第3話
通勤途中でなんとなく注目を浴び、しかしそんな視線もたいして気にせず、会社へ向かう。
木下が素っ気ない態度で立っていたので挨拶をした。
「オハヨ ゴザイマス」
木下の表情が少し曇った。だが、すぐに無表情で返事をする。
次に真島がやってきて隣に座ったので、挨拶をした。
「オハヨ ゴザイマス」
真島は顔をしかめた。
「どうかしたんですか」
「イエ ドモシナイデス」
「でも昨日とはまるで様子が――」
周囲にもどよめきが走った。
木下が鈴を鳴らす。
私語を慎めという合図だ。ブースは通夜の如く静かになる。
就業時間になり、一斉にコール音が鳴り響いた。
心呂の席にも電話が鳴った。
プルルとなる電話の「プ」の時点で取る。
「オデンワ アリガト ゴザイマス カブシキガイシャ スティック タントウ イノウエ デ ゴザイマス」
数秒の沈黙のあとで、電話の向こうのお客様は怯えたように「注文よろしいでしょうか」と言った。「ドウゾ」と答える。
「ええっと。品番、8761が欲しいのですけれども。エムサイズで」
「フクショウイタシマス ヒンバン ハチ ナナ ロク イチ サワヤカ ナツノ タンクトップ サイズ エム デ ヨロシイ デス ネ?」
「はい。あ、あの、あなた、人間ですよね。一昔前の機械が喋っているみたいに聞こえるのですが……」
「ジジョウ ガ ゴザイマシタ」
眠れずに一夜を過ごしてから、今まで使っていなかった脳のどこかが覚醒状態にあり、心呂の思考のコントロールが及ばないところでこうした喋りかたになってしまった。
現代のAIではなく、一昔、二昔前のロボットのような。
動作も朝起きてから、昔のロボットのような動きに支配されているのだ。通勤途中で注目を浴びていた理由はこれである。
「そうですか……あの、お大事に」
「ホンジツハ イノウエ ガ タント イタシマシタ」
電話を一件終えて話を聞いていた真島が憐れむような表情でじっと見ている。
こういう視線にももう慣れている。
治す気は今のところなかった。治そうと思っても今のところ治らない。
これが木下の望みである。そして、これは心呂がこの会社で生き残れるかもしれない方法なのである。
正社員になれるかもしれない、というかすかな希望がまったくないわけでもなかった。そうして昨晩眠れなかったことに感謝をした。こうなってしまったことが心地よく思え始めたからだ。
余計な情を挟むことがなく、正確に的確に精密に迅速に対応できる、無敵な気持ちでいられた。
精密、という点では少しまだ少し慣れていない部分もあるので、キャリアの長い人たちよりは遥かに劣ってしまうけれど。
木下と同格の上司が何人かやってきて、遠巻きに心呂を眺めていた。
翌日もそのように過ごした。二日が経ち、三日が経った。
「オハヨ ゴザイマス」
朝、会社のフロアで真島と鉢合わせたので、挨拶をした。
「オハヨ ゴザイマス」
真島はそう返した。
昨日まで見ていた真島とは、まるで様子が違っていた。
ブースにいる他の人々の視線が今度は真島に集まっている。真島は特に気にしていないようだった。
就業時間になり電話がいつもの如く一斉に鳴る。
真島も「プ」の音で電話を取った。
「オデンワ アリガト ゴザイマス」
真島は吹っ切れた表情で、そう言っていた。
心呂も自分のデスクにかかってきた電話をとった。
美しい声。復唱はいらない、という例のお客様からだ。
「この前の商品、指定した日にすぐ届いたわ。どうもね」
「ド イ タ シ マシテ」
「今回はええっと、品番8896 3751 6690」
これまでにない速さで品番を打ち込む。
「カシ コ マリ マシタ デ ハ ショウヒン ガ トドク マデ オマチクダサイ」
「よろしくね」
次の電話が来た。モニタの画面になにも表示されない。新規だろう。相手は心呂の話し方に少しうろたえている様子だった。
「カタログを見て、『ひまわりカーディガン』というのが欲しくなったのですけれども」
ひまわりカーディガン。8980。すぐに頭の中から出てきた。
猛スピードで打ち込む。
「ヒマワリ カーディガン サイズ ハ エス エム エル エルエル ト ゴザ イマス イカガ イタシ マス カ」
「エムサイズでお願いできますか」
「カシ コ マリ マシタ デハ フクショウ イタシマス」
「はぁ……」
心呂はマニュアルどおり、住所と名前と電話番号を訊ねる。
お客様は住所と電話番号を言ったあとで、やまだみちると名乗る。
「ヤマ ダ ミ チル サマ デ ゴザイ マスネ? カンジ ヲ オネガイ イタ シマス」
「漢字は海千山千の山に田んぼの田」
「ヤマ ニ タンボ ノ タ」
「はい。みちる は ヒラガナ デ ス アラ……?」
笑い声が聞こえる。口調が移ってつい笑ってしまったといったところだろう。
ひととおりパソコン画面に顧客情報を入力し終えて、電話を切った。
木下より上の上司が何人か見に来ており、四十代後半くらいの男性二人に肩を叩かれた。
ほとんど話したことのない、課長の笹川と部長の笹島だ。
「ちょっといいかな」
笹川は愛想のよさそうな顔で笑っている。
心呂は立ち上がった。
真島は心呂と同じ口調で、電話を取ることに集中していた。
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