第一章 あやかし捜索係

第1話 接触



 実家の借金返済のため、後宮の下女として働きはじめ早二年。

 薄く汚れた木綿の衣を纏った年頃の娘は、胸元まで伸びた髪を後頭部で一つに束ね、それが馬の尾のように風に吹かれてゆらゆら揺れると、枝にしがみついていた枯れ葉が落ちた。

 持ち前の明るさで人生を悲観したことはなかったけれど、今日は項垂れてため息を漏らす。


「掃いても掃いても、落ち葉が降ってくるわぁ……」


 十七歳となった朱璃しゅりは、昼下がりの秋空の下で後宮の中庭掃除に励んでいた。

 溜まった落ち葉を集め、捨て場へ運ぶまでを一人でこなさなくてはいけないのだが、普段なら午前のうちに終わる作業なのに、この時期は毎日午後にまで差し掛かっていた。


「仕事が遅いと、尚華しょうか妃に怒られちゃう」


 困った表情を浮かべた朱璃は、もう一度気合いを入れ直して箒を握ると、残りの落ち葉をせっせと寄せ集めはじめた。




 王都柊安の北側の一画を政の中心として、政務を行う外廷と、皇帝や皇族の私的空間となる内廷を置いた。

 外廷は皇城こうじょうと呼ばれ、官庁街が立ち並び官吏たちが政務に勤しむ場所。

 内廷は宮城きゅうじょうと呼ばれ、皇帝陛下や皇族の生活拠点。内部は更に三つに分けられていた。

 中央に皇帝陛下の宮殿、この国で一番の美しさを誇る“柊安宮”が権力を象徴する。

 その東側に、成長した皇子の住まいとなる“東宮とうぐう”。

 西側には皇后や妃嬪、幼い皇族の方が生活を送る男子禁制の“後宮”。

 高貴な方々の生活を支えるために働く宮女や宦官、そして下女の朱璃もまた同じく後宮内に住んでいる。

 しかし最近は、皇帝陛下の体調が優れないため、后妃らは離宮に移り住んだり後宮内での生活範囲を縮小していた。

 すると、妃が不在となった宮は「皇太子の妃を迎えるために分け与えよう」という案が出され、すぐに実行される。

 そうして一月前に入内してきたのが、皇帝陛下に二代に渡って仕える縁の下の力持ち、宰相の娘、胡尚華しょうか

 国一の美女と謳われる彼女は、皇太子の伯蓮に嫁いできた最初の妃だった。

 その妃の住まいとなる華応宮かおうきゅうが、朱璃の新しい職場となったものの、尚華が他の侍女を怒鳴る声や、陶器が割れる音がたびたび聞こえてくる。

 そのため、後宮で働く者は常に尚華の機嫌を損ねないようにピリピリしていて、朱璃には空気が合わなかった。


「平和が一番。そう思うでしょ? 貂々てんてん


 言いながら、朱璃は近くの大きな木の上に向かって話しかける。

 そこには黄色い毛むくじゃらが丸まっていた。

 外見は動物の貂だが、通常よりもだいぶ太っていて、尾は身長の二倍の長さ。

 黄色の毛並みは、太陽に当たると黄金にも見えて非常に美しい。

 故に、人間に見つかれば毛皮目的で即捕えられてしまいそうなのに。

 その心配は、今のところする必要がない朱璃は、この生き物を“貂々”と愛称で呼んでいた。


「でも、どうして貂々はいつもこの木にいるの?」

「……。」

「何か、誰か待ってるの?」

「……。」

「あ、ごめんね。貂々は“話さないあやかし”だったね」


 会話ができないことを残念に思いながらも、朱璃はそっと手を伸ばし、そっぽ向く貂々の頭を撫でた。

 朱璃にはこの毛触りも体温も、しっかり感じることができる。

 しかしそれは、昔からあやかしが視える能力のおかげであって、普通の人間には視えず触れられず、理解もされない。

 だからあやかしが視えることは、後宮ここにきてから他言していなかった。

 言ったところで、変な子呼ばわりされるのは目に見えていたから――。


(子供の頃は悲しかったけれど、今は自分とあやかしだけの秘密って感じで楽しいし!)


