第一章 あやかし捜索係
第1話 接触
実家の借金返済のため、後宮の下女として働きはじめて早二年。
薄く汚れた木綿の衣を纏った年頃の娘が、長い黒髪を後頭部で一つに束ねる。それが馬の尾のように、風に吹かれてゆらゆら揺れると、枝にしがみついていた枯れ葉が落ちた。
持ち前の明るさで人生を悲観したことはなかったけれど、今は項垂れてため息を漏らす。
「掃いても掃いても、落ち葉が降ってくるわ……」
十七歳の
溜まった落ち葉を集め、捨て場へ運ぶまでを一人でこなさなくてはいけない。
しかし、普段なら午前のうちに終わる作業が、この時期は毎日午後まで時間がかかっていた。
「仕事が遅いと、また
怯えた表情の朱璃は、もう一度気合いを入れ直して箒を握る。
ひっきりなしに降ってくる落ち葉を、諦めずにせっせと寄せ集めた。
*
王都柊安の北側の一画。
そこを政の中心として、政務を行う外廷と、皇帝や皇族の私的空間となる内廷が置かれていた。
外廷は
内廷は
中央に皇帝陛下の宮殿、この国で一番の美しさを誇る“柊安宮”が権力を象徴する。
その東側に、成人した皇子の宮殿がいくつも並ぶ。
西側には皇后や妃嬪、幼い皇族が生活を送る男子禁制の“後宮”。
下女である朱璃の配属先であり、高貴な方々の生活を支えるための宮女や宦官が働いている。
しかし、一年前に皇帝陛下が体調を崩して以降、後宮に足を運ばなくなった。
そのため、后妃や妃嬪は離宮に移り住み、下級妃は里に帰して縮小していった。
すると、妃が不在となった後宮は「皇太子の妃を迎えるために使おう」という案が出され、すぐに実行される。
そうして一月前に入内してきたのが、
先帝と現帝に仕える宰相、
柊安一の美女と謳われる彼女は、皇太子の伯蓮に嫁いできた最初の妃となる。
その住まい、
後宮で働く者は、常に尚華の機嫌を損ねないようにピリピリしていた。朱璃には空気が合わなかった。
「平和が一番。そう思うでしょ?
言いながら、朱璃は近くの大きな木の上に向かって話しかける。
そこには黄色い毛むくじゃらの何かが丸まっていた。
外見は動物の貂のようだが、通常よりもだいぶ太っていて、尾は身長の二倍の長さ。
黄色の毛並みは、太陽に当たると黄金にも見えて非常に美しい。
故に、人間に見つかれば毛皮目的で即捕えられてしまいそう。
しかし、そんな心配は無用と思っている朱璃は、この生き物を“貂々”と愛称で呼んでいた。
「でも、どうして貂々はいつもこの木にいるの?」
「……」
「何か、誰か待ってるの?」
「……」
「あ、ごめんね。貂々は“話さないあやかし”だったね」
会話ができないことを残念に思いながらも、朱璃はそっと手を伸ばす。そっぽ向く貂々の頭を優しく撫でた。
朱璃にはこの毛触りも体温も、しっかり感じることができる。
それは昔からあやかしが視える能力のおかげ。普通の人間には視えず触れられず、理解もされない。
だからあやかしが視えることは、
言ったところで、変な子呼ばわりされるのは目に見えていたから――。
(子供の頃は悲しかったけれど、今は自分とあやかしだけの秘密って感じで楽しいし!)
