賢者 Lv.17

 ルベリウスは海を見たいと言った。

 今年で十六歳を迎えるルベリウス・ヴァン・ダイス。

 生まれてから一度も海を見たことがない。

 事の発端はルベリウスとマルヴィナがプリスティア侯爵領の領都ダルムットに到着してからのこと。

 ルベリウスとマルヴィナは馬車を使わずに帝都アルヴァーナから西南西に向かって丸三日歩いた。


「とても疲れました。こういう時は海に入ってゆったり過ごしたいです」


 マルヴィナ・ヴァン・ダッカダル。

 彼女は西方の辺境伯領に近い海沿いの領地で生まれ育ち、幼少期には海や川でよく遊んだ。


「海ですか? 僕、海を見たことが無いんです」


 歳の近いルベリウスとマルヴィナは二人で旅をしているうちに打ち解けていた。

 言葉のやり取りがより気安く、互いに話しやすい間柄だと感じ始めている。そんな時にマルヴィナはつい、子どものころの思い出が蘇ったのだ。

 楽しい時は楽しかった時の思い出が瞼に浮かぶ。


(この人と一緒に──)


 マルヴィナはルベリウスを敬愛するが、それと同じく、異性として好ましく思い始めていた。

 それがマルヴィナに欲を生む。

 ゆっくり流れる時間をルベリウスと過ごしたい。

 旅は情け人は心とも言うけれど、帝都を発って三日、マルヴィナはルベリウスが情に厚く、彼の〝遊ぶ〟による軽く感じられる行動も実はルベリウスなりの気配りなのだとマルヴィナは実感した。

 気を許し心が絆されて何もかもを捧げてしまいたいと──ルベリウスはそう思わせる。

 第二学校中等部のころは数々の浮名を広めていたルベリウス。ルベリウスに仕える前の調査内容から知っていたことだけど、身持ちが固いはずの貴族の娘が何故そんなにも簡単に身も心も捧げてしまったのかをマルヴィナは理解して納得できた。

 前任のターニャがあまりにも深い愛情をルベリウスに対して抱いていたことも当然のことだったのだとマルヴィナは肌で感じている。それと同時に、幼少期からルベリウスと共に過ごして彼の成長を間近で見られたターニャを羨ましがった。

 郷愁や嫉妬、羨望が混じり合って出てきた「海に入りたい」というマルヴィナの言葉である。


「私は家名の通りダッカダルの娘として生まれました。ダッカダルは西方の海岸線にある領地で、お母様や弟妹たちと海に入ってよく遊んだものです。夏の暑い日なんかは海がとても気持ち良くて大好きでした」


