第37話 夢と現実とアイドル
うちの部屋に、今までにない空気が漂っていた。
口をもごもごとさせたうちの様子に、内容が言いづらいものだと気づいたのだろう。
きょとんとしていたエリちゃんの顔が徐々に曇っていく。
まるでお月様が雲に隠れていくような顔色の変化に、うちの心拍数が徐々に上がっていく。
「……何?」
「アイドル、辞めようかと思って」
言った。言えた。
うちがずっと考えていたこと。
本来、アイドルの引退――卒業なんてメンバーに相談するものじゃない。
うちだって、エリちゃんと公認カップルになる前は、ほどほどのタイミングで引退しようと考えていた。
グループアイドルは期間限定だ。それは、次の夢を探す期間に似ている気もした。
「わたしのせい?」
エリちゃんの声に、うちはゆっくりと首を横に振る。
絶対言われると思った。
「違うよ」
「違うの?」
間髪入れない返事に、うちは苦笑するしかない。
すっと細められたエリちゃんの瞳から、冷たい何かが流れ込んでくる。
こんな時でも彼女は綺麗。漏れそうになった吐息を胸の中に押しとどめた。
「じゃ、なんでか教えてくれる? レイが辞める理由なんてないよね」
「うちは……」
アイドルが好きだ。
見るのもするのも。そりゃ苦手な部分も多い。ダンスも歌も、得意ですと胸を張って言うことはできない。
だけど、アイドルという存在が好きで。それだけで、アイドルになった。
特に今のうちには、目の前にいる存在(推し)が公私ともに大好きなのだ。
言語化できないアレコレを、口の中に溜め込んでいた。
エリちゃんの瞳がふっと和らぐ。
「レイは、私にアイドルでいて欲しい?」
「そりゃ、そうだよ。エリちゃんがアイドルしてる姿を見れるのが嬉しいんだから」
「星野麻友さんより?」
「エリちゃん」
苦いものを飲んだように、うち唇を歪める。
どうやら今日のエリちゃんは容赦がないらしい。
言いにくいこと、答えにくいことに踏み込んでくる。
「ごめん、変なこと聞いた」
ついと逸らされた視線。その横顔は、言った本人の方が傷ついているようにも見えた。
エリちゃんも混乱している。うちのことで。
部屋に時計の音が響く。お互いの息遣いさえ聞こえそうな、静かさだった。
「エリちゃんは、どんなアイドルになりたいの?」
「わたしは、自分のことは自分で決められるアイドルになりたい」
沈黙を針でつつくように、話題を選ぶ。
エリちゃんの答えは明確で、だけど、今まで聞かなかった本音がそこには隠されいる気がした。
「歌うのも、踊るのも好き。演技のお仕事も好き。誰かが私なんかで喜んでくれるのが、すごく嬉しい」
すらすらと流れて来る好き。それはアイドルとして、理想的な言葉ばかり。
美緒ちゃんの言う通り、エリちゃんは本当に理想的なアイドルだった。
それが作られたものなのか、生来のものなのかは分からない。
ただ、小田切エリという存在に魅了される。
「だけどね、私は、まだ自分が好きになれないの」
「エリちゃんは、凄いアイドルだよ」
「まだまだ……遠い」
エリちゃんの横顔を見つめる。
綺麗な顔。まっすぐ前を向く瞳は、遠くを見ていた。
やっぱり、うちのことで足を止めさせて良い人ではない。
うちはわずかに顔を俯かせる。
と、並んだ太ももの上に、エリちゃんがそっと手を伸ばしてくる。うちの手にゆっくりエリちゃんの手が重なった。
「今、ここでレイが辞めたら、私はずっと自分を好きになれない、と思う」
うちは思わずエリちゃんの顔を見た。
眉間に皴を寄せて険しい顔。だけど、エリちゃんは笑っていた。
「わがままで、ごめんね」
静かな謝罪は、ひそかにうちに引退禁止を強いて来る。
「わたしは、アイドルもレイもどっちも諦められない。だから、絶対優勝する。してみせる」
