飛んで行った風船
葵月詞菜
第1話 飛んで行った風船
それは一瞬のことだった。
こっちに向かって来た鳩に驚いて、思わず握っていた手を開いてしまった。
風船はふわりと浮き上がり、そのまま風に乗って遠のいて行く。ジャンプしても届かない。もう遅い。
なすすべ無く、ただ呆然と小さくなって行く赤い風船を見つめた。
紐を握っていた小さな手をグーパーすると、虚しさだけがじわりと心の中に広がった。
「どうしたの?」
ふと聞こえたのは柔らかい声だった。
声のした方を見上げると、背の高い人間のお兄さんがいた。
説明する代わりに空に浮かぶ赤い点を指さすと、お兄さんは手で庇を作って目を細めた。
「うわあ……」
お兄さんの呟きを聞いて改めて落胆してしまった。
「……はなさないでっていわれたのに」
あれは今日町へ来られなかった小さな妹へのお土産だった。
目の奥が熱くなって、堪え切れずに俯いたらポタリと地面に染みができた。
コートの裾をギュッと握り締める。
ぽん、と頭の上に温かい重みを感じた。
「おいおい泣くな。うーん、どうしようかね」
お兄さんは思案するように暫くぶつぶつ言い、
「なあ、今からでもあの風船手に入る?」
と誰かに話を振った。
ごしごしと目を擦って顔を上げると、お兄さんが二人になっていた。
「!?」
唖然として同じ顔の二人を見比べていると、お兄さんの一人——多分新たに増えた方だと思う——が、腕を組んで小首を傾げた。
「難しいんちゃうか? あれはちょい特殊な風船やからなあ。もう風船売りも次に行ってもうたみたいやし」
こちらは少し変わった喋り方だった。よくよく観察してみると、気配から人間とは違うように感じた。自分と同じく人間に化けているような。
「あのふうせんは……しあわせなゆめがみれるって……」
「そうや。幸せのお裾分け風船やからな」
初めに声をかけてくれたお兄さんが顎に手を遣って一つ頷いた。
「うーん、なら仕方ないか。あれ、オレがもらった分出して」
「ええんか?」
「ああ。
少し変わった喋り方の方がポンと手を叩いたかと思うと、次の瞬間、そこには一匹の小狐がいた。やはり化けていたらしい。
小狐はどこからか桃色の風船を取り出した。それをお兄さんに渡すと、お兄さんはこちらの目の前に差し出した。
「ほい。色は同じ赤じゃないが、代わりにどうぞ」
「! ……いいの?」
お兄さんはにっと笑い、半ば押し付けるように風船を渡した。思わず受け取ってしまう。
「ありがとう、おにいさん」
「ああ、どういたしまして。次は離さないように気をつけて」
「ほな行くで、キリ」
「うん。あ、そうだ」
小狐と一緒に去りかけたお兄さんが思い出したように振り返る。
「オレらのことは誰にも話さないでね。ここだけの秘密」
唇の前にすっと人差し指を立てて微笑んだ。
そして、今度こそその背中が遠のいて行った。
握った紐の先に揺れるのは、桃色の風船。
用事を終えたお母さんが戻って来て不思議そうな顔をする。
「風船の色、赤じゃなかった?」
「……ももいろにかわったんだ」
優しい人間のお兄さんの魔法で。
今度こそちゃんと妹に渡すため、紐をぎゅっと握り締めた。
飛んで行った風船 葵月詞菜 @kotosa3
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