 何より、後宮内にも意外とあやかしは点在しており、種類も豊富。

 どれも小動物くらいの大きさやそれ以下で、凶暴で手に負えないというほどでもなく仲間意識も強い。

 生まれ育った郷では見かけないものがほとんどで、友人のいない朱璃にとってあやかしとの遭遇は嬉しい出来事だった。


「貂々がここに現れたのは、ちょうど尚華妃が入内した一月前だよね?」

「……。」

「わかった! 君は尚華妃推しなんでしょー」


 くすくすと笑いながらも自信満々な朱璃に、貂々は微動だにせず目を閉じる。

 尚華を推したくなる気持ちもわからなくもないけれど、彼女は皇太子の最初の妃として後宮にやってきた。

 妃の階級はまだ未定のようだが、近々、皇太子と尚華は初夜を迎えなくてはいけない。

 もしかすると、それが階級に関係してくるのかもしれないとも噂されている。


「この国の皇太子様は、私と同い年なんだけどとても聡明な方なんだって」


 後宮で働く宦官たちが立ち話をしているのを、たまたま聞いたことがあった。

 朱璃自身は、皇太子を米粒くらいの遠目でしか見たことはなく、もちろん話したことなんてあるわけがない。

 だけど、耳に入る話はどれも人格者で綺麗なお方ということばかりで、欠点は聞いたことがなかった。

 それほどに素晴らしい皇太子なのだろうと、密かに期待が高まる。

 その時、華応宮の囲い塀外が何やら騒がしくなってきた。

 朱璃は掃除の手を止めて様子を窺っていると、やがて数名の宦官を引き連れ歩いてやってきたのは、深緑色に刺繍が施された上衣下裳を纏う、噂の皇太子こと鄧伯蓮だった。


(……ここっ、皇太子様⁉︎)


 突然の後宮訪問に驚いた朱璃は、箒を塀に立てかけて拱手し、皇太子の伯蓮に向かって頭を下げる。

 こんな近距離に伯蓮の姿を見たのは初めてだったが、下女がジロジロと高貴な方を眺めるのは御法度。

 通り過ぎるまでは頭を下げる姿勢を崩してはいけないと、緊張が走る。

 すると風に乗って香の良い匂いが鼻をかすめ、朱璃はドキリと心臓を鳴らした。


(はぅ、素敵な蓮の香り……)


 さすが高貴な方は香りまでも格別。

 後宮に漂う、多種類の香が混ざり合った不快な匂い以外を久々に感じる。

 朱璃は地面に顔を向けながらも、うっとりした表情を浮かべていた。

 伯蓮が朱璃の前を通過して、後から宦官らが列を成して通過する。

 何事もなくホッと一安心した朱璃は、貂々の様子を確認しようと顔を上げた。

 すると、先ほどまでそこにいたはずの貂々の姿が見当たらない。

 あやかしだから、煙のように忽然と姿を消すこともあるのだろうか。

 そう考えた朱璃が、最後に一目見ようと伯蓮の向かった先に視線を移すと――。


(うわぁぁぁ! 貂々……⁉︎)


 なんと、伯蓮と宦官らの列の最後尾を、貂々が歩いていくのが見えた。

 定位置の木から動いたところを初めて見た朱璃は、感動を覚えつつも冷や汗が溢れてくる。

 通常の人には視えないあやかし。

 だけど、あやかしに触れられたり噛まれたりしたら、その人間もそれなりに感触は伝わるもの。

 視えない力が働くことで、それは怪奇現象と騒ぎとなる予感がした朱璃は、走って貂々を追いかけた。

 そんな問題が発生しているとも知らず、先を進む皇太子の伯蓮。

 その最後尾をついて歩き、何を企んでいるのかわからない貂々。

 朱璃は次の門をくぐる前に、貂々を背後から羽交締めにしようと考えていた。

 しかし直前で足を躓かせ、盛大に転倒してしまう。


「うわっ!」


 ドターーン!!

 大きな音が後ろから聞こえてきて一斉に振り向いた宦官らはもちろん、先頭を歩く伯蓮もすぐに事態に気がつく。

 そこには、貂々の羽交締めに成功した朱璃が地面に転がっていたのだが、あやかしが視えない人間にとっては、華応宮の下女が一人、何かを抱えるようにして地面に突っ伏している姿しか確認できない。


「無礼者!!」


 宦官の一人がそう叫び、同時に他の宦官が伯蓮を守るようにして壁を作る。

 そんな中で上体だけを起こした朱璃は、不意に伯蓮と目が合った。


(や、やってしまった……!)


