第4話 聖典による差別発想
「小説を書く」
ということが、まず最初の難関として、
「最後まで書き切る」
ということであり、
そして、その次の難関は、
「継続させる」
ということである。
つかさは、リアルでは知らないが、人から聞いた話として、今から10年くらい前にあった、
「自費出版社系の会社による、詐欺事件」
というものを聴いたことがあった。
元々、そういう企業がブームとなったというのも、
「バブル崩壊」
という時代背景からのことであった。
バブルが弾けた時代というのは、時代を、まったく一変させた。
最近であれば、
「世界的なパンデミック」
というような感じであるが、あの時のバブル崩壊というのは、いわゆる、
「経済破綻」
だったのだ。
バブル経済と呼ばれる、
「実体のない、泡のような貨幣価値に裏付けられた社会経済だったので、神話のように信じられていたことが、今の世の中では、どうしてあんなことを皆が疑いもなく信じていたのか?」
という時代だったのだ。
何と言っても、銀行の運用がそうだったからであろう。
当時の銀行は、今もそうなのだが、
「お金を融資して、その利息で利益を得ていた」
ということである。
当然、銀行は、相手の会社が借金に耐えられる企業かどうかということを審査して、融資を行う。しかし、バブル経済の再生機は、普通に会社を構えていれば、金が回っていくようにできていた。
だから、
「開業している」
というだけで、金を融資してもらえる時代だったのだ。
もちろん、
「極端に言えば」
ということであろうが、それだけに、銀行は融資に対しては、ケチるようなことはしない。
もっといえば、
「1000万円を融資してほしい」
と企業が言ってくれば、
「1200万円の融資をしましょう」
と持ちかけるのだ。
借りる方も、少しでも融資が多い方がいい。利子が増えたとしても、大丈夫」
と言われる時代であった。
なぜなのかというと、
「バブル時代というのは、事業を拡大すればするほど、利益が生まれる」
と言われていた時代である。
だから、人が限られているので、人手不足はあっても、よほど社員に何かの理由でもない限りは、
「クビにする」
ということはありえなかったのだ。
だから、
「リストラ」
などという言葉も、昔からあったのかも知れないが、バブルが弾けてから叫ばれるようになったのだ。
「人員整理」
というイメージの強い言葉であるが、本当は、健全経営という意味合いが強い。
つまりは、
「無駄を省いて、収入と支出のバランスをよくして、健全経営をする」
ということであったものが、
「無駄を省く」
というところが独り歩きをしたのか、
「手っ取り早い無駄の省き方」
として一番分かりやすいのが、
「人員整理」
というものであり、実しやかに、
「リストラとは、人員整理のことだ」
と言われるようになったのだろう。
本当はバブルが弾けたことの教訓として言えるのは、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
ということわざにあやかっていることではないだろうか?
バブルの時代には、
「事業拡大すればするほど、利益が生まれる」
あるいは、
「銀行は絶対に潰れない」
などと、今では考えられないようなことが信じられていたのである。
今では、バブル経済と同じように、そんな伝説は弾けてしまい、それこそ、都市伝説のように言われるようになったといっておいいのではないだろうか?
今では、
「信じられない」
と思うほどの都市伝説を信じていたことで、結局弾けてしまった経済に対して、まったく何もできなかったのだ。
後から冷静になって考えると、
「銀行が潰れない」
などと、そんなことがありえるわけがないではないか。
何しろ、過剰融資なるものが行われていたのだから、相手の企業が一つでも行き詰って、不当たりを出したりすれば、最初は小さな穴なのかも知れないが、それがいつの間にか大きな穴になっていることに気づかない。
つまりは、何が問題なのかというと、
「気づかない」
ということが問題なのだ。
そこには、
「やりすぎ」
というものが潜んでいて、
「誰も気付かない」
という、集団意識の恐ろしさが絡んでくることで、その結果、内部からどうにもならない状態になっていくということが分かっていないのだった。
だから、本当は恐ろしいのは、
「反動に対して、反動をそのままぶつけると、今は勝てるかも知れないが、今度は、そちらの勢いが強くなり、バランスが取れなくなってしまう」
ということである。
これこそ経済学の基礎というものではないだろうか?
