第5話 「意識」と「記憶」
吊り橋の夢を見ていた時、
「前に進むも後ろに戻るも、どちらがいいのか?」
ということを考えてしまう。
前述の理屈でいけば、
「普通なら戻る方がいい」
と思うのだろうが、今きた道を、揺れる端の上で振り返るのは、恐ろしい。
必死になって、命綱となるべき、腰くらいの位置にある綱を掴むことで、何とかしがみつきながら、端を掴むことに必死になっている。
それを見ながら、ふと下にいる人物を見た。上から下を見下ろすのだから、とても小さく見えるのだろうが、その時は、そこまで小さく感じなかったのは、そこにいた人物を確認させるために、大きく見せたのだろうと思われたのだ。
その人物の顔を見ていると、
「ああ、あれは、私ではないか?」
と感じたのだ。
最初は、それを見て、
「あれは、私だ」
とすぐに気づいたわけではない。
だから、気付いてからすぐは、いろいろな発想が瞬時に頭の中を巡ったのではないかと感じたのだ。
「これは夢ではないか?」
あるいは、
「あの人は、私のドッペルゲンガーではないか?」
あるいは、
「次の瞬間、瞬時にして視線が、下にいる自分に移ってしまうのではないか?」
とまるで、自分の発想が、
「客観的にみてしまうという感覚なのではないだろうか?」
ということであった。
そんな中において、その思いがどれが最初で、どれくらいの感覚だったのか分からないというのは、
「夢の中だからだろうか?」
と感じたが、
「夢の中であれば、もう一人の自分がいるとしても、それは不思議なことではない」
という思い、
「では、橋の下から、こちらを見ていると感じたとの人物が、本当に自分だと思ったのは、
「見たことでそう感じたのか、そう感じたから、そう見えたのか」
ということであるが、これが夢であるということになれば、前者のように思えるが、逆に夢を見たと思わせるという何かの力であれば、後者のような気がする。
発想が、堂々巡りを繰り返していて、その思いが、どこまでなのかということを考えると、
「前に進むべきか、後ろに戻るべきかということを考えた時、絶対に来た道を戻るべきである」
と言い切れないものを感じた。
というのが、下から見上げている自分のいる位置から見える自分の橋の上での位置は、明らかに、ゴールの近くまで来ていたのだ。
「ここまで来ているのであれば、前に進んで、そのまま突っ切れば事なきを得る」
と考えられる。
しかし、実際に、橋の上にいる自分にとっては、前も後ろも同じ距離であった。
そこで、この錯覚を考えた時、
「橋の上の方が錯覚なのではないか?」
と考えた。
極限の恐怖を味わっているのは、下から見上げている自分ではなく、上にいる本人であった。 しかも感じる恐怖は、自分に冷静さを取り戻させるように感じられたのであった。
というのは、
「恐怖というのは、感じるものなのか、感じさせられているものなのだろうか?」
ということを感じるからであった。
というのも、恐怖というものを、まだ、14歳くらいのつかさが、どれほど味わったことがあるかということであった。
つかさ本人は、自分の中で、
「まだまだ子供だ」
とう意識があり、その中に、
「本当の恐怖は、大人になってから味わうものだ」
と感じていたのだ。
もっといえば、
「子供の頃に感じる恐怖というのはまやかしであり、これが夢だとすれば、まるで、正夢のようなものではないか?」
と考えた。
実に都合よく考えているのだが、それこそが、
「つり橋の上の自分ではないか?」
と感じたのだ。
「確かに、戻ることの方が、君子危うきに近寄らずということで、最初からなかったことにできる」
というものだが、途中でやめて、後ずさりをしようものなら、
「果たして戻ってきた場所というのは、本当にその場所だったのか?」
ということである。
人間の記憶は曖昧なもので、テレビ番組を見ていても、その主題歌が毎回流れてくるのだが、
「果たして、何度目にすべてを覚えることができるか?」
と考えることがある。
実際にドラマが、3回で完結するようなものだったら、覚えていることもないと思ってしまう。
一話だけの完結もの。つまり映画のようなものだったとすれば、とても記憶など不可能に違いないと思うのだ。
だとすれば、せっかくの主題歌なのに、覚えてもらえないということになるが、どっこい、そういうことでもない。
