第2話 初夜
鞭打ち回避の件から一週間が経った。
相変わらず中庭の掃除に時間がかかっていた朱璃が、全ての落ち葉を片付け終えた頃にはすでに日が傾いていた。
「やっと終わったー!」
その間、貂々がいつもの木の上でのんびりうたた寝をしていたから、長い間の単独作業も寂しくはない。
すると尚華の侍女たちが宮中を慌ただしく動いている様子がふと視界に入って、とある情報を思い出す。
「そうだ貂々。実は今夜、伯蓮様が華応宮にくるんだって」
「……。」
「いよいよ初夜を迎えるみたい。あのお優しい伯蓮様が、胡一族の尚華妃と……」
この婚姻が政略的意味を持つということは、下女の朱璃にもわかっていた。
だけど先日、伯蓮の人柄や慈悲深さに触れた身としては、感情的になりやすい妃と皇太子の契りは素直に喜べなくて。
「こんなこと、下女の私が考えることじゃないかもしれないけれど」
「……。」
「伯蓮様には、幸せになってほしいなって思うんだ」
身分に関係なく、他者を思いやり手を差し伸べてくれる優しい心の持ち主だった。
そんな皇太子がいつの日か皇帝陛下となられた時に、傍で支えてくれるような……。
伯蓮を一番に想ってくれるような素敵な妃と、どうか結ばれて欲しいと願う。
「で、でも尚華妃は伯蓮様をお慕いしているはずだよね。お茶会に招待するくらいだもの!」
「……。」
「伯蓮様も、国一美しいといわれている尚華妃には、すぐに心を奪われてしまうだろうし……」
「……。」
「美男美女の夫婦誕生に、街も賑わっているのかな?」
相変わらず話してくれない貂々を相手に、朱璃は様々な思考を吐露しては無意識に表情を曇らせる。
興味なさそうにそっぽ向く貂々も、耳だけはしっかり朱璃の方に傾けていて。
ただ、あやかしが視えていても、その思考まではみえないことに、朱璃は残念な気持ちを抱いた。
その時、廊下を慌ただしく歩く侍女が朱璃の存在に気付いて、咄嗟に声をかける。
「ちょっとそこのあんた、お願いしたいことがあるんだけど!」
「え? 私ですか?」
秋の夕焼け空の下、朱璃に初めての仕事が充てられた。
***
夜を迎えた華応宮に、いよいよ皇太子の伯蓮がやってきた。
前回の茶会時よりも少ない宦官を従えて、ゆっくり廊下を歩いてくる。
しかしその足取りは重く、伯蓮自身も終始神妙な面持ちを浮かべていた。
そして初夜のために用意された部屋の手前で立ち止まると、すぐに部屋へは入ろうとはせず、しばし沈黙したまま、静寂の中を立ち尽くしていた。
すると、扉前で待機する二人の侍女のうち、見覚えのある人物を一人発見して伯蓮は目を丸くする。
「ッ⁉︎」
「伯蓮様、どうされましたか?」
「……っなんでも、ない」
その様子を気にして宦官の一人が尋ねるも、伯蓮は軽く首を横に振って再び沈黙。
用意された部屋の中には、尚華がまだかまだかと待ち侘びているはず。
その扉を、伯蓮の合図で開ける役目を任されたのが、体調不良となった侍女の代理として急遽呼ばれた朱璃だった。
(……今、また伯蓮様と目を合わせてしまった……かも?)
