HA-ビューティフル•バースデイ


 玄関を開くと、途端に甘い匂いが立ち込めた。

 とろける生クリーム。爽やかなレモン。かと思えば、覆い被さるようにチョコレート。ストロベリーに……抹茶?

 嗅覚には自信がないけれど、匂いからは挙げれば切りがないほどにたくさんの種類が嗅ぎ取れて、だのにひとつも雑然としていなかった。きっと、一際大きくスポンジ生地の匂いが包み込んでいるからだ。その中にシナモンの気配を感じ取ったことには、我ながら笑ってしまう。

 けれども実際は笑わなかった。笑うよりも前に、3つのことに気を取られた。1つは立ち込めている甘い匂い。2つは、お兄さんが廊下に立って出迎えに来ていたこと。それから3つ目、廊下の奥──リビングに続く入口にレースカーテンがかかっていること。

 

「おかえり」

 

 呆けている私に構わず、お兄さんが言った。聞きたいことが諸々あったが、それを言われては仕方がない。私はこう返した。

 

「……ただいま、戻りました」




 


 お兄さんは、大通りから少し離れた住宅街の中の、マンションの角部屋に居を構えている。

 お兄さんこと乃森鴬さんは、私の父ではない。兄でもなければ、無論かわいい弟でもない。血の繋がらない赤の他人だ。では何なのだと問われれば、今は『兄みたいな人』と答えよう。一年前に出会ったばかりのそんなお兄さんの部屋が、今の私の家である。

 マンション2階、角部屋。玄関を開けば廊下が伸び、右手には私の部屋が。左手にはトイレとお風呂場が。そして廊下の奥にはリビングがある。私の部屋•トイレ•お風呂場にはドアが付いているけれど、リビングにはドアがない。だから玄関から見ると、リビングの様子が少し見える。リビングはソファとテレビ、キッチンとテーブル。それからベランダを繋ぐ掃き出し窓と、お兄さんの部屋へのドアがひとつずつある。

 お兄さんはちょっぴり特殊な仕事に従事していて、帰る時間がけっこうまちまち。だから大概私の方が先に帰っていて、お兄さんをお出迎えすることの方が多い。そういう毎日を、ありがたくも送らせてもらっている。

 そういう毎日。だからつまり、普段であれば廊下は無臭だし、お兄さんの方が帰りが遅いし、そしてリビングの入口にレースカーテンなんてかかっていない。なんて容易い間違い探し。否、お兄さんの帰宅についてはこの際どうだっていいのだ。今日は金曜日で、昨夜の時点で今日仕事を休むことは言われていた。だからそこまで驚いていない。こんな整理をするくらいには動揺しているけれども。

 ──さて。ただいま、と言った。お兄さんは無表情で、心なしか緊張しているようにも見えた。気のせいだろうか。

 何から訊くべきか迷ったが、とりあえず靴を脱いでみた。よく分からないがお兄さんがその動作をつぶさに観察してくるので、いたたまれない気持ちになってくる。やめてほしい。

 

「……えっと、訊いてもいいですか」

「何を?」

「とりあえず、じゃあ……すごく美味しそうな匂いがしてるんですけど、なんですか?」


 迷った挙げ句に尋ねれば、お兄さんは間を置いて答えた。「お菓子」と。

 実に端的。憎らしいほどに簡潔。彼の悪い癖が出た。恐らくは勿体つけなくていいことを勿体つけている。

 もう少しだけ間違い探しをしてみよう。普段のお兄さんはニヤニヤ笑いがとっても素敵な御仁だ。もちろんこれは皮肉である。それはそれは三日月のようの目も口も釣り上げて、とにかく私を困らせるのが好きなのだという。これは彼からの自己申告だったので、嘘ではない。どうか安心してほしい。いや安心できるか。嘘であってほしかった。

 そんなお兄さんが無表情。堅い顔で私を見ている。極めつけに勿体つけた会話をしてくるものだから、埒が明かない。

 さてはてどうしたものかと玄関先で意味のない思案をしていると、彼が手を差し出してきた。

 

「お手をどうぞ」

 

 いや、本当になんなのだ。

 しかし悲しいかな、お兄さんの所作はとっても自然で、慣れたものだった。気づけばその手をとっていたし、エスコートされながら廊下を歩かされた。悔しさと困惑が綯い交ぜになってしまう。

