第2話 死後の世界の発想
夢の中の辻褄合わせという発想は今に始まったことではない。
辻褄を合せるということは、
「むしろ夢ではなく、リアルな考えを持っているから見る夢だってある」
と言えるのではないだろうか。
つまりは、
「夢を見る見ない」
という発想は、今の時代いであれば、科学の発展によって、夢の大まかなメカニズムであったり、夢を見る理由付けも分かっているのかも知れない。
「夢というのは、脳波の動きや、電流によるものが影響して見せているものだ」
と聞いたことがあった。
夢というのは、一般的に言われていることと、稀に違う意識を持っている人がいるのも事実だが、ここで主人公の、飯塚つかさという女の子が見るものは、
「その中の稀な部分」
ということだといってもいいのっではないだろうか?
もちろん、毎回同じだとは限らず、
「稀なことは、やはり稀にしか起こらない」
ということであった。
例えばであるが、
「夢を見ている時は、視覚として現れるだけで、他のものを感じることはまれである」
というのも、色や味、そして匂いなど感じていない」
というのが普通だと思うが、たまに、目が覚めてから、
「赤いブレスレットをしていた」
あるいは、
「アルコールのような臭いを感じた」
などということを、目が覚めてから、感じていたということを後追いで感じているような時があった。
というのも、冷静になって考えると、
「赤いブレスレット」
というのは、いつもしているのが、意識の中に残っていたからだ。
さらには、アルコールの臭いがしたというのは、
「その人の職業が医者だ」
ということを夢の中で意識したことで、
「ああ、いつも感じていることが夢で反映されたからだ」
ということを感じるのだった。
だから、これも、
「潜在意識の域を出ることはない」
という考えに追従しているということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「視覚以外の感覚を自らで感じているというのは、現実世界からリンクしている潜在意識があるからで、だからこそ、
「意識に限界というのか、結界を感じさせるのが、潜在意識として感じていることで、自らに限界を与えてしまっているからではないか?」
と感じさせるのであった。
そんな夢でさらに、感じるのは、
「夢を見ている時は、自分で夢を見ているという意識はなく、目が覚めてから、あれが夢だったのだと思わせることだ」
というものであった。
見た夢というものは、確かに夢を見ているという意識はない。だから、ギャグマンガなどに書かれていることとして、一度、
「面白いと感じたもの」
があったのだが、
それは、
「不眠症に罹って、眠れないという夢を見ている」
というものであった、
ここだけでは、何が言いたいのか分かりえない人がいるかも知れないが、要するに、
「眠れないといって苦しんでいるのが、眠っている時に見る夢だ」
という、まるで、
「マトリョシカ人形」
のような発想えある。
「蓋になった人形の蓋の部分を開けると、そこからまた人形が姿を現し、そこを開けるとまた蓋が……」
というものであった。
まるで、
「入れ子になったかのような状態であり、
「眠れないという夢を見ている」
というのは、まさに、
「蓋を開けると、そこにはまた蓋が入っていた」
というものだったのだ。
実際の人形では、そこまでのことはないだろうが、夢のような意識であれば、
「単純に繰り返している」
という現象ではないことが見えてくる。
それは、きっと、真横から見ることができるからだろう。
少しでも浮き沈みがあったり、その先に見えるものが、螺旋階段のように、上向きか下向きになっているということを意識すると、
「一度向いた方向を、一度向き始めた向きを変えることはない」
と言えるだろう。
これは夢にも言えることであり、
「螺旋階段とは、目的地が最初から決まっていないといけない」