何より、後宮内にも意外とあやかしは点在しており、種類も豊富。
どれも小動物くらいの大きさや、手のひらに乗るくらいの小さなものまで。凶暴で手に負えないというほどでもなく、仲間意識も強い。
生まれ育った郷では見なかった、希少なあやかしばかり。友人のいない朱璃にとって、ここでのあやかしとの遭遇は嬉しい出来事だった。
「貂々がここに現れたのは、ちょうど尚華妃が入内した一月前だよね?」
「……」
「わかった! 君は尚華妃推しなのね?」
くすくすと笑いながらも自信満々な朱璃に、貂々は微動だにせず目を閉じた。
尚華を推したくなる気持ちもわからなくもないけれど、彼女は皇太子の最初の妃として後宮にやってきた。
しかし、初夜となるはずの当日夜に、皇太子が尚華の宮を尋ねることはなかった。
その理由は、下女の朱璃にわかるはずもない。しかし近々、初夜の仕切り直しがあると噂されている。
「この国の皇太子様はね、私と同い年なんだけどとても聡明な方なんだよ」
後宮で働く宮女や宦官たちは、そのことについての立ち話が多い。聞こうとしていなくても、自然と耳に入ってくる。
朱璃自身は、皇太子を米粒くらいの遠目でしか見たことがなかった。もちろん話したことなんて、あるわけがない。
だけど、知っている情報はどれも人格者で綺麗な方ということばかり。欠点や悪癖は聞いたことがない。
きっと、本当に素晴らしい皇太子なのだろうと、密かに期待が高まる。
すると、なにやら華応宮の囲い塀の外が騒がしくなってきた。朱璃は掃除の手を止めて様子を窺う。
そこへ姿を現したのは、刺繍が施された深緑色の上衣下裳を纏う青年。
噂の皇太子、鄧伯蓮が数名の宦官を引き連れて後宮にやってきたのだ。
(……ここっ、皇太子様⁉︎)
突然の訪問に驚いた朱璃は、箒を塀に立てかけて拱手し、皇太子の伯蓮に向かって頭を下げる。
こんな近距離に伯蓮の姿を見たのは初めてだったが、下女がジロジロと高貴な方を眺めるのは御法度。
通り過ぎるまでは頭を下げる姿勢を崩してはいけないと、緊張が走る。
すると風に乗って良い匂いが鼻をかすめ、朱璃はドキリと心臓を鳴らした。
(はぅ、素敵な蓮の香り……)
さすが高貴な方は香りまでも格別。
後宮にはいつも、甘ったるい香が混ざり合う不快な匂いが漂っていた。
それ以外を久々に感じた朱璃は、地面に顔を向けながらうっとりした表情を浮かべていた。
伯蓮が朱璃の前を通過して、後から宦官らが列を成して通過していく。
何事もなくホッと一安心した朱璃は、貂々の様子を確認しようと顔を上げた。
すると、先ほどまでそこにいたはずの貂々の姿が見当たらない。
あやかしだから、煙のように忽然と姿を消すこともあるのだろうか。
そう考えた朱璃が、伯蓮の向かった先に視線を移すと――。
(うわぁぁぁ! 貂々……⁉︎)
なんと、伯蓮と宦官らの列の最後尾を、貂々が歩いていた。
定位置の木から動いたところを初めて見た朱璃は、感動を覚えつつも冷や汗が溢れてくる。
通常の人には視えないあやかし。
だけど、あやかしに触れられたり噛まれたりしたら、その人間もそれなりに感触は伝わるもの。
視えない力が働くことで、それは怪奇現象と騒ぎとなる。嫌な予感がした朱璃は、気づかれないように貂々の後を追いかけた。
そんな問題が発生しているとも知らず、先を進む皇太子の伯蓮。
その最後尾をついて歩き、何を企んでいるのかわからない貂々。
朱璃は次の門をくぐる前に、貂々を背後から羽交締めにしようと考えていた。
その直前で、不幸にも足を躓かせてしまい、朱璃は盛大に転倒してしまう。
「うわっ!」
大きな声が後ろから聞こえてきて、一斉に振り向いた宦官たち。もちろん、先頭を歩く伯蓮もすぐに事態に気がついた。
そこには、転倒の瞬間になんとか貂々の羽交締めに成功した朱璃が、地面に転がっていた。
しかし、あやかしが視えない人間にとっては、華応宮の下女が一人、何かを抱えるようにして地面に突っ伏している姿しか確認できない。
「無礼者!!」
宦官の一人がそう叫び、同時に他の宦官たちが伯蓮を守るようにして壁を作る。
そんな中、上体だけを起こした朱璃は不意に伯蓮と目が合った。
(や、やってしまった……!)