 リビング前で一度立ち止まったお兄さんは、レースカーテンをさっと引き開いた。甘い匂いが、より一層強くなる。

 ──風が吹いたのかと思った。

 リビングはまるで様変わりしていた。テレビには布がかけられ、キッチン入り口にもレースカーテンがかかり、テーブルにはクロスが張られている。よく見れば壁紙まで変わっているではないか。100円均一で見る簡易シートだろうか。朝出かける前は少なくとも、いつも通りのリビングだったはずだ。冷静に分析をしてみるが、それ以上に私の理性を陥落させる光景がそこにはあった。──お菓子だ。お兄さんは何も、誤魔化すことは多いけれど嘘だけは吐かないのだ。

 カップケーキがそこにはあった。ひとつやふたつではない。3段ケーキスタンドに、ミニサイズのカップケーキが並んでいる。しかも2つだ。ケーキスタンドが2つもある。さらにもうひとつお皿がスタンドのそばに控え、まるで自分は脇役ですという顔をしながらしっかりクッキーたちを乗せている。

 そしてテーブルの真ん中。艶のある編み掛けのパイ生地。その隙間から見える丁寧に煮て作られたであろう、形の良いコンポート。ほのかに香るシナモン。どこからどう見ても百点満点のアップルパイ!

 カップケーキもクッキーもアップルパイも、これは全て手作りだ。私は知っている。何せついさっき私をリビングにエスコートしてくれた紳士さんは、とってもお菓子作りが得意なのだ。誰であろう、彼が用意したものに決まっている。私はアップルパイがお菓子で一番好きだ。お兄さんの作るアップルパイはもっと大好きだ。

 あとひとつだけ、間違い探しを続けよう。普段のお兄さんはお菓子を作ってくれるけれど、頻度はそこまで高くないし、一度に作る量は、精々1種類だけだ。こんなに夢かわスイーツな空間を形成するほど作ったりなんて、しない。

 じゃあ、どうして──廊下に甘い匂いが立ち込めていて、お兄さんがお出迎えしてくれて、リビングの入り口にレースカーテンがあって、お兄さんの様子がちょっぴりおかしくて、リビングが飾り付けられていて、カップケーキがあってクッキーがあってアップルパイまであるのか。

 実は私には、心当たりがちょっぴりあったりする。

 

「誕生日おめでとう」

 

 振り向けば、口の片端をあげて困ったように笑う鴬さんがいた。困ってるの、私の方ですよ。

 ──6月14日。今日は私、滝山つつじの18歳の誕生日だ。


 



 今日は金曜日で、夏休み前の期末試験が近づく初夏。担任を筆頭に先生方から受験に向けてのお小言を授業ごとに頂戴するものだから、せっかくのお誕生日さまの気分に随分水を差された。あとは親友と後輩が放課後にプレゼントをくれて、羽飾りを模したイヤリングと、ハンドクリームがそれぞれ入っていた。

 だからもうそれだけで、ほとんど私の誕生日は終わったつもりでいた。明日は土曜日で、今日も明日もお兄さんがお休みだと聞いていたから、ちょっとは遊んでもらおうかとも考えていた。お兄さんからは今朝「誕生日おめでと」とだけ言われていたから、尚更なにも期待していなかった。

 帰ってきて早々呆ける私に、鴬さんは白いワンピースと新品のローファーをさしだして「これに着換えといで」と宣った。上品なフリルと小花の飾りが散ってたいへんに可愛らしいワンピースだった。軽い上着を羽織れば余所行きくらいには出来そうだ。

 混乱したまま一生懸命にワンピースに着替えてリビングに戻ると、フローリングに硬い足音が二つ響く。何故かお兄さんも着替えていた。花柄のベストにシャツとスラックスと、革靴。ハンカチを噛んでしまいそうなほどにはよくお似合いだ。これは皮肉ではない。

 それから「触るよ」と一言断ってから彼が私の髪に手をやった。ものの3分くらいで私の髪がみつあみにされ、小さな花飾りをそこに挿し込まれた。都合よく近くにあった姿見で己の全身を確認すると、とても学校帰りの一学生には見えない。恐らくは姿見も持ってきたのだろう。用意周到。

 リビングだけ切り取られたみたいに別世界。あれよあれよと魔法をかけられ、気分はすっかり高揚していた。理性はとっくに焼ききれて、『鴬さん大好き』くらいは言えそうだった。言わないけれど。

 手を引かれ椅子を引かれ座ると、「召し上がれ」と言われた。もう少し何か言い返したかったのに、お兄さんお手製のお菓子には抗えない。しかもご丁寧にアップルパイを切り分けられ目の前に差し出されてしまっては手も足も出ない。パイ生地の小気味よい音が耳に心地良い。

