚華妃の部屋に侵入した時の貂々は、明らかに敵意をむき出しにしていた。

 だから、尚華妃を推しているという考えはきっと間違いだと朱璃は気づく。

 前回も今回も、貂々が行動を起こす引き金となったのは、伯蓮の訪問。

 もしかすると、貂々には別の目的のようなものがあって、それを果たすために中庭の木に居続けているのかもしれない。

 朱璃はそう仮説を立て、難しい顔をした。


「貂々が心配か?」

「え……そ、そうですね」

「私も心配しているあやかしがいるから、朱璃の気持ちはよくわかる」

「伯蓮様にも?」


 言いながら、朱璃はなんとも不思議な感覚に包まれた。

 あやかしが視える者同士だからこそ分かり合える会話がそこにあって、非常に嬉しい反面。 

 相手は皇太子で高貴なお方なのに、こんなにも親近感を抱いてしまって大丈夫か?と不安も過ぎる。

 すると突然立ち上がった伯蓮が、朱璃の目の前まで距離を詰めた。

 そして懐からそっと取り出したのは、両手に収まるほど淡褐色をした小さなあやかし。


「わぁ、可愛い! 猫、だけど耳が兎みたいに長いあやかしなんですね」

「一年前から私の私室に棲みついていたのだ。この子にはせいと名付けた」

「毛並みも綺麗、良い具合のもふもふ感……」


 伯蓮が可愛がっているあやかしを紹介されると、朱璃は目を輝かせてその手を出したり引いたりしていた。

 初めて見る種類のあやかしを是非この手で触りたいという気持ちと、皇太子の許可なしに触れるわけにはいかないという葛藤の表れ。

 その様子を見た伯蓮は、あまりに面白い朱璃の動きに耐えきれず、笑い声を漏らした。


「ははっ、なんだその、面白い動きは……っ」

「え⁉︎ す、すみません……!」

「触れても問題ない。星は撫でられるのが好きらしいから」

「あ、ありがとうございます」


 皇太子を笑わせるほど面白い動きをしていたのか、と自分でも少し恥ずかしくなった朱璃。

 しかし、あまりに無防備な笑顔を咲かせた伯蓮を見て、緊張感は和らいでいく。

 顔に熱を帯びていると自覚しながらも、気を取り直してそっと星に触れてみた。


「わあ……絹のような手触り……」

「そうだろう。なぜこうもあやかしは美しいのだろうな」

「本当ですね……一生推せる……」


 互いに常日頃思っていた気持ちを吐露し、まるであやかしを愛でる会でも開催されているような現場と化していた。

 ――が、すぐに我に返った伯蓮が本題に入る。


「実は、星には“流”という名のつがいもいたのだが、三週間前から行方がわからなくて」

「え? もしかしてその流という子が、伯蓮様の心配するあやかしですか?」

「……ああ。探そうにも手がかりが何もなく、私も自由に動けない身で……」


 かといって従者に頼める内容でもないことは、朱璃が一番よくわかっていた。

 行方不明となったあやかしの捜索は、あやかしが視える者にしか務まらない。

 伯蓮が言っていた「頼み」の意味を今ようやく理解して、勢いよく立ち上がった朱璃は胸を叩いた。


「わかりました! 私が“流”を探してきます!」

「引き受けてくれるか?」

「もちろんです! お任せください!」


 ハキハキとした声で頼もしい言葉を発してくれた朱璃に、伯蓮は心から安堵して表情が緩む。

 そしてそれは、実は朱璃も同じだった。

 後宮にやってきて以降、理解されないこと前提で、あやかしの話を誰かに話したことはない。

 それでも、確かにあやかしはここに存在していて、こんなに不思議で可愛い存在を共有できないことに苦しんでいたから。


(これからは伯蓮様と、あやかし語りができるかもしれない……!)


 こうして後宮の下女だった朱璃は、皇太子自らの抜擢で侍女へと昇進した。

 それと並行してあやかし捜索係にも就任したわけなのだが、その秘密の任務を知っている人間は。

 今のところ、ここにいる二人だけ――。



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