一週間ぶり、奇跡的に再び会える機会を与えられたのだから、先日の言いそびれたお礼をしたい。
しかし、初夜を目前に余計なことはできず、今は黙って自分の役目を果たすのみ。
いつでも扉を開けられるように待機している朱璃は、頭を下げたまま伯蓮の指示を待った。
「…………開けてくれ」
振り絞るような伯蓮の声を初めて聞いて、さすがの皇太子も初夜は緊張するものなのだと朱璃は思った。
指示通りにゆっくりと扉を開けると、室内で待機していた薄着の尚華が姿を現した。
艶やかで長い黒髪は後ろに束ねられ、煌びやかで豪華な花の簪が飾られているが、これでも初夜用に控えめな方で。
愛らしい目元とぷっくりとした唇が色っぽい美女の、歓迎する喜びの声が響き渡った。
「伯蓮様! お待ちしておりました!」
しかし、それに応える伯蓮の返事は聞こえないまま、更に部屋の奥へと進んでいった。
その背中を見届けた朱璃は、先日会った時よりも遥かに寂しそうで可哀想な印象の皇太子に心を痛める。
(……だけど、これが皇太子としての務めなんだ……)
侍女や宦官が外で待機する中での初夜。
好きでもない相手との閨事なんて、自分だったら絶対嫌だと考えた。
伯蓮の苦悩を少し理解した気になった朱璃は、複雑な感情を抱えたまま。
それでも自分にはどうすることもできないとわかっていて、静かに扉を閉めようとしたその時。
「ギャウゥゥ!」
「あ! 貂々⁉︎」
突然、茂みに隠れていたあやかしの貂々が威嚇の鳴き声を叫びながら飛び出してきて、扉が閉まるわずかな隙間を滑り部屋の中に侵入した。
それを目撃できたのは朱璃だけで、咄嗟に呼び止めたけれど間に合わず。
反射的に扉を再度開けた朱璃は、部屋の中に向けて片腕を目一杯伸ばし、貂々の長くもふもふした尻尾を掴むことに成功する。
「っ捕まえ、……た…………⁉︎」
捕獲することだけに夢中だった朱璃は今、自分が何をしでかしたのかすぐに理解した。
滑り込んだ体は、甘い香の匂いが立ち込める部屋に横たわり、恐る恐る顔を上げると目の前には呆然とする伯蓮。
そして、その体にピッタリと抱きついていた尚華が、驚愕の表情で見下ろしていた。
扉の前には騒ぎを聞いた宦官らが集まってきたが、部屋への立ち入りを躊躇している。
幸い二人はまだ衣を纏っていたし、直接的ないかがわしい場面でなかったことに朱璃はホッとした。
しかし、己の体がこれから初夜を迎えようとしている神聖な部屋に侵入したことは、紛れもなく現実。
先日よりももっと重大な妨害を犯してしまったと、後悔したところで後の祭り。
「ああああんた! 一体どういうつもり⁉︎」
「す、すみません! この子が急に……」
言いながら貂々に視線を向けるも、尚華にあやかしの姿はもちろん視えていない。
ふざけていると思われた朱璃は、初夜を妨害された妃の怒りをますます買ってしまう。
「やっと伯蓮様と結ばれるという時に、雰囲気ぶち壊しよ!」
「す、すぐに退散いたしま――」
「誰か! 今すぐこの女を肉刑にして!」
「……え⁉︎」
肉刑とは身体の一部を切断するという、死刑の次に重い刑罰。
主に足や鼻がその対象だが、入れ墨も含まれている。
いずれにしても、大事な身体を深く傷つけられることには変わりなく、鞭打ちよりも深刻だ。
すると尻尾を捕まれていた貂々が尚華を威嚇して、更に鳴き声を上げた。
いつもと様子が違い攻撃的な貂々に、朱璃も戸惑いを隠せない。
しかしあやかしが視えない者は、その鳴き声を耳にすることもできず。
周囲の人間の目には、錯乱した下女が皇太子の初夜部屋に侵入し妨害したようにしか見えない状況。
「絶対に許さないわ。下女の分際で!」
「っ!!」
怒りが頂点に達した尚華は、懐に挿していた扇子を手に取り朱璃に向かって振り翳す。
飛んでくる!と思った朱璃は固く目を閉じたが、当たる感覚がすぐにはやってこない。
