第32話 幽霊の苦手なもの
自宅で最愛の人に首を絞められるというのは、思ったよりロマンティックなシチュエーションなのではないだろうか。
なんて、素頓狂なことを考えるほど、うちはパニックに陥っていた。
「くっ」
エリちゃんは目の前に立っている。うちはソファに座ったままだったから、もはやその時点で抵抗が難しかった。
その上、エリちゃんは、というか、エリちゃんの姿をした〝何か〟は、力なんて入れてない様子なのに、万力のようにうちの首を絞めてくる。
下から仰ぎ見たエリちゃんの瞳は、ただひたすら真っ黒だった。その昏さが嫌で、うちはじたばたと体を動かした。
「エ……リ、ちゃんっ」
エリちゃんの腕を叩く。痣になったらごめん!と思いつつ、遠慮するわけにもいかない。
絞り出した声は掠れていた。名前を呼んだことで、少しだけ手の力が緩む。
「レ、イ……?」
空気が少しだけ喉を通っていく。その瞬間に、エリちゃんを引っ張った。
降ってきた身体を抱き留め、衝突事故のようなキスをした。血の味がした。生理的な涙のしずくが頬を伝っていく。
いつも通りの柔らかい感触に、唇がピリピリする。その瞬間に黒い何かが跳ね飛ばされる。エリちゃんの体が大きく跳ねたけど、うちはぎゅっと抱き留める。
「こっほっ……はぁ、エリちゃんになら、何されてもいいけど」
エリちゃんの力が抜けた。慌てて立ち上がり、立てるのを確認してから、距離を取る。
空気が美味しい。
うちはエリちゃんから弾き出された何かの方へ顔を向けた。
「これは、きっとエリちゃんが悲しむ奴だから」
『なんなんだよ、おまえぇえ!』
空間を揺らすような声は、ひび割れていた。
焦点の合わない瞳のエリちゃんはぼんやりと立っているだけ。
再び、近づいてこようとする何かとの間に体を挟み、エリちゃんの体を抱きしめる。柔らかい感触。未だに、ドキドキする甘くて優しい香り。
『幽霊は恋だの愛だのの、生きている人間らしいパワーに弱いんだと』
美緒ちゃんが言っていたことが頭の中でリフレインする。
まさか、本当だったとは。
苦笑するしかない。
どうせ死ぬなら、幽霊に殺されるより、エリちゃんと恥ずかしいことして出血多量で死ぬ方がいい。
「エリちゃん」
呼びかける。焦点を結び始めた瞳が、うちを捉える。
「レイ……? わたし、どうして」
「本当に好きだよ。だから、うちと恋人になって」
もう一回キスするために、そっと顔を近づける。
相変わらず、美しいをそのまま形にしたような顔。
覚悟を決めて瞳を閉じる寸前に、うちの視界に黒い靄のようなものが見えた。
『やぁめぇろぉっ!』
「え……?」
響いた声に体を離そうとしたエリちゃんの首元に手を回す。後ろは見させない。
エリちゃんが見る必要はない。
うちとエリちゃんは鼻先が当たるような距離のまま会話を続けた。
この距離だと、もう幽霊の声も聞こえない。
「エリちゃん、答えは?」
「……えっと、わたしも、レイが好きです」
そっと触れた最後のキスは、エリちゃんからしてくれたキスだった。
真っ赤な顔。甘い唇。蕩けるような笑顔は、エッチだった。
視界の端で黒い何かが消えるのを確認してから、うちの意識はブラックアウトした。
※
どこか遠くで、人の声のざわめきが波のように大きくなったり小さくなったりしていた。
うちは事の顛末をゆうなに説明する。
着ているのは、以前作った土下座Tシャツ。
今回はエリちゃんというより、迷惑をかけた人たち向けのものだ。
デフォルメされたイラストと同じように背中を丸め椅子に座るゆうなに頭を下げた。
「で? その結果、首にあざは残るわ、鼻血が出て倒れるわ……誰が呪われてたんだか分からないね」
ゆうなの指が首を指し、鼻を指し、最終的には大きく肩をすくめた。
口ではこう言っているが、うちが目を覚ました時、ゆうなはとても心配そうな顔で部屋にいた。
かけた心配が分かるので、うちは体を小さくするしかない。
「面目ない」
「小田っち、すっっっごく慌てた様子で、電話してきたんだからね」
結局、キスであの悪霊は消えたらしい。
うちはそれだけ見て、鼻血を出して、意識をなくした。エリちゃんは、幽霊がいなくなり意識がハッキリしたようで。
倒れたうちの惨状にエリちゃんは美緒ちゃんと、なぜかゆうなに電話をかけた。
エリちゃん自体はあれから魘されることもなく、だけれどもほぼ毎日うちの家に泊まっている。
おかしい。これでは、半同棲状態になってしまう。
「ほんっとーに、面目ない」
うちは床に額を擦り付けるように頭を低くする。
ゆうなは呆れた声のまま話し続けた。
「行ったら、美緒ちゃんはいるし、血で床濡れてるし……ほんっとに、心配したんだけど?」
同僚からの電話で同期の部屋に行ったら、床が血塗れで倒れている。
想像しただけで、恐ろしい絵面だ。
ゆうなの顔は、ニコニコとしているけれど、その内側には怒気が込められている。
「……鼻血ですみません」
いや、言い訳させて貰えるなら、うちは意識がある間は鼻血を出してない。
だけど、意識を失う直前のエリちゃんとのやり取りが本当に刺激的だったのも間違いなく。
いや、あんなん、鼻血出すなって方が無理だと思うのだ。
と、いくら内心で言い募っても、ゆうなの追及は止まない。
「いくら、ヘタレで言っててもさ、本当にキスで鼻血出すってどうよ」
「もう、許して」
うちが一番そう思ってるから!
別の意味で魂が抜けそうになっているうちに、天の助けが舞い降りた。
「ゆうな、レイは悪くないから」
「小田っちは、どうなのさ。キスするたびに鼻血出す恋人って」
ゆうなの肩に手を置くエリちゃん。
うちにとっては後光が差しているように見えた。
エリちゃんの頬が赤くなる。
ああ、もう、うりうりしたくなる頬だ……触れないけど。
「えっと」
「ヘタレ過ぎじゃない?」
「レイは、わたしにとって、ヘタレじゃないよ」
そんな可愛らしさもゆうなには通じない。
まったく怯むことなく、エリちゃんを追い立てる。
丸いエリちゃんの瞳が右に左に泳ぐ。
「レイは好きって言ってくれるし、すごく気遣ってくれるし……キスだってしてくれる」
「エリちゃーん」
嬉しいけど、買い被り過ぎも困る。
嬉しさと苦笑を半々でエリちゃんを見つめたら、思いがけない爆弾が落ちてきた。
「これから一緒に住めば、慣れるよね?」
するりと流し目。美麗な顔から出るそれは、うちを縫い止めるビームみたいなものだ。
エリちゃんが堂々と口にした一緒に住むという言葉と、慣れるという単語の意味を考えずにはいられない。
「ふぁっ?!」
変な音が口から漏れた。
かぁーっと一気に顔が熱くなる。
「あら、瀬名っち、頑張らないと」
一人だけ満足そうに笑っているゆうなの肩に、うちはパンチを一つ入れた。
この同棲話が次の問題を運んでくるなんて、うちはまだ気づいてなかったのだ。
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