 皇太子の進行を妨げただけでなく、ただの下女が皇太子と視線まで合わせてしまった。

 腕の中の貂々はジタバタと動いて逃げようとするから、それを必死に止める朱璃。

 しかし他の者の鋭い視線は、当然ながら朱璃にだけ向けられた。

 あやかしを捕まえた、なんて言い訳はここでは通用しないことを充分理解している。

 朱璃はそのまま地面に額を擦り付けると、大きな声で謝罪した。


「も、申し訳ありませんでした!!」

「下女の分際でよくも伯蓮様の足を止めたな⁉︎」


 そのとおり、おそらく華応宮に住む尚華に用があるからこうして足を運んでやってきた伯蓮。

 それを邪魔する者は、このまま無傷では許されるはずがない。

 過酷な労働をさせられるかも、と朱璃が予想していると、先ほどから威勢の良い宦官が、隣にいた部下に指示を出した。


「この下女を鞭打ちに処せ」

「はっ」

(ひぇぇ、鞭打ち――⁉︎)


 いくらなんでもそれは重すぎる刑だと反論したかったが、それは更に刑を重くさせる行為。

 朱璃は絶望の淵に立たされていて、恐怖心から貂々を強く抱きしめた。

 そこへ宦官らをかき分け朱璃の目の前にやってきた伯蓮が、黙ったままじっと見下ろしてくる。

 優しくも芯のしっかりした、真っ直ぐな瞳が朱璃に注がれた。


「……怪我は、ないか」

「ッ⁉︎」


 言いながら屈んだ伯蓮が、こちらに手を差し伸べてくる。

 まるで時が止まったような瞬間に、朱璃の心臓も思わず加速した。

 目の前の、赤切れ一つない高貴な手に縋りたくなった時、宦官が止めに入って現実に引き戻されてしまう。


「伯蓮様なりません! 下女にお手を触れさせるなど!」

「転んでいる者がいれば、誰だろうと労る」

「しかし、この者のせいで尚華妃への訪問が遅れます!」

「茶会に招待されただけだ。そこまで急ぐ必要はないだろう」


 華応宮にやってきた理由、それは尚華との急遽決まったお茶会のためらしい。

 下女の朱璃を差別する宦官と、それを物ともしない伯蓮の意見がはっきり分かれ、不穏な空気が流れる。

 朱璃は身をもって皇太子の優しさに触れて、それだけで充分満足できた。

 だから、これから受ける鞭打ちの刑にも、きっと耐えられると思った時。

 力が緩んだ朱璃の腕から、貂々が飛び出した。


「あっ!」


 朱璃の後方へと走り去っていく貂々。

 あやかしが視える朱璃は、もちろんそれを目で追ったのだが、同じ動きをしたのがもう一人――。


「え、伯蓮様……?」

「あっ……いや、なんでもない」


 まるで貂々が視えているような彼の視線の動きと反応に、朱璃も戸惑った表情を浮かべていると、それを問われるより前に立ち上がった伯蓮は、宦官たちに指示を出した。


「この者の行動は罪に問わないように」

「か、かしこまりました……」

「それと、そう簡単に人を痛めつけるような指示を出すのはやめよ」


 冷静だけれど、その目には憤りも滲み出ていたようで、宦官たちが恐れ慄いている。

 皇太子の有難い判断に救われた朱璃は、慌てて立ち上がり姿勢を正した。

 そして一言お礼を申したく口を開けた時にはもう、何事もなかったように門をくぐっていった伯蓮。

 宦官たちも続いて歩きはじめ、角を曲がるとその姿は見えなくなる。


(……行っちゃった)


 こうして尚華との茶会に向かった伯蓮が、一体どんな時間を妃と過ごしたのかはわからない。

 ただ、雲の上の存在だった皇太子が心身ともに美しい方で、惚れ惚れするのを自覚した。

 お礼を言い損ねてしまったけれど、おそらく今後も伝える機会は訪れないだろう。

 肩を落としながら踵を返した朱璃は、掃除途中の中庭に戻ると、騒ぎの発端であった貂々が元の場所で一休みしていた。


「ちょ、貂々! どうして急に皇太子を追ったのよ」

「……。」

「伯蓮様の許しがなければ、今頃鞭打ちの刑だったんだからね」


 目を閉じている貂々が、話さないあやかしとわかっていても、朱璃は気が済まなくて不満を漏らす。

 しかし、ずっとそうしているわけにもいかないから、頬を膨らませたまま箒を手にして落ち葉集めを再開した。

 結局、貂々が伯蓮の後をついていった理由は不明のまま。

 ただ、この国の皇太子はもしかすると、あやかしが視える人かもしれない。

 朱璃はなんとなくそう感じてしまい、この日の夜はあまり眠れなかった。




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