というもので、俄かのように人気にあやかろうとするもののように、群衆によってつくられた方角を、勝手に自分の都合よく癇癪するのは、間違っているだろうといえるだろうか。
だから余計に、夢のような曖昧のものは、その状態を意識させるというもので、解決策として、
「曖昧なのだから、最後まで曖昧を貫くか?」
と考えるか、
「曖昧さというものが実際とは、切っても切り離せないということ、本当に自分に自信がないというだけで、醸し出されるものなのか?」
ということで、曖昧さというものを現実として理解しようとするには、曖昧さという言葉は、
「夢と同一なのだ」
として考えることが必要だということになるのだろう。
だが、たまに、夢を見ている時、
「あっ、これは夢なんだ」
と意識することがあるはずなのである。
なぜなら、夢の中で、
「夢だから」
ということで、空を飛ぼうとする時、
「いや、待てよ。夢だからといって、いきなり危険なことになるのは、実に恐ろしい」
そこで考えられるのが、前章で考えた、
「特撮ヒーローの話」
だったのである。
あれこそ、
「パーキンソンの法則」
と言われる都合よく、最後は辻褄を合せようとする発想に、似通っているといってもいいのではないだろうか。
つかさは、よく、目が覚めてから、
「たえず夢を見ている中の、どれかを思い出そうとしている」
と考えてしまうのだ。
だから、そこには時系列というものは存在しない。
といってもここでいう時系列というのは、実際の時間の時系列という意味ではなく、夢に見ているその内容の時系列である。
夢なのだから、何も時系列に沿って形成されるものではないということを、自覚しているといってもいいのだが、冷静に考えると、
「同一の夢であれば、時系列は、実は存在していて、見る人が勝手に組み立てている」
と考えると。
「現実世界は、その本人、あるいは本人以外が影響しているくせに、そのメカニズムがあるわけではない」
と言えるだろう。
そういう意味では、
「人間の潜在意識が作り出したという夢の世界では、あくまでも、都合のいいものが一番影響しているのだろうが、その中で、誰が夢の世界を作ったのか?」
ということが、考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていきそうな気がするのは、
「螺旋階段上の負のスパイラルが存在し、都合がよく、曖昧だという辻褄合わせのような発想だ」
と考えられるのではないだろうか?
最近のつかさは、
「自分の見ている夢の中で、これは本当に自分の夢なのだろうか?」
と考える時がある。
夢の中で、自分が意識している時系列とは明らかに違っていて、
「物心がつく前に、まるで大人だったという意識が残っている気がする」
という意識であった。
そんな時、
「ああ、これって、人生の意識なのかしら?」
と考えてしまうことがある。
時系列に関しては、
「確かに中学時代の方が、小学生時代よりも、遠い記憶に感じられる」
と思うのが、
「ここが明らかに錯覚の世界だ」
ということが分かるからだ。
そうなると、錯覚の世界というものを、自分の中で納得させようとして、入り込んでしまった袋小路からは逃れられないと思うのだ。
これは、そう感じさせようという意識があるからだというもので、辻褄を合せようとすることで、自分の正当性を示したいのだろう。
しかし、どちらも潜在意識の中に、
「記憶としてではなく、意識として残っている」
というもので、物心がつくさらに前の意識に関しては、
「意識にも記憶にも残っていない」
ということで、潜在意識が見せるものである、夢ではないのだとすると、
「何を見せられているというのか?」
ということであり、考えて出てきた答えとして、
「前世の記憶」
というものではないかということだった。
つまりは、
「前世の記憶ということでしか、理解できないものだ」
ということで、意識ではない辻褄合わせとして、
「抜け殻のような記憶」
といってもいいのではないだろうか?