その映画が流行って、テレビで放送されるようになったり、配信やDVDの発売などがあり、知名度が上がってくると、主題歌が他でも流れたり、主題歌自体も売れて、こしらも、CD販売や配信ランキング上位ということになると、
「人気映画の主題歌」
ということで、主題歌だけが一人歩きをする可能性だったあるのだった。
映画が流行ることで、副産物が生まれることは往々にしてあるが、それは、可能性としては低いだろう。
年間に、数本がいいところで、よほど、有名俳優を使ったり、脚本家が有名で、その名前で客が来るかということであろう。
ただ、一番は、ビジュアル的な、
「イケメン俳優」
を使い、そのための、プレ演出としてのイベントの興行もその一つとして、売れるかどうかの指標となるだろう。
しかし、
「それがすべて」
というわけでもない、
あまりにも、プレ演出が、想像以上の効果を生み出すことができたとすれば、人間というもの、欲が出てくるもので、ついつい、
「捕らぬ狸の皮算用」
をしてしまうことであろう。
実際の映画の興行収入は、前評判におぼつかないことも多いだろう。
しかし、だからといって、
「プレイベントが悪かった」
というわけでもない。
何しろ、地元が、
「町おこし」
ということで、普段からそんなに注目されないところなのに、ブームとなりそうなものに飛びつき、街を上げての大イベントとして、
「映画とのコラボ」
というようにしてしまえば、それが、映画会社との作戦勝ちということになりかねないだろう。
実際に、その街で毎年行われているイベントと、主人公である、イケメンが、
「映画とのコラボでやってくる」
ということになると、街は大騒ぎになっているということを宣伝として流せば、ミーハーと呼ばれる人間が、こぞって押し寄せることだろう。
そのイケメンのファンはもちろん、元々、毎年このイベントを楽しみにしている人たちの人手、さらには、
「イケメンも関係ない。イベントにも興味があるわけではないが、ただ旅行のついでに、賑やかなところを見てみたい」
という、その言葉すら、欺瞞に聞こえるほどの一定数いるだろう。
そんな連中には、大義名分は関係ない、
「ただ、その場所にいた」
というだけのことが、その人にとってのトレンドになるというものだ。
つまり、そういう場面一つ一つが、積み重ねとなり、ある程度の数に達すると、初めて、
「こういうイベントに数多く参加してきました」
ということで、
「人間としての拍がつく」
と考えている人もいるということだろう。
だから、すべての人が、
「皆そうだ」
と考えているわけではないだろう。
ただ、
「本人がそういうのだから」
ということで、それこそ、
「本人主導の趣味ということで、大きな口を叩かせてもらう」
ということになるのであろう。
さて、映画の興行は、プレイベントほどの任期ではなかったということは、
「映画などどうでもよく、ただ、イベントに参加できる」
あるいは、
「その場にいるだけで、トレンドなのだ」
というだけの人は、映画を見るわけではないので、その人たちまで、プレイベントの効果の指標としてカウントしてしまうと、厄介なことになる。
しかし、結果として出てきた、
「映画の興行収入」
というものがすべてなのである。
それでも、CDなどは売れるだろう、
今度は、映画とは関係のない人が、CDだけを目当てに買うという人もいるわけで、そこは、プレイベントを行ったことで、寄ってきた別目的の一定数と、こちらも映画には関係はないが、音楽として純粋に楽しむという人の人数を比べた時、大差がないということであれば、映画のヒットのバロメーターに、目に見えている、映画の興行収入だけで見てしまうと、見失ってしまうというものを、関連グッズの売り上げまでひっくるめた額を提示しないと不公平になるというものだった。
そんなことを考えていると、
「ものの成果であったり、周りからの評価というものは、目に見えているものだけで判断しきれないものがある」
といってもいいだろう。
正直、目の前にあるものだけを見ていては、肝心なものを見失ってしまうということを、その夢が言いたいのだとすれば、
「夢というものの正体が、どういうものなのか?」
ということを見失ってしまうかのように思えてくるのだった、
つまり、
「橋の上から見た自分」
あるいは、
「橋の下から見た自分」
どちらを先に感じたのか?