これは、
「不況と、インフレのバランス」
ということを考える上でも、同じ経済の基本ではないだろうか。
インフレというと、モノがないという状態が続くことで、
「貨幣はあっても、モノがないので、お金の価値が、一気に下がる」
というものである。
ということは、
「いくらお金を持っていても、紙屑に等しい」
ということで、昔の、
「ハイパーインフレ」
と言われていたような時代などは、
「今だったら、100円で買えるくらいの一切れのパンが、100万円かかっても、買えない」
というものである。
今のように、物資が溢れている時代では分からないだろうが、戦時中であったり、戦後の物資がない時代などは、それらのモノは、すぐに売り切れたり、金のある連中にすぐに買い占められたりしてしまい、さらにそれを高価で売ろうとするのだから、
「お金がいくらあっても足りない」
というものであった。
逆に不況というものは、まったくの逆で、
「世の中に、物資が満ち溢れているのだが、お金がない」
という状況である。
「物資が溢れているので、そこまで企業も人手不足ではない。逆に、人件費などで、支出が多くなると、企業の貯えが少なくなる」
ということで、企業は、不況であれば、人斬りを始めるだろう。
さらに、給料は当然のことながら、上がらない。ただ、その分、物価も安いというわけだ。
しかし、経済が回っているかというと、回っていない。モノがあってもお金がないのだから、誰もお金を使うことを考えないだろう。
つまり、
「インフレと不況は正反対のものであり、例えばインフレになれば、インフレ対策を政府や日銀などが行うのだが、気を付けてやらないと、今度は、不況になってしまう」
要するに、バランスが問題だということになるのだ。
このバランスというのは、何も経済に限ったことではない。他にもいろいろと考えられるものである。
それだけ、世の中に存在しているものには、
「バランスが大切だ」
というものがほとんどだということであろう。
バランスを保つことで、世間が回っている。
そもそも、世の中に、自分一人しかいないのであれば、バランスなるものは、自分の体内だけのものになるのだが、複数の人が同じ人間として、いや生物として暮らしているのだ。
そのことが、
「バランスを必要とする」
ということになるのだが、そんなことは、誰にでも分かっていることなのではないだろうか?
「人との付き合いは、バランスであり、それを間違えると、何もできなくなることであろう」
と言えるのではないだろうか?
そういうバランスという意味で考えてしまうのが、
「つり橋の途中にいる自分」
であった、
なぜ、その場所にいるのか?
ということを聞かれると、
「夢を見ているから」
という答え方しかできないに違いない。
だが、吊り橋の途中から、下を見ると、それまでいた自分の世界が見えてきた。
しかも、そこに誰かがいるというのが分かっている。そして、そこにいるのが、
「自分ではないか?」
ということが分かった時点で、
「これは夢だ」
と感じるのだ。
「夢というのは、普通であれば、自分が夢を見ているということを分からないものだ」
というものであるが、
「稀に分かっている人もいる」
というので、それも自分の特徴ではないかと、つかさは感じるのだった。
ただ、
「科学で証明できないことが起こりえるわけはない」
という考えがあるが、それに対して、
「それこそ、科学への冒涜ではないか?」
と考えたりする。
だから、つかさは、時々、
「疑問から入る」
ということがある、
「絶対に正しい」
と言われることでも、疑ってみるということを考えるのだ。
それは、きっと自分の中で、
「バランスが大切だ」
ということが分かっていて。
「絶対に正しい」
と言われていることが、本当に正しいのかどうか?」
ということを考えさせられると思うのだ。
「インフレを抑制しようとすると、不況に舵を取ることになる」
ということで、
「行き過ぎないように」
と考えることが大切だということであった。
だから、今回の断崖絶壁の吊り橋というシチュエーションは、
「自分の中にある潜在意識が、バランスを取ろうとして、敢えて、吊り橋というシチュエーションを見せたのではないか?」
と考えるのであった。
そのことを考えると、
「つり橋の上にいる自分は、どちらに行けばいいのだろうか?」
と考えるのであった。
「前に進むべきなのか、後戻りするべきなのか?」
ということを考えると、吊り橋の上にいる自分が、考えることとして、
「じゃあ、今いる地点から、どっちが近いのか?」
ということを考えるであろう。
前提だけを考えると、明らかに後ずさりして、元の場所に戻るのが正解なのであろう。
なぜなら、
「先に進んだとしても、その先から、この橋を通ることなく帰ることができる」
という保証がないのだ。
来たところを通るのであれば、分かっている距離なので、戻ってしまえば、恐怖はなくなるということが分かるからである。
だからこそ、元に戻ろうとするのだが、元に戻ろうとして、来た時と状況が変わっていないとも限らない。そんなことはないかも知れないが、それもちゃんと理解しておかないと、間違った答えを出すことで、結果、助からないということになるのであれば、
「後から後悔しても、始まらない」
ということになるであろう。
それを思うと、やはり、
「最後にはバランスが必要なのでは?」
と、感じるのだった。
さらに、
「前と後ろが分からなくなる」
ということがある。
高さというものが高ければ高いほど、上から見る時と、下から見上げる時とで、錯覚を生じる。
しかも、途中に何かの視覚的障害物があった時、何かの錯覚を起こしかねないと考えると、いろいろな意味でのよく言われる、
「錯覚」
というものが、起こりやすいことになるのではないだろうか?