ゆっくり目を開けると、そこには尚華の腕を掴み、扇子が投げ飛ばされるのを阻止した伯蓮の姿。
その凛々しく綺麗な顔が、少し怒りを滲ませながらじっと妃を睨みつける。
「は、伯蓮様……!」
「少々感情的になりすぎだ。落ち着かれよ」
「ですが……!」
「それに自分の宮の下女ならば、皇太子に対しての無礼は妃にも責任があるのでは?」
「っ……!」
伯蓮の言葉に息を詰まらせた尚華の恨みは、ますます下女の朱璃に蓄積される。
確かに華応宮の下女として働いていた朱璃だが、尚華が自ら希望したわけではない。
それに面識もない下女のせいで、妃に責任が問われることも面白くなかったのだろう。
「こんな下女、わたくしは知りませんわ!」
そうして朱璃を見捨てる発言をした尚華は、腕を組んで顔を背けた。
ただ、そんな妃の対応に朱璃は今更がっかりはしない。
常日頃から、自分勝手で感情の起伏が激しい妃の素性は充分知っていたから。
(ああ、私の後宮人生、終わったぁ……)
借金を全て返済する前に、不自由な体になってしまう。
両親からもらった大事な体を、できればそのままの状態で故郷に帰りたかったけれど、叶いそうにない。
朱璃は生まれて初めて、何もかも捨ててしまいたい衝動に駆られた。
そして貂々の尻尾を掴んでいた手から、力が抜けてきたその時。
ヒョイ。
「……え?」
朱璃の目の前に屈んだ伯蓮が、他の者には視えないはずの貂々を躊躇なく抱き抱えたのだ。
呆然とする朱璃はもちろん、皇太子に突然抱っこされた貂々も、驚愕した表情で体を硬直させている。
そうして優しく背中を撫でられた貂々は、やがて落ち着きを取り戻し、先ほどまでの威嚇態勢が嘘のように平常時となった。
先日も感じた、伯蓮に対しての違和感。
やはりそれは間違っていなくて、この国の皇太子である伯蓮も、あやかしが視える人だったのだ。
周りの宦官らも、そして尚華も何が行われているのか視えない中、体を起こしてその場に正座した朱璃だけが、伯蓮の行動に理解を示す。
「……あり、がとうございます……」
「……名を、何と申す?」
「名? え……と、貂々です」
戸惑い混じりに答えると、なぜか伯蓮はクスッと笑ったように口元を手で隠した。
そしてもう一度、次はわかりやすく質問する。
「そうではない。お前の名だ」
「あ、私ですか……? 朱璃、と申します」
「朱璃。早速だがお前に頼みがある」
「え?」
「聞き入れてくれるか?」
伯蓮の柔らかい声に絆されて、考える間もなく朱璃の首が縦に動いてしまった。
何でも手に入るであろう一国の皇太子が、下女の自分に頼み事とは一体何だろう。
そう思いながらも、必要とされたことに朱璃は喜びを感じ、鼓動はいつもより強く脈打つ。
そんな二人の意味不明な会話に苛立ちを覚えた尚華は、悔しさを滲ませた。
「伯蓮様! コソコソと何の話を――!」
「この下女は今日から私の宮で働いてもらうことになった」
「は、何ですって⁉︎」
「問題ないだろう。何せ妃も存じていなかった下女なのだから」
「っ……!」
何も言い返すことができない尚華は、先ほど投げ損ねた扇子を今にも折りそうなくらいに握る。
険悪な雰囲気は部屋の外で待機する宦官らも感じていて、これはもう初夜どころではなくなった。
しかし伯蓮だけがそれを良しと考えていて、抱っこしていた貂々を肩に乗せると、
自由になった両手で今度は、朱璃の肩を支えて立ち上がらせた。
「今から私の宮にきてもらうぞ」
「い、今からですか⁉︎」
「できるな?」
「は、はい……!」
皇太子の無茶振りを、従わないわけにはいかない朱璃が元気よく返事をする。
その様子に、自然と微笑みで応えてくれた伯蓮は、やはり尊敬に値する次期皇帝だと改めて思った。
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