ということが、
「ある意味重要なのではないか?」
と考える。
だが、実際には、
「前に進むか、後ろに下がるか?」
ということが、この場面では重要で、
後になってから、大きな意味を持つのは、上としたの自分の関係なのかも知れないが、その時に、自分が考えなければいけないのは、
「前に進むか、後戻りするのか」
ということであった。
逆にいえば、
「どちらにも動かない」
という選択肢があるのか?
ということであった。
つかさには、その選択肢はなかった。
「前に進むか、後ずさりをするか?」
ということしかないのは、
「橋の上では、何も生まれない」
ということが分かっていたからである。
そのことを自覚するには、何を隠そう、下から見ている自分の観察があったればこそである。
「下の自分が上の自分を見つめている」
ということは、
「どちらかに進むということを示唆しているというものであり、だからこそ上にいても、下を確認することができるのであり、上の自分の自覚がなければ、いくら下の自分が自覚しているということを感じていたとしても、自覚に至ったかどうか、分からないということなのであろう」
と考えるのであった。
そんなことを考えていると、
つかさには、
「前に進むか、後ろに下がるかの二択しかなかった」
のである、
じっとそのままでいれば、いずれ、橋が自分の重みに耐えられなくなり、橋の綱が切れて、谷底に真っ逆さまに落ちていくということを自覚していたのであろう。
それは、実際に落ちる感覚が芽生えていることで、将来の選択肢の一つであることは分かっていた。
しかも、あくまでも、一つの確率というだけのことで、それ以上を創造することができないのは、単純に比較対象として用いるだけのものだということを自覚していたからなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「橋の上にいる自分が、気が付けば、また橋を渡る前の瞬間に戻っている」
というのを感じたのだ。
その時、反射的に、下にいる自分を見ると、
「そこにいたはずの自分がいないことにビックリし、さらに、ホッとした気分になっている」
ということを感じさせられた。
そこにいなかったkとでホッとするという感覚は、
「やはり夢だったんだ」
ということで、すべてを終わらせようとしている自分の存在に気づくからなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「百里の道を進む時、九十九里をもって半ばとす」
という言葉を思い出させた。
これは、油断を制するという意味での言葉なのだろうか?
それとも、もっと他に意味があるというのだろうか?
いろいろなことを考えてみたが、果たして、どれが本当のことなのかということを考えさせられるのであった。
一番気になったのは、後ろを振り返った時、自分が歩いてきたと感じていた長さよりも、想像以上に長かったと感じた時だった。
それは、完全な想定外のことであったということもあってか、今度は前を向いた時、進んできたはずの距離がまるでリセットされたかのように、
「最初、橋の入り口で見た光景とまったく同じに感じた」
というほどだったのだ。
しかも、たった数分前のことのはずなのに、遠い過去のように思えたのがさらに、不思議なことだった。
「そうだ、昔の記憶だったんだ」
という思いであった。
それが果たして、
「デジャブ」
のような、最初から自分の中にあった意識というものである感覚なのか、それとも、
「前世の記憶」
ということで、
「自分が感じたことがある」
というような意識ではなく、ただ、自分の記憶の中に封印されていたものがよみがえったというような感覚なのかということであった。
本当は、
「自分の意識の中のことであってほしい」
と考えていたが、どうもそういうことではないようだった。
というのも、この感覚が、
「自分が経験したとして意識できるまで、落とし込めているわけではなく、無意識に身体の中に宿っている記憶として、封印までされているものがよみがえったという感覚だったのだ」
そうでなければ、
「前世」
という発想にはならない。
前述のように、前世として意識することができるかどうかすら、分からないからだ。
あくまでも、
「意識ではなく記憶」
ということであり、その奥に潜んでいる記憶を呼び起こしたものがあるとすれば、それは、意識の中で、
「前世というもの、そのものを、否定しようとする自分がいる」
というのが、意識であり、
「記憶が決して意識に戻ることはない」
と思っているのは、
「自分の中にある前世の記憶というものを、意識として結びつけて、感覚で思い出すことはできない」
と考えていいるからだった。
「記憶というものは、意識として作用するかしないか?」
というのは、あくまでも、
「前世というものを、意識として復活することができない」
という大前提を元に考えたからであった。
そんなことを考えていると、
「意識と、記憶というものの違い」
ということを考えた時。
「なるほど、記憶というものを、前世というものだと考えたとすると、一応の納得に感じられるものがある」
といっても過言ではないだろう。
だが、記憶というものすべてが、
「前世のものだ」
と言えるだろうか。
記憶というものも、決して一枚岩ではないと考えると、記憶というものには、
「消してもいいものと消してはいけないもの」
の二種類があるのではないか?