ということも言えるのではないだろうか?
高さを考えた時、下から見上げる方が上から見下ろすよりも、断然近くに見えてくる。
というのも、人は潜在的に、
「高いところ怖く感じる」
ということが言えるのではないだろうか?
それを考えるから、
「高所恐怖症でなければ、高いところが怖くない」
というわけではなく、怖いという感覚が違うだけで、感じている思いは一緒なのだとおいうことが言えるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「怖いという感覚が、人によって違うわけで、高いところから下を見た時、怖くない」
というのは、
「それほど心に残らない」
ということであり、
「心に残らないということは、残るかも知れないが、残らないかも知れない」
という、二つの狭間で揺れているわけなので、その二つは、考え方として十分に許容されているということになるのだろう。
そう思うと、
「高所恐怖症の人は、ただ単に高いところというものに、感受性が強いといえる」
わけであり、
「どうして感受性が強いのか?」
ということの一つの理屈として考えられるのが、
「前世の記憶」
という言葉で、逃げられると考えることであろうか、これも、実際のところは分からないが、
「火のないところに煙は立たない」
ということで、いろいろ考えているうちに、そのことに行き着いたのか、それとも、何かのひらめきであったとすれば、閃きの場合が、前世に結びついてくるのではないだろうか?
「人間には、意識しないところで、以前にも同じようなことがあったような気がする」
という、いわゆる、
「デジャブ現象」
と呼ばれることがあったりする。
その場合には、
「デジャブ現象」
と呼ばれるものすら、
「実に曖昧なものだ」
と言えるのではないだろうか?
つまり、前世の記憶」
というものの、解釈方法として、デジャブ現象を用いるのは、ある意味、卑怯だといえるのかも知れない。
要するに、
「デジャブ現象」
というものが、それだけ曖昧であり、話の中で、潰しのきく考え方なのではないだろうか?
ということである。
高所恐怖症というものを、理由にするには、前世の記憶を解明する上では、若干足りないような気がする。
前世の世界に、実は、
「飛べた」
という記憶が誰にでもあるのであって、そのことを思い出せないということが、
「空を飛ぶことのタブーに結びついているのではないか?」
と思うのだった。
空を飛ぶというのは、前世の世界、つまり、自分が生まれる前の世界であれば、ある程度、まだ、空を飛ぶのが怖いと思っている人が多かっただろう。
「いや、そんなことはない」
という人もいる。
確かに、人間が飛行機というものを使って空を飛べるようになったのって、まだ、100年ちょっとしか経っていないではないか?