 懐かしそうに海を思い出して言葉にしていくマルヴィナをルベリウスは眩しげに見る。


「では、海に行きましょうか。ダルムットに着いたらお母様と相談してみます」


 ルベリウスは海で遊びたい。

 〝賢者〟として海に対する知識欲を満たしたいという気持ちもあるかもしれないが、生来は〝遊び人〟である。

 ルベリウスは〝賢者〟になっても遊びたい。

 しかし、マルヴィナはルベリウスのテンションが上ったところで急に恐れ多いと感じてしおらしい態度に変化した。


「宜しいんですか? 何だか私が催促したみたいで申し訳ございません……」

「マルヴィナさんが謝ることはありません。僕が行きたいんです」

「ですが、私が焚き付けたみたいに思われてしまうのではないでしょうか?」

「大丈夫ですよ。マルヴィナさんが心配するようなことには絶対になりませんし、させませんから」


 ルベリウスは海が楽しみで仕方ない。

 ダルムットから最も近い海岸は馬車で五日ほどの──海辺の男爵領まで峠を二つ越えるため実際は遠くないのだが──距離にある。

 ダルムットの領城には三週間ほどの滞在予定で海に行くとなるとほとんどの時間を旅に費やすことになるのだが──。


「お母様。僕、海に行きたいです」


 ダルムットに到着して再会の挨拶の後にルベリウスから出てきた言葉である。


「あら、そう言えばベルを海に連れて行ったことはなかったわね。せっかくだし行きましょうか。私も身軽になったからスカッと遊びたい気分なの」


 ルベリウスの実母のウルリーケが海に行くことに賛成した──というより、ウルリーケも海に行きたがった。


「そうと決まったらアリスも誘って行かなきゃね。その前に水着も用意しなくっちゃ。お父様にも言ってくるわね」


 ウルリーケは挨拶を済ませて仕事に戻ったクレフの居る執務室へと小走りで向かう。

 ルベリウスは「ほらね」と言いたげにマルヴィナを見ると、マルヴィナは呆けた顔でウルリーケを背中を追い続けた。


 それからのウルリーケは行動が早い。

 ウルリーケは馬車や宿泊先の手配を手早く行い、女性陣を連れ立って水着を買いに行った。

 ダルムットはダルム神殿で清められたという神性は高いが若干際どいという神秘的な水着が女性向けに販売されている。

 ルベリウスはその間、ダルムット市の郊外に出てくちぶえを有効活用して魔法の研鑽に励んだ。


 それから、数日後──。

 ルベリウスの一言が──マルヴィナの軽い呟きが侯爵家の動かした。

 今日、ウルリーケが張り切って準備をしていた海岸の男爵領にプリスティア侯爵総勢で向かう。

 急遽決まった慰安旅行だと言うのに主だった親族や家人がのるために五台の馬車が用意されての出発となった。

 これにはマルヴィナがひどく驚いて──


「ベルさま、本当に申し訳ございませんでした」


 何度も何度もルベリウスに謝ったほど。

 しかし、こういう機会でもないと休暇をとって旅行に行けないクレフである。

 ウルリーケがご機嫌に海への旅行の支度を整えていたらクレフとその妻のミレアも──息子夫妻のチャッドとキャスリィと彼らの二人の子も連れて行くことに──。

 侯爵家は遊戯に飢えていた。

 ルベリウスが乗る馬車にはウルリーケとマルヴィナ、ルベリウスの実姉のアリス・ヴァン・ダイスとチャッドとキャスリィの娘のファミル・ヴァン・プリスティアが同乗。

 ファミルは〝僧侶〟の職分を八歳で賜った将来有望な跡取り候補の一人である。

 チャッドとキャスリィの間には五歳になったばかりの息子のオルト・ヴァン・プリスティアがいるが彼はチャッドとキャスリィが乗る馬車に乗車。

 短い準備期間だったと言うのに旅は順調に進む。


「ベルお兄さま。この祝福を授かるための詠唱がここ記されているんですが、お口が上手く回らなくて……どうしたら上手に唱えられますか?」


 馬車の中でファミルはルベリウスに一冊の神書を開いて見せた。

 ルベリウスは後ろ向きの席の真ん中──アリスとファミルに挟まれて座っている。

 かたや花のような芳醇さを思い描かせる甘い方向を漂わせて豊満に育った身体を武器に誘惑するアリスと、幼さを武器に上目遣いで可愛らしさをアピールするファミル。

 ルベリウスが中等部に入学してウルリーケと再会してから二年後、ルベリウスが中等部最後の冬季休暇でウルリーケとターニャとともにプリスティアに帰省をした、その時にルベリウスを気に入ったファミル。以降、ファミルはルベリウスを見かける度に執拗に付き纏った。


「この詠唱は、違う節を使って魔力量を減らすことができるんだよ。例えばね──」


 そうやってファミルに魔法を教えていると、反対側からは「私にも敬語じゃなくて気安く話してくれても良いのに」とアリスの声。

 それだけかと思ったら正面に座るマルヴィナも淋しそうな顔で「私にもあのように気軽に話していただきたいものです」と小さく呟いた。

 ファミルは二人が小さく放った言葉を耳にして口の端を微かに釣り上げる。

 実際、ルベリウスに対して妹キャラはとても相性が良いらしい。ルベリウスが本来の面倒見の良さと〝遊び人〟の特性が多くの女子を引き込んだ。

 ルベリウスが〝遊び人〟として成長に身に着けた高いみりょくによるものもある。故に〝賢者〟となり、中鬼ホブゴブリンなどの討伐を経て、ルベリウスは〝遊び人〟だったころよりも、みりょくが高まった。

 それが〝僧侶〟の職分を得たファミルの心に強く響いている。ファミルにとって初めて恋だからか、加減を知らず、積極的に接していた。


「ありがとうござます。お兄さま」


 ファミルはルベリウスの太ももの付け根に手を置いたまま、上目遣いを一旦見せてから教わった詠唱を復唱する。

 すると、治癒魔法が発動。


「わあ、凄いです。こんなに軽いのに──こんなの知らない……お兄さま凄いです。もっと、もっとファミルに教えてください」


 ファミルはまだ十歳である。それなのに一端に色仕掛けで迫ってくる。

 ルベリウスは苦笑いして誤魔化す他なく──


「ここの詠唱の意味は──」


 ルベリウスは勉強の続きをすることにする。

 ファミルは『絶対に私の旦那様にするんだもん』とルベリウスを独占してる現状を誰にも譲るつもりはなく、勉強が好きでないながらもルベリウスの声に耳を傾けた。

 子どもの特権をファミルは存分に活用する。


 馬車は数時間ごとに休み休み進み、峠に入ると進行が遅くなる。

 プリスティア領と海岸の男爵領──リットーレ領を隔てる二つの峠のうちの一つ目の峠に馬車は入った。

 アルヴァン帝国の内陸部は頭部に眺めるロンダル台地に引っ張られる形で海より若干高い平野部となっている。

 帝都からプリスティア領までは森林や小さな河川と公爵領などいくつかの領地を抜けた先にあるが、プリスティア領とリットーレ領は隣り合っている。

 だと言うのにこの二つの峠が隣領だと思わせないほどに険しく聳えていた。

 最初の峠は緩やかな登りの後に険しく曲がりくねった長い下り坂を進む。

 この一つ目の峠はウノサウ峠と呼ばれていた。ちなみにもう一つはデュサウ峠とされている。

 ウノサウ峠を下り切ると海面と同じくらいの高さの湖岸を眺める断崖絶壁に出る。

 谷底から見える湖は浅く小舟でなければ対岸に渡れないのだが、ふたつの峠の間──この谷底には小舟をつけられる湖岸がない。

 この湖は海の方まで伸びている汽水湖。オラム湖と呼ばれているがこのオラムというのがリットーレ領の領都と同じ名前。

 リットーレ領はこの汽水湖の湖岸に眺める海岸の小さな都市である。

 この二つの峠に挟まれた谷の底で二泊目の野営を張る。一泊目は下り坂の途中に野営のための広場と施設があり、そこで一夜を過ごした。

 ダルムットを出発して三日目に二つ目の峠──デュサウ峠が難所である。

 海面とほぼ変わらない高さから一気に千メートルに届くほどの山を登る。

 このデュサウ峠を三日から四日かけて越える。

 総勢二十名ほどの集団は谷底で一晩過ごした翌朝に難所とされるデュサウ峠を登るために出発した。

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