エリちゃんは、どちらかというと控えめな言動が多い。前に出しゃばらない姿勢は、一部からは謙虚と、一部からはやる気がないと言われていた。
今うちの前にいるエリちゃんの瞳はまるで燃え上がっているようで――引退さえ、他人に影響されて決めようとしているうちに、いったい何が言えるというのだ。
「だから、辞めないで」
「エリちゃん」
ぽろっと一つだけ、エリちゃんの瞳から涙がこぼれた。
うちはその美しすぎる雫を指ですくって、それからそっと抱きしめる。
これが今のうちにできる精いっぱいだった。
*
さて、エリちゃんの思いも寄らない告白と、どんどん邪魔にしかなっていないような自分の存在に、うちは、どうすることもできず電話をかけた。
「どーすればいいと思う、ゆーなぁああ!」
開口一番、そう叫んだうちは、ゆうなに事情を説明する。
どんな時でも話を聞いてくれる暇な同期は持つべきだ。
端組の絆、万歳。
『そんな話を聞かされて、ただの同期にどうしろと』
漏れてきた声は、呆れと疲れを同居させていた。
そうだよね、その気持ちはよくわかる。
うちだって、ゆうなから恋人とのことを相談されたら、そんな反応になるだろう。
ありがたいことに、今のところ恋愛相談は受けていないのだけれど。
「だってさぁ、これはさぁ、一人で抱えられないでしょっ」
『小田っちも、瀬名っちくらい軽い人間だったら良かったのにね』
「確かに……エリちゃん、真面目だから」
ゆうなの言葉に頷く。
エリちゃんは根本が真面目なのだ。
だから、アイドルとしてちゃんとしたい。そして、恋人としてもちゃんとしたい。
その両立が難しいことなんて、小学生でもわかる。
多くのアイドルがそうしてるように、こっそりやっちゃえばいいじゃん!とならないのが、エリちゃんがエリちゃんらしい理由なんだけど。
『瀬名っちはどうしたいの?』
「うちは、エリちゃんを支えたい。自分がアイドルでいるより、エリちゃんが完璧なアイドルになる方が嬉しい」
『でも、小田っちはそれを望んでないんでしょ』
「そーなんだよねぇ……」
ゆうなの冷静な指摘に、うちは頭を抱える。
ぶっちゃけ、本当に、辞めても構わないのだ。
公認カップルの話の時から、美緒ちゃんには度々プロデュースの方に回らないかという話を貰っている。
うちとしても、サポートが好きというか、アイドルを作れることに憧れはある。
グダグダと愚痴るうちの耳に優菜の声が響いた。
『勝つしかないでしょ』
「え?」
『小田っちが嫌って言ってるのに、引退できんの?』
「……無理ですぅ」
そうなのだ。エリちゃんが言っている時点で、うちは勝手に引退できない。
一応、アイドルなので、穏便に卒業したいなぁと思っているのだ。
こんなうちでも応援してくれているファンの人はいるし。
オタク仲間か、エリちゃんファンがエリちゃんの情報を求めて来る割合がほとんどだけど。
『なら、小田っちが、小田っちの望みのまま勝てるように、アイドルバトルを勝つしかない』
結局そうなるのか。
一番難しくて、一番正当な方法。
だけど、うちは首を傾げる。
「それ、うち、関係なくない?」
『ぶっちゃけ、小田っちが普通にしてれば問題ないと思う』
「なんという」
うちは天井を仰いだ。
やっぱり、そうだよね。
他のメンバーから見ても、エリちゃんは普通にしていれば優勝するのだ。
『信じて待つって、ある意味何より辛いけどね』
「痛いことを言いますねぇ」
『夢と現実の狭間にいるのが、アイドルですよ』
「その通り……」
ゆうなの端組らしいアイドル感にうちは深く頷かないわけにはいかなかった。
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