しかし、その後の時代では、戦闘機ということで、どんどん発展したものが生まれてくる。
乗るのが楽になるわけではなく、何と言っても、
「戦いに使うわけなので、相手よりも、性能が勝っていなければいけない」
ということになる。
その性能とは、戦争が絡まなければ、
「乗り心地の良さであったり、音が静かなどという性能をいうのだろうが、戦闘に使われるものは、まず、相手にいかに撃墜されないか?」
そして、
「いかに、相手を撃墜するか?」
ということになるのだった。
日本におけるゼロ戦というものは、
「すべての審査基準について、世界トップレベルにまで押し上げる」
という至上命令があったのだ。
そのせいで、犠牲にしなければいけないものがあった。
それは、安全性というものであった。
「徹底的な軽量化」
というものが実現され、そのために、操縦は、究極まで難しくなっている。
それを克服するのは、決まっていた。
「特訓に特訓を重ねて、ゼロ戦と一体なり、極端にいえば、
「目を瞑ってでも、操縦できる」
というくらいまでの熟練パイロットをたくさん作るということだったのだ。
いくら、科学が発展し、理想の戦闘機を作ることができても、その操縦をできる人がいなければ、鉄くずも同じであった。
まさに、
「絵に描いた餅」
であり、日本が大東亜戦争で敗戦した無数の理由の中の一つに、
「熟練のパイロットを数多く失った」
ということが大きいだろう、
特に、大東亜戦争の雌雄を決すると言われた、
「ミッドウェイ海鮮」
において、いわゆる、
「兵装転換のミス」
から、飛びたてずに甲板に残っていたり、格納庫にしまってあった爆撃機が、急降下爆撃を受け、燃料ごと、ゼロ戦格納庫までもが、火の海になってしまったのであろう。
だから、パイロットが出撃前に、
「ゼロ戦とともに火に包まれる」
ということになり。空母までもが、海の藻屑となるのだから、それも当たり前のことであろう、
熟練パイロットが死んでしまったこともあって、
「ゼロ戦を操縦できる人がいない」
ということと、運悪く、ゼロ戦がアメリカ軍に、十分に解析できる形のものは手に入るということになり、
「ゼロ戦が、丸裸にされた」
ということになるのであった。
それを考えると、このことが、
「大東亜戦争の雌雄を決した」
といってもいいだろう、
何しろ、勝ちすぎたことで、占領地が増え、戦線が伸び切ったことで、死守が難しくなった。これも相手の作戦の一つであり、相手の補給を立ってしまえば、戦闘不能になるということで、そんな簡単なことも、日本では分かっていなかったのだ。
要するに、
「ゼロ戦というのは、軽量ということを、とことんにまで特化した戦闘機だったために、これほど操縦しにくい戦闘機はないわけで、もちろん、多くの機体を失ったのは、当然厳しいことであったのだろうが、それよりも、どんなに作り直しても、今度は、それを操縦できる人がいないということになると、
「無用の長物だ:
ということになるのである。
相手は、手に入れた機体を徹底的に解析し、弱点を見つけ、本来の熟練パイロットであれば、ゼロ戦を熟知しているのだろうから、相手の罠にはまることはないだろうが、素人パイロットであれば、
「ゼロ戦の限界」
を分かっているわけではないので、すぐに相手の作戦に引っかかり、無理な運動をして、相手の弾に当たるまでもなく、空中分解などをして、自滅することになるのがオチだったりするのだ。
ひょっとすると、その時の記憶。つまり、
「壊れるはずのない戦闘機が、いきなり空中分解を起こしてしまった」
という記憶を持って、死んでいったので、今の世界に戻った時、
「空を飛ぶ」
という意識を感じた時、自分の前世が、ゼロ戦のパイロットであり、最後が、
「ゼロ戦における、ドッグファイトだった」
ということであれば、わけもわからないままに死んでいくことになった記憶だけが、まるで、タイムリークしてしまったかのように、思い出されたのであるとすれば、夢に出てきたことで、空を飛ぼうとしても、そこには、
「絶対に不可能なことなのだ」
という当たり前のことを裏付ける気持ちがついていたとしても、無理もないことであろう。
人間の魂に、前世というものがあるとすれば、男女の違いがあっても、それは無理のないことではない。
今社会的に問題になっている、
「LGBT」
なる問題も、そもそも、
「人間というものが、一つだったのではないか?」
と考えられる。
それは、勝手な考えであるが、宗教的に、
「人間の始まり」
という考え方の中に、
「一人の人間の中に、異性が存在する」
という考え方はない。
「アダムとイブ」
などの聖書であったり、
「イザナギ、イザナミ」
のような古事記の話であったり、最初から、男女がそれぞれいての、
「世界の始まり」
なのである、
さらに、ギリシャ神話では、最初の方では、
「男性しかいなかった」
とされる。
そして、
「人類最初の女性」
として登場するのが、
「パンドラ」
という女性だというのだ。
神の世界では、
「争いなどの原因となる火というものを、人間には与えてはいけない」
と言われていたのだが、プロメテウスという者が、人間を可哀そうだと感じ、火を与えてしまった。
すると争いが起こるようになり、収拾がつかなくなってしまった。
そこで、人間を懲らしめ不幸のどん底に陥れるため、人類最初の女性として、パンドラを作り出し、地上に送り込んだ。
パンドラは、神から送られた匣を持っていたが、それを、
「開けてはいけない」
と言われていたのに、好奇心から開けてしまった。
すると、そこから、
「あらゆる禍の種が飛び出した」
というのが、ざっくりとしたお話だったが、要するにギリシャ神話に至っては、
「女性の登場は、ずっと後になってのことだ」
ということであった。
そういう意味では、人間の同一の肉体の中に、二つの性が潜んでいるというような、まるで、
「両生類」
のような考え方というのはありえないということになるのではないだろうか?