 

「……い、いただきます」

 

 つむじから爪先まで着飾って、日本式の祈りを捧げるのは妙にも思えたけれど訂正する余裕は微塵もなかった。私は今、確実に鴬さんの手のひらの上にいる。

 

「あの、鴬さん」

「なぁに、美人さん」

「これはあの……」

「食べないの?」

「た、食べます。そうじゃなくて……」

「冷めるよ」

 

 アップルパイはあったかくても常温でも冷たくても美味しい素晴らしい食べものだけれど、出来立てのアツアツは今しか楽しめない。一理あったのでいただく。艶々と燦めくアップルパイは、いつもよりカスタードが多めに入って贅沢だ。なんて優雅なティータイム。

 

「おいしい……」

「それは良かった」

「鴬さん」

「カップケーキも自信作だよ」

「露骨に話を逸らさないでください」

 

 苦笑を称えたお兄さんに、やっと自制が効いてきた。アップルパイをつついていたフォークの動きを一旦止めると、彼がクッキーをつまむ。

 

「嬉しい?こういうの」

 

 こういうのと言われても、内装のことかお菓子のことかはたまた衣装のことか。演出全体のことを指しているのか分からない。しかしどれを聞かれても返す答えは同じだろうと思い直して、「嬉しいですよ」と言った。

 

「……お兄さんてば、そんなに私に喜んでほしいんですか?」

 

 いたずら心を大さじ三杯の気持ちで尋ねたが、彼は特段気にも留めずおざなりに頷いた。生返事だ。ボケが滑ったようで、とてもいただけない。

 

「弁明するんだけどさ」

「斬新な切り口ですね。続けてください」

「ここまでするつもりじゃなかったんだよ」

 

 どうやら本当に、言い訳らしい言い訳だ。ここまで、というのは内装のこととかお菓子のこととかはたまた衣装のこととか。演出全体のことを指しているのだろう。ようやっと、妙に堅い表情のお兄さんに合点がいった。多分ここから長々と話すつもりらしいことを察して、アップルパイに舌鼓を打ちながら聞くことに決めた。


 


   ***


 


 かの高名な小説家はとある詩集の作中にて、別れる男には花の名前を教えておくように記した。花は毎年咲くから、見るたびにそのことを思い出す、と。

 

「……君くらいの年頃に何を贈るのが適切か分からなくてね」

 

 全くもって俺は5月と6月が苦手でたまらない。──街路樹のそばの低木が毎年律儀に大量の花を付けて、見るたび封じたはずの子供じみた羨望が疼くから。

 

「とりあえず、普段の仕事を参考のすることにしたんだ……嗚呼、身構えないで。俺が言ってるのは戦闘面の方じゃなくて、依頼人のもてなしの方だから。……そうそう、俺の仕事、要人警護ね。よく覚えてるじゃない」

 

 俺は故あって、滝山つつじという存在を──あえて過去形にしておくが──嫌っていた。8歳から24歳。約16年に及び捻くれきった8つ年下の彼女への大人気ない執着に、一旦の折り合いを付けたのが去年の話だ。そんな訳で、俺は憎き少女の誕生日を、生涯かけてそれはそれはよく憶えている。忘れたくとも忘れられないように出来ている。

 

「要人警護のついでに、たまに思春期の子供が不安がらないよう工夫したりするんだよ。ほら、知らない人間がぞろぞろ周りにいたら嫌でしょ。だから軽いプレゼントを贈ったり、手品とかサプライズとか……とにかく、俺たちは愉快な人間ですよってアピールをしておくんだ」

 

 今年も彼女の誕生日は近づいてきた。6月に入った瞬間に意識した己が今だ忌々しい。……というのは置いておく。すぐに俺は『祝わねば』と思った。

 去年の時点でも俺は変わらず彼女の誕生日を知っていたが、アクションは特に起こさなかった。しかし今年の4月、俺の誕生日を律儀にも覚えていた彼女に祝われてしまった。ご丁寧に『生まれてきてくれてありがとうございます』なんて言われてしまった。故に、祝い返さねばならない。

 

「というわけで、君が依頼人だったらどうもてなすか考えた。何せ俺、君とひとつ屋根の下であるアドバンテージがあるからね。……そんな顔しないで、怒ってる顔も素敵だよ。とにかく、多少は君の好みを把握してるつもりな訳だ。幸先いいだろ」