前世というものが、意識でも記憶でもないところに格納されているのだとすると、そこにあるのは、
「パンドラの匣」
であり、
「決して、開けてはいけないものだ」
ということになるであろう。
そんな前世の記憶を、見ることができるとすれば、それは夢でしかないだろう。
しかし、夢というのが意識の中で見るものだということなので、意識の中に前世の記憶が残っていたことになる。
ということは、
「死後の世界で、記憶というものは、すべて消されたものではないということになるのだろうか?」
そもそも、前世という概念は宗教における。
「輪廻転生」
という発想から来るもので、転生することは、自然界の摂理であるところの、循環という意識によるものともいえる。
そう考えると、
「世の中のものは、すべてが循環で成り立っている」
と言えるだろう。
逆にいえば、一つの循環が存在すれば、他のもの、自分のまわりにその循環が影響し、まわりのものも循環すると考えるのはおかしいだろうか。
いや、そのことは、きっとみんなが無意識に思っていて、その感情が、循環というものを自然に受け入れる感覚になるのではないだろうか。
宗教的な発想として、死後の世界を4つに分けるというのを聞いたことがある。
「上二つが、神様になるというもので、三つ目が人間に生まれ変わるというもので、一番の最低部分は、地獄ということで、生まれ変われるものは、人間以外のものだと」
という。
つまり、この発想には、一つ大きなものがある。もちろん、一つ一つが重要な意味を持っているのだろうが、ここでいう地獄が、最低部分にあるということで、それは、
「天国と地獄」
という発想からでも、分割する世界が2つと4つの違いだけで、地獄は最低でしかないということである。
そして、重要なのが、世界を4つに分けた時、地獄に行ってしまうと、
「人間には生まれ変われない」
ということである。
ということは、ここでいう最下部にあたる地獄にいけば、人間以外にしか生まれ変わることができないということであれば、
「人間だけが特別で、それ以外の動物はすべてが、人間未満だ」
ということである。
死後の世界が、天国と地獄しかないという発想の時、地獄に行ってしまうと、
「輪廻すらできない」
ということになる。
「再生のない苦痛が永遠に続く」
ということであった。
つまり、
「輪廻は人間以外のものに生まれ変わることはない」
という発想である。
もっといえば、
「前世と同じ種類のものにしか生まれ変わることができないのか?」
という発想であるが、そもそも、宗教というものが、人間世界のものなので、4つの世界における
「人間以外のものに生まれ変わる」
という発想はそもそもがおかしいのではないだろうか?
だから、
「地獄に落ちたのだから、それだけ悪いことをしたということで、生まれ変わるなら、人間以外の下等動物に生まれ変わる」
という、発想からすれば、完全に、
「人間至上主義だ」
と言えるだろう。
人間は、無意識にも意識の中にも、
「生物の中で一番高等なものは、人間だ」
ということになるだろう。
あくまでも、人間は、無双な存在という発想であり、
「人間は人間にしか生まれ変わることができない」
という発想の方がシンプルであるが、そうなると、生まれ変わることができない。輪廻のできない人が増えるということであり、それを考えると、その時代時代で、
「前世を持たない、いわゆる輪廻をまだ繰り返していない人間の存在がなければ、人間の数は、減る一方だ」
という発想になるだろう。
実際に、世界の人口は減るどころか増えていた時代があった。
それよりも、人間は誰かが作った、つまりは、聖書でいうところの、
「アダムとイブ」
日本における神話の世界である、
「イザナギ・イザナミ」
であっても、元は、
「二人の人間だった」
ということであり、そこから、どんどん繁殖していくことで、人がどんどん増えていった。
ということであり、最初に生まれた人たちは、ほとんど皆、
「前世を持っていない」
ということになる、だとすれば、生まれ変わりが基本なのだとすると、人が死んでいくにつれて、下手をすれば、人口が減っていくということになる。すべての人が、地獄にいくことなく人間に生まれ変わったとしても、そこにあるのは、
「人間の数に、増減がない」
ということである。
そうなると、今度は根本的なところで違っているといえるのではないだろうか?
つまりは、生まれ変わりがあり、人間が減らないということになるのであれば、
「死後の世界」
という発想が根底から崩れてくるのではないか?
ということだ。
つまりは、
「死後の世界なるものが存在し、地獄とそれ以外の世界に別れることで、輪廻の際、地獄に落ちてしまうと、間違っても、人間として再生されることがない」
という理屈であれば、
「死後の世界というのは、存在しない」
ともいえるだろう、
つまり、
「死んだ人間が、魂だけになり、幽体離脱のように、元の人間の身体から分離した魂は、肉体を求めてさまよっていると、ちょうど生まれたばかりの赤ん坊を見つけ、そこに魂が、入り込むのではないか?」
という発想である。
だから、そこには、天国も地獄もない。再生するために行く死後の世界は存在しないと考える方が、人口というものを考えた時、理屈に合っているのではないだろうか。
もし、死んだ魂が、生まれてきた魂よりも少なかった場合は、生まれ変わりになる魂が入り込んでくれなかったということで、
「死産」
ということになるのではないか?