ただ、
「後世に生命をつないでいくのは、子供を産むのは女性だ」
ということで、肉体は女性から作られるといってもいいのだろうが、子供が生まれるためには、男性の精子が混じらなければ、子供というものが女性の身体に育まれることはないのだ、
「なぜ、その機能が女性だけのものなのか?」
というのは分からない。
というよりも、そのような身体の機能を持った女性は、子孫をつないでいくという意味で、本来なら大切にされるべきはずの女性であるはずなのに、なぜ、太古の昔より、つい最近に至るまで、
「女性というものが差別され、権利のほとんどを奪われていたのか?」
と言えるのではないだろうか?
そこで考えられるのが、ギリシャ神話における、
「パンドラの匣」
として有名な、前述の、
「世界で最初の女性」
とされる、パンドラの存在である。
あの話では、
「人間という神から見て、下等で愚かな生物に対し、与えてはいけない火を与え、神が思っていた通りの争いのない世界になってしまったことで、神が女というものを創造し、その下等で愚かな人間どもに、禍を与える」
ということだったのだ。
だから、女というものは、
「悪の使い」
であり、人間からすれば、
「邪悪の根源だ」
ということになる。
しかし、だからといって、
「子孫を残してくれる。あるいは、家系の存続に、必ず必要な女性は、絶対に必要なのだが、邪悪な存在である女に、権力を与えては、そもそもの人類の存亡の危機にも関わる」
ということで、人間社会において、女性の権利を著しく制限していたといってもいいのかも知れない。
そおそも、ギリシャ神話であっても、発想は逆なのかも知れない。
「パンドラの物語が書かれている」
ということから、
「女性というものは、邪悪なものだ」
と考えるのではなく、
「そもそも、女性がその当時、邪悪な存在であったということを、神話になぞらえて、その邪悪な理由を、実しやかに正当化しようとして、パンドラの匣なる話をでっち上げたんおかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「人間社会において、女性という存在がどういうものなのか?」
ということを考えさせられる。
今の時代であれば、
「女性差別だ」
ということになるのだろうが、それを言われ出したのは、本当につい最近ではないだろうか?
「いや、実際には昔からいわれてきた問題であり、少しずつ差別がなくなっていったというのも事実だろう」
と言える。
しかし、差別が行われていたのは、何も、
「男女の問題」
だけではない。
人種差別などというものも大きかった。
そもそも、人間は、昔から、
「奴隷制度」
というものが存在し、戦争を行い、
「勝利した国が、敗北した国の人民を奴隷化する」
というのは、当たり前に行われていた。
きっと、
「弱肉強食」
という考え方が、当然のごとくに存在していた時代のことであろう。
差別問題というのは、そういう意味で今に始まったことではない。むしろ昔であれば、
「当たり前のこと」
のようになっていて、その時に迫害されていた人たちが、いかに感じていたのかということをはかり知ることはできない。
もちろん、奴隷解放が行われた時は、喜んだに違いないが、果たして全員そうだったのかということになると何とも言えない。
人によっては、
「迫害を受けていたが、黙っていうことさえ聞いていれば、生きていくことを真剣に考える必要などない」
ともいえるだろう。
もし、奴隷解放というのを、例えば、聖書の中にあった、
「モーゼ」
という人物に導かれ、行われたのが、
「事実だった」
ということだと考えた時、
彼らの中には、
「モーゼこそ、自分たちを惑わす者だ」
といっていた人もいるという。
しかし、彼らは、モーセに逆らったことで滅びることになり、モーゼは奴隷たちをエジプトから解放し、
「聖なる土地」
へといざなったとされるが、その時、モーゼの立場としては、
「自分は神の使いである」
というような存在だったのだろう。
だから、その時、奴隷たちは、有無もいわさず、
「自分たちが、雇い主である連中から独立して生きていくのは、解放されたとはいえ、難しい。だから、神を敬うことで、生きていけるということを自覚する」
ということではないのだろうか。
だから、奴隷解放という物語は、
「人間は平等である」
ということを謳っているのであるが、それは、あくまでも、
「神の下での平等だ」
ということではないのだろうか?