と考えるのだった。
というのも、
「現世で意識を一度はしたが、それを間違っているという感覚になったからか、記憶に封印してしまうこともあるだろう」
つまりは、パソコンでいうところの、
「ゴミ箱」
のように、設定で期間を決めて、その間ずっと入っていたものは、期間を過ぎると完全に削除されるというような使い方のもの。
あるいは、
「現世でも、意識を介さずにすぐに記憶に封印するものもある、それは、意識をしないが、意識の材料として使われたものではないか」
という考え方からではないだろうか?
それと、今まで書いてきた、
「前世が存在するとすれば、その記憶」
という意味での、ダイレクトな記憶という、数種類の考え方である。
そんな記憶の中で、夢だと思う感覚としては、
「目が覚めるにしたがって、覚えていたはずの、色や臭い、味を忘れてしまっているのではないか?」
と感じたからであった。
確かに、
「夢というものでは、五感を感じているということはない」
という話もあるが、自分の中では、色を見ているから、覚えている感覚というのもあったりした。
「五感を感じることが、恐怖に繋がることもある」
ともいえるだろう。
というのも、
「明るい色だと安心感が得られ、色が暗くなるにつれて、不安が募ってくる」
あるいは、
「一般的に、人間が苦しいと感じるような臭いであれば、それが、恐怖を募らせて、それが不安へといざなう」
と考えれば、そこに恐怖心まで湧き上がってくれば、不安感と恐怖の板挟みになることだってあるだろう。
そういう意味で、
「色や臭いが恐怖を煽る」
ということが一般的に言われていることだと思った。
しかし、逆に、
「モノクロ」
と言われるシーンの方が恐怖を感じることがある。
それは、カラーになると、実際のシーンとのリアルさが増しては来るが、逆に、リアルすぎるせいで、その部分をどこかぼかすような映像テクニックが使われる。
しかし、モノクロであれば、色がついていない分、勝手な想像が視聴者に求められ、
「リアルな映像よりも、さらにリアルさを醸し出すというような状況になってくる」
という感覚があるのだ。
だから、昔の、モノクロ映像のシーンでは、今から思えば、脆弱な特撮シーンではあるが、その脆弱さゆえに、必死に恐怖を煽ろうとするのは、今のような、リアルさを少しでも、打ち消そうとしている考えとは逆をいっているため、それだけ、想像力を掻き立てるというものであった。
だから、夢の中でいかに色がついていたとしても、明るかったとしても、夢だと考えた時点で、次第に五感で感じたものが、
「夢であった」
と感じるのだ。
その時、一緒に忘れていく感覚が、再度思い出すために、どうすればいいのか? ということを、想像させるのだった。
それが、夢というものを、記憶として封印しようとするのか、それとも、意識の中に解き放とうとするのか? ということに繋がるのだろう。
意識として解き放とうとするのであれば、恐怖心をあおるものを、意識の中に入れてはおきたくない。できれば、楽しい記憶として残しておきたいと考えるであろう。
そう考えると、
「怖い夢だけは、思い出したくないので、記憶の奥に封印しようとするから、夢を別次元で見たものだと感じている頭の中では、記憶こそが夢で覚えているとすれば、格納されるべき空間なのだ」
と感じるに違いない。
ということを考えていると、
「夢をいかに夢の通りに思い出そうとするのか?」
ということを考えると、
「その夢の種類がどんな夢であったのか?」
ということを考えないといけない。
夢の種類といっても、覚えているのは、
「怖い夢」
であり、しかも、怖いという感覚がどこからくるのかというと、
「もう一人の自分」
という種類の恐怖であれば、思い出すために、苦労がなくとも思い出せるのだった。
そう思うと、思い出せる夢が、
「記憶の封印」
であるとすれば、それ以外に見ているかも知れないと思う夢は、本当にすべてが、
「意識することによって、作られる夢の世界だ」
と言えるのかどうかということが問題だったのだ。
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