第2章『魔界騒乱と聖竜覚醒』

●8 果ての山脈にて 1






 空気がピンク色になる、というのは今のような瞬間を言うのだろう。


 誰もが固唾かたずを呑んで俺達の状況を見守っているはずなのに、ワーオ、という声がどこからか聞こえてきた気がする。


 大気が凝固したような緊張感。


 既にイゾリテの口からは決定的な一言が発されてしまった。


 受けた俺は、まるでピンを抜いた手榴弾を手渡されたような気分。


 早くどうにかしないと、爆発して大変なことになってしまう――気がする。


 一髪千鈞いっぱつせんきんを引く緊迫きんぱくの時間が過ぎ、やがて――


「……………………お、おう、ありがとう」


 何の変哲もない言葉が、俺の唇からまろび出た。


 情けなや。かつて〝銀穹の勇者〟と呼ばれ、あの魔王エイザソースを討伐した俺が、こんな面白味の欠片かけらもない返答をしてしまうとは。


 しかし、これ以外にどんな対応があっただろうか? 他に何かいい切り抜け方があったというのなら、ちょっと過去に戻ってさっきの俺に教えてやって欲しい。


 ともあれ、どうにか応答することが出来た俺だが、今なおイゾリテの両手に顔を挟まれて微動だにできないでいる。


 今動けば、足元にある地雷が爆発する――そんな予感があった。


 表情筋こそ鉄仮面のように変化していないイゾリテだが、緑色の瞳がさらにウルウルとしてきているのは、きっと気のせいではないだろう。


 ただ、その原因となる感情が正のものなのか、負のものなのか、さっぱりわからないのが問題なわけで。


「……はい」


 目を潤ませたイゾリテは、頷きを一つ。その首肯もまた、何を意味しているのか俺にはさっぱりわからない。


 何がどう「はい」なのだろうか?


 いや、わからないものはわからないものとして、ともかくイゾリテがそう返してくれたことで空気が弛緩しかんした――ような気がする。


「……と、ともかく、久しぶりじゃないか、二人とも。ガルウィンもイゾリテも元気そうで何よりだ」


 この場を仕切り直すため、我ながらわざとらしいと思いつつも、実に無難ぶなんな言葉を吐く。そうしながらイゾリテの両手首を掴み、さりげなく頬を挟み込んでいる掌を離れさせた。


「ええー? さっきのでお終いなのかい、色男さーん? もっと他に言うべきことが色々あるんじゃあないかなー?」


 テーブルに頬杖をついたままのエムリスが、ここぞとばかりに混ぜっ返すようなことを言いやがった。こいつ、楽しそうな顔をしやがって。


「やかましい黙れ。今すぐどっちも紹介してやるから髪を掻き上げて耳を澄ませてろ」


 つい体内の〝傲慢〟が軽く刺激されて、そんな言い返し方をしてしまう。


 俺はいったん席を立ち、わざとらしい動作で周囲を見回す。すると、息を潜めてこちらのテーブルを観察していた客達が慌ててそっぽを向いた。んんっ、とこれまたわざとらしいまでの咳払いをすると、こっちの様子など全然見てませんでしたよと言わんばかりに、それぞれのテーブルで会話が始まる。


 これでいい。そっちがコソコソと見てくるなら、こっちは堂々と見返してやるぞ。深淵を覗き込む時、お前もまた深淵から覗き込まれているのだ、この野郎め。


「あー……まず、こっちがガルウィン・ペルシヴァル。俺が何年か前に戦技指南役として指導していた奴だ。今は自分の領地に戻って、騎士爵きししゃくさまをやっている」


 やや浅黒の肌に、癖のある琥珀色の髪、明るい緑の瞳を持つ青年をてのひらで示し、エムリスに紹介する。


「初めまして、ご紹介にあずかりましたガルウィン・ペルシヴァルです。ですが残念ながら、騎士爵の位階は先日返上いたしました。今はただのガルウィンです」


 爽やか好青年、としか言いようのない笑顔を浮かべたガルウィンは、礼儀正しく会釈しながら、しれっと爆弾発言を口にした。


「……は? 位階を、返上した?」


「はい、叩き返しました。アルサル様を反逆者に仕立て上げ、あまつさえ死刑に処そうとしたあの国には心底しんそこ愛想あいそが尽きました。一片の悔いもありません!」


「いや、そんな拳を握って力説されてもだな……」


 えらく重大なことを、笑顔のまま豪語するガルウィン。


 いやいや。


 爵位なんてそう易々やすやすと捨てられるものではなかろう。騎士爵は爵位の中でも最下層ではあるが、小さいとはいえ領地を有していて、そこには領民だっているのだ。


 貴族であるこいつが他国であるアルファドラグーンに来られた理由はわかったが、あまりにもぶっ飛びすぎている。


 細かい事情が気になるが――


「それで? そちらの可愛らしいお嬢さんは?」


 爵位を返上した云々の話には興味がないのか、エムリスが紹介の続きを促した。青白い瞳が興味深そうな視線を、ガルウィンのかたわらに下がったイゾリテに注いでいる。口元がニヨニヨとうごめいているのが、何ともいやらしい。


「……イゾリテ・ディンドラン。姓は違うが、ガルウィンの妹だ。ガルウィンを指導している時によく遊びに来ててな、何度か遊んでやったことがある。こんなちっちゃい頃だったけどな。こんな」


