賢者 Lv.3

 ルベリウスが〝賢者〟になった。

 このことはルベリウスとターニャの二人だけの秘密である。

 第一学校高等部への入学式の前日。

 ルベリウスが寝静まった夜。

 ターニャは不意に目が覚めた。


 ターニャはこれまでの生活を楽しんでいた。

 でも、こうして起きた時に下着や服を着てる自分をどことなく淋しく感じ始めている。

 ルベリウスが〝遊び人〟だったときにしていたことはだいたいヤってるのに、心も身体も満たされているというのに、ターニャは淋しさが募るばかりだった。

 隣で寝息を立てる彼女の主に、彼女は心からの愛おしさを感じて、顔をそっと撫でる。

 けれど、それだけではターニャの淋しさを埋めるまでにはならなかった。


「もう、これ以上、引き伸ばすのは難しいです……」


 今までは本当に楽しかった。

 ターニャはルベリウスと二人で生活して一緒に苦しんで一緒に笑って、そうやって過ごした十年は宝石箱のように輝かしい思い出がたくさん詰まったもの。

 それでも、やはり、女として生まれたからには子を成したい。ターニャはルベリウスとの時間を大切にしてきたために、自身の決断をずっと引き伸ばしてきた。


 翌日──。

 第一学校高等部の入学式。

 ルベリウスが寮の部屋で準備をしていると、ウルリーケが迎えに来た。


「準備の方はよろしくて?」


 真新しい制服を来たルベリウス・ヴァン・ダイス。


「ん。坊ちゃま。今日もキマってますね」

「ありがとう。ターニャ」


 ターニャの笑顔にルベリウスは言葉で応じる。


「では、行ってくるわね」

「じゃあ、ターニャ、いってきます」

「はい、いってらっしゃいませ」


 ターニャが二人を送り出した。

 これまでならウルリーケと歩き出す時でも、ウルリーケの腰に手を回し、尻を撫でていたというのに、ルベリウスはウルリーケと身体を触れること無く寄り添っている。

 二人の後ろ姿を目で追って階段を下りて見えなくなるまでターニャはルベリウスとウルリーケを見守った。

 なお、この時、ウルリーケもルベリウスの変化に淋しさを感じている。


(あんなに甘えてくれていたのに、もう触れてすらもらえないのね。年を取るのもイヤなものだけど、可愛い息子に触れられなくなるのも淋しいものね)


 すっかり背が伸びたルベリウスを横目に、ウルリーケもターニャと同様、ルベリウスの成長にちょっとした違和感を感じていた。


 ルベリウスは第一学校でもSクラスに配属。

 中等部の入学式典と同じウルリーケは講堂に行き、ルベリウスはSクラスの教室に入った。

 席は窓側の一番後ろ。末席という意味であろうことは廊下側の一番前にシンシア・ヴァン・アルヴァン皇女が座っていることから察することができる。

 このクラスの多くが既に職分を発現しているから、職分が〝遊び人〟という最下級だからこれ以上良くならないという意味なのだろうとルベリウスは悟った。

 教師が壇上に登壇すると、生徒たちは一気に静まり返る。


「皆さん。おはようございます──と言っても、ほとんどが皆同じクラスで進学されたかと思います。今日は入学式典なので委細は省きますが、段取りの説明をさせていただきます──」


 教師は数十分ほどかけて一通りの説明をすると、講堂に移動。

 第一学校の入学式典には皇帝陛下など、帝国の重鎮が式典で祝辞を述べる。

 在校生からはジェシカ・ヴァン・アルヴァン皇女が祝辞を読み上げた。

 壇上のジェシカは新入生を一人一人に目線を送る。

 どれも見覚えのある顔だ。

 それでも、ジェシカはたった一人の生徒を探した。


(十年というのはやはり大きいわ。あれがベル様なんでしょうけれど)


 それっぽい男性は見つけたが、彼がルベリウスなのかとジェシカは心の中で、幼い頃に見たルベリウスの姿を重ねる。

 幼いルベリウスの印象は今見ているであろうルベリウスとの乖離が激しい。


(もし、あれがベル様なのだとしたら、私としては今の彼のほうが好ましいわね)