 

 ──お誕生日って言うのはさぁ、祝いたい人が祝いたいから祝うんだよぉ?そんな義務感のお返し、ホワイトデーくらいじゃないと許されないよぉ。

 というのは、仕事を共にする相棒の言である。耳が痛くて仕方ない。一理も二理もある、非の打ち所の無い正論だ。しかし俺にも言い分がある。

 

「手始めにお菓子を作るのだけ決めてね。俺もお菓子くらいなら作れるし、君だって好きでしょ。……これを相棒に言ったら『鴬ってばつまんなぁい、もっと凝ったプレゼントにしなよぉ』って一刀両断されたんだけどね……。それで普段の仕事をするつもりで、お菓子とは別にサプライズを用意することにしたんだよ。どうかな、美人さん。そろそろ嫌な予感がしてきたかい?」

 

 何もこれは『彼女のために祝いたい』などという恩着せがましいものではない。れっきとした、祝いたがっている俺自身が、俺のために彼女を祝うのだ。それはそれでどうなの、とやはり相棒に言われたが、無視した。

 

「こないだ仕事帰りに美人さんの好きそうなワンピースを見かけてね。お菓子と可愛いワンピース。メルヘンな誕生日になりそうじゃない?うん、そのワンピース、凄くよく似合ってるよ。……で、家に帰って気付いた。味気ないいつものリビングで俺はお菓子を振る舞おうとしてるのかと感じてね。そう、空間演出が足りないんだよ。俺はこれでも仕事で手は抜かない性質なんだ。凝れるとこは凝っておきたい」

 

 16年の歳月、俺は捨てられない羨望に縋っていた。去年に一旦の折り合いを付けたとはいえ、何らかの示しを自分に付けたいとは前々から思ってはいたのだ。俺の今の立場は彼女の保護者なのだから、いつまでも子供でいて良い道理は無い。

 

「今朝君が家を出てから張り切ってとりかかったよ。諸々準備を終えるとあら不思議。そこにはお菓子とかわいい部屋の出来上がり。……で」

 

 つまるところ、彼女の誕生日を祝うことによって、過去との決別を図りたい、もとい謀りたいのだ。

 

「……我に返ったのがついさっきだよ」

 

 スタートダッシュで転んでいるわけだが。





 

「まだ私の預かり知らぬ事情がありそうなのは気の所為でしょうか」

「気の所為かもね」

「気の所為じゃないんですね……まぁ良いですけど」

 

 アップルパイを幸せそうに頬張り、合間に紅茶を挟み、カップケーキにフォークを入れながらも、美人さんはどうやらきちんと聞いていたらしい。嗚呼、その抹茶カップケーキ、渋めに作っておいたから甘いのと交互に食べられるよ。

 組んでいた脚を下ろした。革靴の音がフローリングに響く。

「美味しい?」と聞けば「おいしいです」とオウム返し。俺もカップケーキに手を伸ばしてかぶりついた。オレンジピールの程よい酸味が広がる。

 美人さんの大好きなアップルパイは、既に半月状態だ。おおよそ満足したのか、今は話の継ぎ目に市松模様のクッキーを順調に消費している。

 美人さんは美人だ。こう清楚に着飾っていると、深窓令嬢の雰囲気を纏っている。彼女がいっそ出会うことも無い天上人だったなら良かったのに、という考えが過ぎっている時点で、決別もへったくれも無いのだろうか。

 そもそも仕事ベースで誕生日祝いを計画したのだって、『あれなら喜ぶかな』『これは嬉しがるかな』などと彼女の笑顔を浮かべながらプレゼントを選ぶことが素直に出来なかったツケなのだ。やはりスタートダッシュ前で詰んでいた。

 他愛もない会話をしながらすっかり紅茶が底を付き、皿の中身たちも随分減った。美人さんの細い体躯のどこに仕舞われたのか定かでないが。

 

「とりあえず、大変満足いたしました。お腹がいっぱいです。ごちそうさまでした」

 

 いただきますの時より冷静に手を合わせる美人さんに「お粗末さまでした」と返す。クッキーの皿は空だ。残ったカップケーキとアップルパイは冷やしておけば明日も美味しいだろう。

 つつじは紅茶を飲みきって一息つくと、ぼんやり虚空を見つめた。大きな丸い瞳に、俺が映っているような映っていないような。

 