皇太子の進行を妨げただけでなく、ただの下女が皇太子の目を見てしまった。
腕の中の貂々はジタバタと動いて逃げようとするから、それを必死に止める朱璃。
しかし他の者の鋭い視線は、当然ながら朱璃にだけ向けられた。
あやかしを捕まえた、なんて言い訳はここでは通用しないことを充分理解している。
朱璃は貂々を抱えたまま、地面に額を擦り付けて大きな声で謝罪した。
「も、申し訳ありませんでした!!」
「下女の分際でよくも伯蓮様の進行を止めたな⁉︎」
そのとおり、おそらく華応宮に住む尚華に用があるからこうして足を運んでやってきたのだろう。
それを邪魔する者は、このまま無傷では許されるはずがない。
過酷な労働をさせられるかも、と朱璃が予想した。
すると、先ほどから威勢の良い宦官が、隣にいた部下に指示を出した。
「この下女を鞭打ちに処せ」
「はっ」
(ひぇぇ、鞭打ち――⁉︎)
いくらなんでもそれは重すぎる刑だと反論したかったが、それは更に刑を重くさせる行為。
朱璃は絶望の淵に立たされていて、冷や汗が止まらない。その恐怖心から、貂々を抱える腕に力が入った。
「待て」
落ち着いた声と同時に、宦官らをかき分けてやってきた伯蓮。
怯えた表情の朱璃の目の前に立ち、じっと見下ろしてくる。
「……怪我は、ないか」
「ッ⁉︎」
言いながら屈んだ伯蓮は、朱璃に手を差し伸べてきた。
夢の中でさえ絶対に起こらないような状況に、朱璃の心臓が加速していく。
伯蓮の赤切れ一つない高貴な手に、つい縋りたくなったその時。
宦官が慌てて止めに入り、現実に引き戻されてしまう。
「伯蓮様なりません! 下女にお手を触れさせるなど!」
「転んでいる者がいれば、誰だろうと労る」
「しかし、この者のせいで尚華妃への訪問が遅れます!」
「茶会に招待されただけだ。急ぐ必要はない」
華応宮にやってきた理由。それは尚華とのお茶会のためだとわかった。
そんな中、下女の朱璃を差別する宦官と、それを物ともしない伯蓮の意見が分かれ、不穏な空気が流れる。
朱璃は身をもって皇太子の優しさに触れて、それだけで充分満足できた。
だから、これから待ち受けている鞭打ちの刑にも、きっと耐えられると覚悟を決めた時。
力が緩んだ朱璃の腕から貂々が飛び出した。
「あっ!」
朱璃の後方へと走り去っていく貂々。
あやかしが視える朱璃は、もちろんそれを目で追ったのだが、同じ動きをしたのがもう一人――。
「は、伯蓮様……?」
「あ……いや、なんでもない」
まるで貂々が視えているような彼の視線の動きと反応に、朱璃も戸惑った表情を浮かべた。それを問われるより前に立ち上がった伯蓮は、宦官たちに指示を出す。
「この者の行動は罪に問わないように」
「か、かしこまりました……」
「それと、そう簡単に人を傷つけるような指示を出すのはやめよ」
冷静な口調の伯蓮だが、その目には憤りも滲み出ていた。察した宦官たちが、顔を青白くして恐れ慄いている。
皇太子の有難い判断に救われた朱璃は、しばし呆然としてしまった。
すぐにハッと意識を取り戻して、朱璃は一言お礼を伝えたいと立ち上がる。しかし、声を発するより前に、すでに伯蓮は何事もなかったように門の向こう側に行ってしまった。
後ろに続く宦官たちの背中も、角を曲がったところで見えなくなる。
(……行っちゃった)
こうして尚華との茶会に向かった伯蓮が、一体どんな時間を妃と過ごしたのかはわからない。
ただ、雲の上の存在だった皇太子が心身ともに美しい方で、惚れ惚れしたのを自覚する。
伝え損ねてしまったお礼の言葉は、おそらく今後も伝える機会は訪れないだろう。
朱璃は肩を落として、掃除途中の中庭に戻った。すると騒ぎの発端だった貂々が、元の場所で一休みしていた。
「ちょ、貂々! どうして急に皇太子を追ったのよ」
「……」
「伯蓮様の許しがなかったら、今頃鞭打ちの刑だったんだからねっ」
目を閉じている貂々が“話さないあやかし”とわかっていても、朱璃の気が収まらなくて不満を漏らす。
しかし、何の反応も得られない。
諦めた朱璃は、頬を膨らませたまま箒を手にすると、落ち葉集めを再開した。
結局、貂々が伯蓮の後をついていった理由は不明のまま。
ただ、この国の皇太子はもしかすると、あやかしが視える人かもしれない。
朱璃はなんとなくそう感じてしまい、この日の夜はあまり眠れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます