第3話
白いガスに巻かれたと思った次の瞬間、アオは雷に打たれたような激しい衝撃を感じた。
「あうっ!」
同時に、足下にあった地面の感触が不意に失われた。視線を下に落とすと、赤茶けた火山岩の地面が無くなっていた。代わりに、液体とも気体ともつかぬ紅蓮の海が煮えたぎり渦巻いていて、アオはその上に浮かんでいた。
これが現実でないことは間違いなかった。なぜなら、人間が宙に浮かんでいられるはずがないし、炎がこんなに近いのにちっとも熱くないからだ。じゃあ夢か、と言われても違う気がする。夢にしては意識がはっきりしている。夢を夢と自覚して見る夢があることはアオも知っていたが、それとも違う気がする。何より、見ているのではなく、見せられている気がする。まるでプレイステーションのVRゲームの中にいるような感覚だった。
天空から、巨きな星が近づいてくるのが見えた。近すぎてもはや全体を見ることはできないが、一部を見たただけでも、その星が圧倒的な威厳を備えているのがわかった。星は衝突を避けようと進路を変えるどころか、むしろ威風堂々と、燦爛たるフレアの海に向けて直進し、のしかかるようにして海と接合すると、ふたつはどろどろに溶け合い、絡み合い、激しく契り合った。星のしずくが、きぬぎぬの蒸気となり雲となり、しっぽりと天水を降らせ、無辺の海が生まれた。そして、ぽつりぽつり、島々が隆起し、その地表を緑が覆っていった。
俺は何を見せられてるんだ……?
アオは訝しんだ。
それにしても、いったい誰がこんな映像を?
――人間よ……
突然、声がした。有無を言わせない、凛とした声。それがアオの頭の中に直接語りかけていた。
――人間よ……来たれ。
アオが望んだわけではない。声の導きで、アオはあまたある島のひとつに、その島の頂きに、降下した。白いガスが衣のようにアオのからだを包み込み、衣擦れの放電をはじめた。アオは自分の体内に膨大なエナジーが注がれるのを感じた。そして、アオのからだは巨人と化した……。
X
急速な積乱雲の消滅を目のあたりにして美登里は吃驚した。
こ……こんなことってあるの?
美登里がそう思うのも無理はなかった。積乱雲は風に吹かれて散っているわけではなく、地面に吸い込まれていたのだ。まるで、煙を吹き上げる発煙筒の映像を逆再生しているようだった。
はじめて見たわ、こんなの……。
ほどなく雲は一掃され、再び黒光りする巨人像が姿を現した。
なんか雰囲気変わってる……
さっきまでは、木や石同様、魂を持たないただの物体にしか見えなかったのが、いまは違う。魂を有する生命体のように見えた。
それよりも――
「アオさーん!」
美登里は大声でアオの名を呼んだ。目でも探したが、美登里のいるところからは、アオの姿は見えず、返事もなかった。
どうしちゃったんだろう……。
美登里はいてもたってもいられず、巨人像の方に走り出した。
見えないのは、きっと巨人像の脚の陰に隠れているからだわ。
そう思った矢先、巨人像の右脚が地面からゆっくり浮き上がった。
「えっ?」
右脚が上昇したのは、右膝が屈曲したせいだった。
う、動くの、この像?
巨人像は持ち上げた右足を前に出してふたたび接地させた。地面がズシンと揺れた。右脚に続いて左脚、さらに右脚、それを繰り返して巨人像は、一歩一歩、固い大地を踏みしめながら、おもむろに歩きはじめた。重みのある王者の歩調で。
「……」
あまりのことに美登里はわが目を疑い、言葉を失った。美登里の胸中ではいま、驚愕、困惑、疑問、畏怖など、さまざまな感情が入り混じって渦巻いていた。
そんな美登里を残して、巨人像は北へ――マウナ・ケア山頂へ向かって、移動をはじめた。
美登里は我に返ると、巨人像のいた噴石丘まで走って、アオを探した。平たく隠れる場所はなかったが、アオの姿は見当たらなかった。
もしかして、火山岩の地面の下に埋もれているのかも……。
そう思って、美登里はサッカー場ほどの広さの火口の窪みを調べてまわったが、何も見つからなかった。
次に美登里はできたばかりの巨人像の足跡を調べた。巨人像の足に踏みつけられたのならその痕跡があるはずだが(どんな痕跡かは想像したくもないが)、それすらもなかった。
そうなると、考えられるのは、巨人像と一緒にいなくなったということだ。
巨人像の頭か肩に登ろうとして巨人像の脚にしがみついていたってことはないかしら? それとも、巨人像の内部は自由の女神像のような構造になっていて、アオさんはその中にいる、とか?