「……鴬、さん」

「うん?」

「あの、嬉しいです」

「……」

「かわいいワンピースも、いっぱいのお菓子も、大好きなアップルパイも……お部屋も飾り付けてくれて」

「……」

「魔法使いみたいだなって……あの、嬉しいの、伝わってますか?」

「……うん」

「言っておきますけど、私、誰にでもこういうことされたら嬉しいわけじゃないですよ」

「うん」

 

 知ってるよ。

 

「鴬さんがしてくれたから、嬉しいんですよ」

「……うん」

「ホントにちゃんと、伝わってますか」

 

 伝わっているとも。

 帰ってきてからずっと、つつじがずっと、嫌な顔ひとつせずに俺のサプライズを受け続けてるのは。こんなこと言ってくるのは。彼女が優しくて慎ましくて、真面目で、人の厚意を無碍に出来ない性格だからとか、そんなんじゃないって。ちゃんと分かってる。

 勝手に劣等感に苛まれて、すっかり自己評価を落とした俺でも。もう、それくらいは。

 

「……大丈夫、分かってるよ」

 

 言えば、彼女はふっと肩の力を抜いた。俺もいつの間にか、握り拳に随分力を込めていた。開いて閉じて、また開く。懲りずにいつもの減らず口が顔を出した。「美人さんはお兄さんが大好きだねぇ」などと宣った。

 きっと『そんなわけないでしょう』くらい飛んでくると予測していたのに、彼女は何も発さない。怪訝になってよく見れば、つつじはバツが悪そうに眉根を寄せている。彼女がどういうときそういう表情を浮かべるのか、知っていたからつい目を見開いた。

 

「え、図星?」

「……」

「ねぇ、ちょっと。美人さん」

「もう、台無し!」

 

 つつじが勢い任せに席を立った。そのままキッチンへと行ってしまう。その背に「当たってた?」と尋ねたが、今度こそ「そんなわけ!ないでしょ!」と強く跳ね除けられた。今日は元気な拒絶だ。

 キッチンから戻ってきた彼女の手にはラップが握られていた。そのままアップルパイとカップケーキにかけていく。ごちそうさまをしたから、あとは片付けの時間だ。俺も手伝おう。

 

「……これ、解いて」

 

 レースカーテンを片していると、ラップをかけ終えた彼女が、俺の編んだみつあみを指で揺らす。仰せのままに解く間、彼女はテーブルクロスを畳む。

 お菓子は消えて、いつもの部屋へ戻っていく。あとは着替えて、きっと12時の鐘が鳴る。

 

「来年はここまでしないでくださいね」

「反省してるよ」

「お兄さんも仕事で忙しいと思いますし、本当に……せめてお菓子作るくらいで止めてください」

「善処するよ」

「……」

 

 みつあみの片方を解いて手で軽く梳く。引っ掛かりのない髪は少しだけうねっていた。

 もう片方に指をかけると、美人さんは続けた。

 

「お兄さんはいつまで私の誕生日、祝ってくれますか」

 

 その声に、瞳に、深い色は無い。ただの質問ですよ、と言外に滲ませている。──彼女の父親が彼女の誕生日を祝ったのは、2年前が最後だった。では俺は、いつまで。

 

「君が要らないって言うまで」

 

 それまでは祝おう。俺が出来る範囲で、彼女を喜ばせてみせよう。

 もう片方のみつあみを解けば、つつじは苦笑した。「それって一生ですよ」と言った。髪に指を通しながら撫ぜる。──そうだ、君か俺が死ぬまでだよ。

 過去を振り返れば、そういえばまだ彼女に伝えていないことがあったと思い出した。──いつか、俺が小さい時に言ってもらった言葉だ。

 

 幼くか弱い滝山つつじが俺の預かり知らぬところで幸せに笑っている。昔はそう考えるだけで胃の底が迫り上がる思いをした。一年前の春、彼女に再会してからというもの、怒りや悲しみの表情を見るだけで心が満たされた。微笑まれたら、どうしていいか分からなかった。だから嫌いな君が幸せそうにしているのは嫌いなのだと、そう。思っていた。

 今日はどうだったろうか。今まではどうだったろうか。君が帰ってきたときにおかえりと言う約束をしたときはどうだったろうか。──俺はきっと。

 

「……つつじ」

 

 俺が君を笑顔にしている間は、……まだマシなんだ。君の笑顔を好きでいられる。

 だから護るよ。俺の手が必要なくなるその日までは、君の笑顔を、未来を、何もかもを。

 俺にも誰にも邪魔させない。

 

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 

 ──伝わってるかな、これ。本音だよ。

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