 腰のあたりに掌をやって、架空の幼女の頭を撫でるジェスチャーを俺はする。そう、当時はこれぐらい小さな女の子だったのだ。


 しかし今となっては、目を見張るほど成長している。背丈だけでなく、女性的にあちこちが。


「お初にお目にかかります。ガルウィン・ペルシヴァルの妹、イゾリテ・ディンドランです。先程は挨拶もせず失礼いたしました。どうか寛大なお心でご容赦いただければ幸いです」


 スカートの裾をつまんで、慇懃いんぎんにカーテシーをするイゾリテ。血が繋がっているだけあって、肌、髪、目の色はガルウィンと全く同じ。ただ癖のある髪はボブカットにしており、表情豊かな兄貴とは正反対に、仮面のような無表情がデフォルトなのが彼女の特徴――というか、まぁ、個性である。


 イゾリテは昔から感情が顔に出ないタイプの子供だった。色々と遊んでやっても、楽しんでいるのかいないのかよくわからなくて、しかし文句は言わず俺の後ろにくっついてくるので、まぁ嫌われてはいないんだろう――ぐらいに思っていたのだが。


 よもやよもや、さっきの告白である。


「アルサル様にも、大変失礼なことをしてしまいました。どうかお許しください」


 今度は俺の方を向いて、頭を下げるイゾリテ。機械人形みたいにかっちりした動きだ。平常心でそうしているのか、それとも内心を隠して平静を装っているのか――この元〝勇者〟の観察眼をもってしても判然としない。


 なので、俺も出来るだけ普通の態度で、


「ああ、気にしてないから大丈夫だ。問題ない。そっちも気にしないでくれ」


 と返したのだが、何故だかエムリスの奴が雨に打たれた野良犬みたいに顔をしかめて「うわ……」とか言いやがった。何だよ、今の返し方の何がだめなんだ。ちくしょうめ。


「じゃあ、こっちなんだが……」


 荒れ狂う嵐の海がごとき内心をひた隠しにしながら、俺はエムリスの方をチラ見する。


 さて、ここでこいつを〝蒼闇の魔道士〟だと紹介するのはいかがなものだろうか。認識阻害の魔術を使っていると言っていたが、その効果は一体どれほどのものなのか。変に騒ぎになるのも面倒くさい。


 と、我ながら微妙な間を空けてしまった瞬間、


「――ああ、そうだね。ここでは何だから、場所を変えようか。アルサル、会計を済ませて外に行こう」


 俺の考えを察したように、エムリスが立ち上がった。すかさず、脇に置いてあった大判の本が浮かび上がり、エムリスの尻と椅子の座面の間に滑り込む。ふわり、と小柄な体が宙に浮いて、


「ああ、ここの宿代も朝食代もボクが払うよ。お土産のお礼と迷惑料を兼ねてね。流石に迷惑をかけっぱなしにしておくのは、ボクの流儀に反する。ここは一つ、気持ちよくおごられてくれたまえ」


 空飛ぶ本に腰掛け、傲然ごうぜんと足を組んだエムリスは、実に尊大な口調でそうのたまった。お礼という割には随分と恩着せがましいが、まぁおごってもらえるというのなら遠慮なく奢ってもらおう。別に金に困っているわけでもないが。


「へいへい、じゃあ支払いは任せたぞ。ガルウィン、イゾリテ、あっちは任せて先に出とくぞ」


 テーブルの脇に置いてあった伝票を魔力で引き寄せ、すぃーっ、と宙を滑るようにカウンターに向かうエムリスを見送りながら――いや、いくら認識を阻害しているからってあれは大丈夫なのか?――俺は二人に声をかける。


「はい、わかりました」


「かしこまりました」


 兄妹きょうだいはそれぞれに返事をすると、どことなくエムリスの正体が気になっているような素振りを見せつつも、俺の言葉に従った。


 宿屋を辞して、出入り口の脇に立ってエムリスを待つ。二人に色々と聞きたいことはあるが、待ち時間が微妙すぎて切り出す踏ん切りがつかない。


 案の定、大して待つこともなくエムリスが宿から出てきた。


「やぁ、お待たせしたね。それじゃあ、ゆっくりと静かにお話しできる場所へ行こうか」


 にこやかにエムリスが言うが、残念ながら既にガルウィンもイゾリテも、多少なりとも怪訝そうな顔をしている。


 そりゃそうだ。空飛ぶ本に乗って移動する人間など、アルファドラグーン広しと言えどそうはいない。


 エムリスの奴は当たり前のように空中浮遊しているが、ああ見えてあれは、結構な上級魔術かつ魔力の消費が激しいのである。


 もうこの時点で奇異に過ぎるし、場合によっては正体に気付いていても不思議ではない。


「とはいえ、どこがいいかな? アルサル、ひとまず【行き先】はボクに任せてもらってもいいかい?」


 出し抜けにそう問われて、俺はすぐにピンときた。


 ああ、転移するつもりだな――と。


 が、当然ながらガルウィンとイゾリテにはさっぱり理解できなかったらしく、


「行き先、とは……?」


「アルサル様?」


 と兄妹揃って、今のはどういう意味ですか? という視線を俺に向けてくる。


 ま、その時になればわかるだろう。そう判断した俺は、


「おう、任せる」


 とだけ答えた。


 エムリスは大儀そうに頷き、


「よろしい。では、行こうか」


 楽しそうに、パチン、と指を鳴らした。


 視界が暗転する。





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