と考えると、これも、辻褄としては合っているのではないかと考えられるのではないだろうか?
逆に、本当に死後の世界が存在しているということであれば、
「人数が減らない」
ということへの対策として、
「人間という生命がこの世に生まれてきた、いわゆる創世期というのは、死という概念がなく、ある程度の人が増えてくるまでは、最初に生まれた人は生き続けたのではないか?」
という発想もある。
「あくまでも、人口の推移という発想からの勝手な理屈である」
といえるが、ありえない発想ではない。
言われてみれば、昔の天皇の中には、
「150歳まで生きた」
と言われている人もいるではないか。
さらにギリシャ神話などになると、神というものが、人間の具現化だという発想になれば、
「神に死という概念がない」
ということと、
「神の子孫が、人間となる」
ということもあることから、日本でも、
「神の国」
と言われていることから、ありえる発想なのではないだろうか。
死後の世界の発想として、まだまだ、考えられることはあるだろう。何しろ、世界にはたくさんの宗教が乱立しているわけで、中には、元から別れた宗教というのもあるだろう。
そんな宗教のそれぞれに、それぞれ独自の、
「死後の世界」
というものがあるだろう。
元が同じ宗教だとしても、死後の世界の発想が同じだとは限らない。
この死後の世界という発想が、派生する形で生まれてきて、そこから派閥が生まれ、別の宗教に変わってしまったという流れを汲んでいる場合だってあるだろう。
そう考えれば、中には、
「宗教のその考え方だけで、うまくいっている」
という発想だってあることだろう。
つかさは、
「人口の増減」
という発想から、死後の世界について考えてみたが、彼女は、このような発想をすることが多い女の子だった。
しばしば、
「君は変わった発想をする子だけ」
と言われてきた。
特に、担任の先生などから言われてきたが、つかさは、あまりよろこんでいなかった。
それは、
「変わった発想」
と言われるのが嫌だというわけではなく、他の、
「中二病」
と言われる人と同じレベルに見られるのが嫌だったのだ。
いわゆる、
「思春期に見られる、背伸びしがちな発想」
というのが、つかさには嫌だったのだ。
自分は背伸びしたいわけではなく、皆の、
「間違った発想をただしたい」
というわけでもない。
ただ、
「自分の発想が、他の人とは違うということを分かってほしい」
という発想であり、その発想が、見方によっては、中二病のように、背伸びした発想に見られてしまうことを懸念していたのだ。
「どうすれば、中二病と差別化できるだろうか?」
と考える。
差別化したいと思うほど、中二病というもの、いや、自分が背伸びしているということを、まわりに思われたくないという感覚が強かったのだ。
夢に対しての思い入れが大きいのも、その一つなのかも知れない。
夢の中で過去のことを考えていると、
「確かに、前世の出来事のように感じる」
と思ったことがあった。
しかし、そんな日に限って、中二病と思えるようなクラスメイトが、まるで図ったかのように、
「夢で見た」
といって話す内容が、何やら自分が見た夢と酷似しているような気がしていたからだった。
ただ、これは、つかさの思い込みで、
「自分が見たわけではないのに、あたかも見てきたかのように喋っている中二病と思しき同級生」
その人の言い分が、前の日に見た自分の夢と酷似しているかのように思える。
しかし、それはあくまでも、デジャブのようなものであり、実際に似た夢であっても同じであるわけはないという感覚から、つかさ自身が、まわりの影響を受けやすいタイプなのかと思うと、余計に、中二病のような、背伸びしたいと思っている連中のペースに引き込まれるということに、自分自身で、嫌悪を感じるということになるのだろう。
それを思うと、
「中二病の連中を盾にして、自虐的な感じを受けてしまうのではないだろうか?」
と考えてしまう自分を、情けなくも思うのだった。
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