つまりは、
聖書の中に書かれているということは、
「キリスト教やユダヤ教の聖典なのだから、基本的には、神というものを信じさせるということ」
が基本となっているはずである。
それを考えると、
「奴隷解放という手段を使って、神の偉大さを強調もできるし、人間というのは、そのすべてが、神の下なのだ」
ということを示しているのだ。
では、問題は、
「その神というのは、本当に存在するのだろうか?」
ということであるが、
今のところ、神の存在が証明されたという事実はない。
しかし、古代から脈々と受け継がれている、
「各宗教における、聖典というものは、あくまでも、神は存在し、その存在を裏付けるかのような聖典を残している」
というものである。
すべてが物語になっていて、人々に神の存在を証明するためのものとなっているということだ。
「元々、宗教というものは、一つだったという発想であるが、そう考えれば、少しずつ考え方の違う、似たような聖典が、それぞれの宗教で残っているというのも、納得がいくのではないか」
と言えるのではないだろうか。
そんな宗教であるが、
男女差別という問題にしても、人種差別という問題にしても、
「それらは、元々平等である、しかし、それは神を信じることで、救われる」
という考え方である。
実際に宗教が、差別をなくしていったというわけではなく、人間が、そんな聖典の解釈で、
「差別をなくす」
という考え方となることで、差別撤廃という考えが生まれてきたのではないだろうか?
いや、もっと露骨な考え方をするならば、
「人間がその時々の支配者の都合によって、奴隷が解放されたり、女性の差別問題を解決しなければいけなくなった」
ということなのかも知れない。
そうでなければ、ずっと、差別されていた側も、
「理不尽だ」
と考えていたかも知れないが、それでも、納得して生きていたわけで、大きな問題とならなかったが、逆に世界で差別問題が、広がってきたのは、
「どこか一つが問題にしたことで、それまで何も言わなかった人たちが言い出したからだ」
というような。
「集団意識」
というものが、働いてきてのことではないのだろうか?
そんなことを考えていると、
「宗教における、洗脳というのは、結構恐ろしいものだ」
と言えるだろう。
特に、過激な宗教ともなれば、
「自爆テロ」
などという自己犠牲というものを、最高の美学と考える宗教もあるくらいで、ただ、それも、信仰している人たちにとっては、真剣そのものであろう。
つまり。
「解放された奴隷たちが、モーゼに導かれた時、不安を極度に感じずに従えたというのは、神という存在があったからで、だから、自爆テロであったり、日本における中世にたくさん出てきた宗教というものは、死後の世界に、助けを求めるという考え方だった」
といってもいいだろう。
「今の世で、神様を信仰していれば、あの世に行った時に、極楽に行ける」
という発想である。
そういえば、数年前にどこかの国に存在した、
「世界最終日」
という伝説があり、その日に、世界は滅びるということであったのだが、
「お布施をすれば、死んでもあの世で幸せになれる」
といって、全財産を教団に寄付するというのが、真剣にあった。
その人たちは、
「世界最終日」
という伝説を信じたのだろう。
だから、全財産寄付ということを疑いを持たずにいったのであり、実際に滅亡しなかったことで、一文無しになってしまったことで初めて気づき、教団を訴えようとした。しかし、金を持ったまま、教団は雲隠れしたというようなことだったと思うが、普通であれば、
「そんなバカな話を信じる方も悪い」
と言われるかも知れないが、
「信じる者は藁をも掴む」
ということわざにあるように、人間の不安に付け込んで信仰心を掻き立てて、騙すという新興宗教という問題は、いつの時代にも存在するといってもいいだろう。
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