本編

夏だし肝試しでもするかと思い立ったのが今日の午後。連日の猛暑のせいですっかり茹で上がった頭が誤作動を起こしたのだろう。クーラーの効いた部屋で西瓜でも食べてホラー映画を鑑賞すればお手軽納涼会が開催できたというのに。気づけば車のハンドルを握って国道202号を流していた。夕陽の美しい風景を臨める海岸沿いの道路であるが、今回サンセットはとうに過ぎていたので道中割愛。

「トンネルとは気が利いているな」

『つがねの滝入口』の看板が掲げられたトンネル。

トンネルの先に滝へと続く道がある。

洞窟を思わせるようなごつごつとした内装は普段車で通るようなトンネルとはひと味違って冒険心をくすぐる。肌に触れるひんやりとした空気も非日常感を演出し、まるで一端の探検家になったような心持ちでスニーカーを履いた足を一歩一歩進めていく。

長いような短いような時間をかけてトンネルを抜けると水音が聞こえてきた。

ザアアアアアア…………。

きっと、滝が近いのだろう。

なんだか耳慣れぬ生々しさのようなものを感じるが、夜の森というシチュエーション。木々の間の暗がりから何かがこちらをじぃっと見ているような、懐中電灯の光の一寸先に何かが佇んでいるような。身一つで地面を踏みしめるのがこんなにも心細いだなんて新鮮な感覚だった。近所のコンビニまでサンダルをつっかけて買い出しに行くのとは違う。

心細いが、不思議な高揚感もある。

「おっと」

立て看板のようなものを発見し、ライトを向けると光に驚いたのか小型の影がササッと隠れた。イモリか虫……だろうか。これだけ自然豊かであれば昆虫採集や観察にも適しているだろう。あいにく僕はあまり虫が得意ではないので懐中電灯もLED電球タイプを使用している。

「これがブラックライトや蛍光灯のランタンだったら……」

想像するだけでも恐ろしい。

水音はいよいよ近くなる。

ここ、つがね落としの滝は滝壺が無く、流れ落ちて来た水は平岩に勢い良く打ちつけられ、躍動感溢れるしぶきを上げている。

落差は約20メートル程で、大岩石を滑る水に木洩れ陽がきらめくさまは目にも麗しい。

夏でも涼しく、リフレッシュに最適な景勝地である。

もちろんこれは、昼間の話。

夜も深い、こんな時間の深山は僕らの領域ではない。

ザアアアアアア………。

生々しい音が鼓膜を震わせる。

「?」

頭の中に疑問符が浮かんだ。

水場の近くでは植物と土のにおいが薄まる。けれどもこれは清流のにおいとはもっと別の……。

答えはあっさりわかった。


水が蠢いている。


水面がというレベルではなく。

上流から岩肌に沿って流れている水。

その全てが。

「か……蟹…………?」

かに。カニ。蟹。

あちらもこちらもどこもかしこも一面の蟹で覆われていた。

否、覆われているというのは遠慮が過ぎる。

流れるプールに蟹がプカプカ浮かんでいるような生易しいものではない。

流水そのものがすっかり蟹と置き換わってしまっているのだ。

「なっ……えっ、えっ?」

上流からざらざらと蟹の群れが流れ、平岩に落ち、勢い余った蟹たちが跳ねている。

妙に生々しい水音だと思っていたその音は蟹たちが蠢き犇めき押し合い圧し合い流れている音だったのだ。

頭がついていかず呆けていると一匹の蟹が僕のスニーカーの上に乗り上げ、うごうごと脚を上ろうとしている。それに感化されたのかあちこちから横歩きで僕めがけて集い始める。

「う、うわぁっ!?」

僕は悲鳴を上げて蟹を払い落とすと脇目も振らず一目散に逃げ帰った。


ザアアアアアア…………。


トンネルを抜けるまであの生々しい“音”が後ろをついてきていた。


そも、つがね落としの滝の『つがね』とはモクズガニを指しており、多く生息していた蟹たちが水の流れと共に滝を落ちていたことから名前の由来となったらしい。

ハサミにふさふさの毛が生えているのが特徴で、藻屑のようであるから藻屑蟹モクズガニ

あの滝で僕が見た光景は果たして現実か。それとも夏の夜の幻覚だったのか。

「夏だから幽霊という可能性もあるのか」

幽霊は人間だけの専売特許ではあるまい。犬猫や虫の幽霊譚もあるのだ。むしろ食用として人間に貪り喰われた恨みの深さというのは蟹だって相当のものだろう。

「へえ。上海蟹と近縁なのか」

調べると、あの高級食材と見た目や性質、味もよく似ているらしい。

「あれが幽霊だとしたら。蟹の幽霊とはいったいどんな味をしているのだろう」

あの時の光景を思い出して、僕はすっかり惜しいことをしたという気持ちになっていた。









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つがね @azsun

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