第112話

 ──僕はユーリになりたかったのに。


 そう言いかけてイーズはぐっと言葉を飲み込んだ。ナノの前では言えるはずもなかった。


 あのタトゥーを入れた後、イーズはケルベロスについて書かれた本をいくつか読んだ。ユーリとレオが言っていたとおり、地獄の番犬だとか冥界を守るだとか、といった話が書かれていた。


 だけど、いっぽうでとても臆病な生き物だとも書かれていた。英雄ヘラクレスに地獄から明るい世界へ引き出されて、怯えるあまりにパニックを起こしたという話もある。


 それをユーリやレオが知っていたのかどうかは、イーズの知るところではなかった。それでも、自分を見透かされたような気がして、イーズは困惑した。

 イーズがお茶を飲んでいるそばで、ナノはかちゃかちゃと食器を洗っていた。小さな背中はほんの少し丸まっていた。


「ナノ、ひとりで泣いてない?」


 その背中に向かって問うた。ナノはすうっと深呼吸をした。


「……もう泣かない」

「泣かない?」

「うん。だから心配しないで」

「心配するのもだめなの」

「だめ、とかじゃないけど……わたしは大丈夫」


 こんなとき、ユーリのようにナノの心に寄り添えたら。ナノが安心して泣ける場所になれたら。どうして自分はユーリではなかったのだろう。

 ナノはイーズを一度も見ることはなく、洗い物の手が止まり、左腕に目を落としていた。


 こんなときにでもイーズの指先はわずかに震えている。そんな自分が情けなくて仕方がなかった。

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