 ジェシカは壇上から下りる時もルベリウスを一瞥。

 とはいえ、学年が違うから接触する機会を設けることは困難だろうとジェシカは残念がった。


 生徒たちが教室に戻ると皆、疲れ切った表情を見せている。

 それほどまでに祝辞が長かった。

 教室に戻ってややしばらく、生徒の親など保護者や後見人といった大人たちが教室に入って来て、生徒が座る席の隣に並び立つ。

 ルベリウスの横にはあと数年で五十歳にも届くウルリーケ。

 かつて、年上だと言うのに目を瞠る美しさで皇太子の婚約者だったというプリスティアの聖女の呼び名で名を馳せた美貌は衰えるところを知らない。

 大人だけでなく生徒からの注目をウルリーケは浴びた。


「はい! 新しい生徒が入って物珍しいのはわかりますが、これからの説明をさせていただきます──」


 ウルリーケに集まる視線で壇上に教師が立ったことすら忘れられており──だから、わざと声を大きくして注意を集める。

 教師はリコ・ヴァン・ショール。ショール辺境伯の次女で結婚をしているのに旧姓のまま教職を続ける一風変わった女性である。

 彼女の職分は〝パラディン〟。発現が早かったことで腕前には相当の自信を持っていた。

 とはいえ、腕前にこの場の視線の向きは何の関係がない。

 一瞬、視線を向けられたリコだったが、リコの話は多くの生徒や大人たちの耳には届かず、ルベリウスの隣に堂々と立つウルリーケに意識を削がれる。

 リコの説明は長かった。

 ルベリウスはこれが第一学校なのかと思うと、幼児期から勉学に励んでいたとは言え実地訓練や模擬戦を好む部類の彼である。

 普段の授業も座学が多くなるのかと思うと今からでも眠くなりそうで憂鬱な気分だった。


「それでは、中等部からの進学でほぼ持ち上がりなんだが、第二学校から進学したルベリウスくんがいるので、自己紹介をしようか。では、廊下側から」


 リコの号令で廊下側の一番前──シンシア・ヴァン・アルヴァンから自己紹介が始まった。

 ルベリウスは考える。ここで自己紹介をする順番──席順なども含め、第一学校は第二学校とは違い家格や後見人の地位など、こういったものが重要視されるのではないか──と。

 であれば、姉のアリスが上位の成績を収めているというのにSクラスを出ていない理由が何となくわかる。

 しかし、それだったら、何故、兄のシグナールは──ということになるのだが、シグナールの頭脳は初等部のころから評価が非常に高かった。

 そんな感じで自己紹介が進んでいく。時に生徒の隣の大人の発言があったりと、やはり、この第一学校では〝家〟というのが大きな要素になるんじゃないかとルベリウスは確信を持つ。

 そして、最後──。

 ルベリウスが立ち上がって自身の紹介をする。


「僕は第二学校中等部から進学しましたルベリウス・ヴァン・ダイスと申します。ダイス子爵家の三男で一歳の頃の職分クラス鑑定で〝遊び人〟を賜ったとされています。隣は僕の母で皆さんの注目を浴びておりますが、僕の自慢のお母様です。皆さん、よろしくおねがいします」


 短い言葉でルベリウスは自己紹介を終えた。

 自己紹介中もルベリウスはルベリウスに視線が向けられるのではなく、ウルリーケへと向けられた熱い眼差しのほうを感じたのでウルリーケのことも交えた自己紹介とする。

 子爵家の三男というのはこのクラス──この第一学校では底辺の部類。加えて最下級職〝遊び人〟を言葉にしたためにゴミを見るような目でルベリウスは見られていた。

 そうじゃない視線もなかったわけではないのだが──。


 それから、さらに説明があって、その場で解散。

 ルベリウスはウルリーケと寮の部屋に戻った。


「おかえりなさいませ」


 と、出迎えたターニャは、


「ウルリーケ様と坊ちゃまに大事なお話としてお伝えしたいことがございます」


 と、丁寧に言葉を紡いだ。


 主賓にターニャ・ヴァン・ダンジク。

 その対面にウルリーケ・ヴァン・ダイスとその息子のルベリウス・ヴァン・ダイス。

 ターニャが煎れたお茶を三人で啜り、ターニャは大事なお話を言葉にする。


「私、ターニャ・ヴァン・ダンジクは今月末を持ってお暇を頂きたく思います」


 ゆっくりと、丁寧に、ひとつひとつの言葉をターニャは紡いだ。

 そのターニャの言葉にウルリーケは答える。


「わかりました。了承いたしましょう。なるべく早くに引き継げる方を用意しますから、そのときはお願いするわね」

「はい。ありがとうございます。このような大切な時期に大変申し訳なく思っているのですが、やはり私も──」

「そこまで言わなくても分かるわ。大切なことだもの。謝罪も感謝も私のほうからさせていただきたいくらいよ。本当に貴女一人に全てを押し付けたようなものでしたから」

「いいえ。でも、私、本当に楽しく働かせていただいたのでウルリーケ様に──坊ちゃま……、いいえ、ルベリウス様の元で、こういった仕事に従事できたことを本当に誇れますし、何より幸せでした」

「本当にそう思ってもらえてたなら私の方も嬉しいくらいだけど、それ以上に──ね」


 ウルリーケとターニャの会話をルベリウスは無言で聞いていた。

 ターニャがいなくなる──それが何よりも衝撃的で悲壮感に胸が締め付けられる思いで周囲の音が耳に入らない。

 ルベリウスは思った。

 何故、お母様はターニャを引き止めないんだ──と。

 だが、ターニャは子を生みたいと考えている。

 ルベリウスも覚悟をしていないわけではなかったが、それでもここまで一緒に過ごしてくれて、妙齢もまもなく過ぎようとしていたから、そういうのは諦めたんじゃないかともルベリウスは考えた。でも、実際は違ったのだ。


「──そういうわけなので、坊ちゃま。最後までよろしくおねがいしますね」


 ルベリウスには何も聞こえてなかった。

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