アオの消失とともに不思議だったのは、巨人像が動いたということだ。
美登里は発想をさらに飛躍させた。
もしかして、あれはただの巨人像ではなく、機械仕掛けのロボットだってことはありえないかしら? アオさんはどこからか内部の操縦席に入り込んで、誤って起動スイッチを押してしまい、その結果、動き出した……。
われながら、バカバカしい、ありえない話だと美登里は思ったが、他に辻褄の合う理由を思いつかなかった。少なくとも、ゴーレムみたいな動く巨像よりは機械・ロボットの方がまだ現実味はあった。
でも、誰がそんなものを作ったの?
古代、南太平洋に文明を築いたラピタ人の名が頭に浮かんだが、さすがにそれは飛躍しすぎだと美登里は思った。どこかの企業、大学、あるいは軍の可能性が高い。
とにかく、このままここで何もしないというわけにはいかない。アオさんは巨人像の内部に閉じ込められ、外に出られずに困っているかもしれない。だとしたら、助けてあげないと!
美登里はモバイルを取り出すと、父親に電話を入れた。「もしもし、パパ。お願いがあるんだけど――」
X
「さっきの地震はヒヤっとしたぜ」と言ったのはハリー・ゲッツ。背の低い小太りの男だ。「危うく主鏡にギアレールを落とすとこだった」
「おいおい、気をつけてくれよ」いつもはぬぼっとした顔のマーブ・ピーターシャムが眉をそばめた。「主鏡に傷でもついたら大変なことになる……」
「そんなことわかってるよ。だから落としそうになっても落とさなかった」
と言ってハリーはにやっと白い歯を見せた。
二人はマウナ・ケア天文台群で望遠鏡のメンテナンスを担当するデイクルーだった。オフィスはヒロにあリ、毎日、そこからマウナ・ケア山頂の仕事場まで出勤している。マウナ・ケア山は標高4200メートルの高地で、低音、低気圧、空気も希薄だった。そんなところで、複雑な望遠鏡の部品やレンズを傷つけないよう細心の注意を払いながら、危険な高所作業を行うには、熟練が必要だった。新星の発見や宇宙の解明につながる研究で名前を残すことのない、地味で目立たない仕事だったが、天文学の技術の発展を支える裏方として、二人はこの仕事にやりがいと誇りを持っていた。
「それにしても最近、微震が続くよなあ」とマーブが言った。
「そうだな」
「まさか休火山のこの山が活動をはじめたってことはないだろうな?」
「ないとは思うが、もしそうなったら、どうなるんだろうなあ。天文台群を続けていけるか、心配だなあ」
と話していたところに、望遠鏡技術部門の日本人技術者が切迫した様子でドーム内に駆け込んできて、二人に向かって叫んだ。「緊急事態だ! すぐ作業を中止して避難するんだ!」
「何だい、急に?」マーブが悠長に訊いた。「どうして作業を中止しなきゃならないんだ?」
「巨像だ!」
「巨像?」
「ああ、ヒト形の巨像がこっちに向かってきている!」
ハリーは最初きょとんとしたが、「わかったわかった。Candid Camera(アメリカのテレビ番組)だな? 隠しカメラはどこだ?」と言ってあたりをきょろきょろ見回した。
日本人技術者は意味が理解できず、「何を言ってる?」
「ひょっとして、あんた、変装したディナ・イーストウッドじゃないのか? どうだ、図星だろ。はっはっ」
「ふざけないでくれ!」日本人技術者は話が通じないうえに、わけのわからないギャグを言われて、もどかしさを通り越え、ふつふつと怒りがこみあげてきた。「冗談じゃなく、本当なんだ! 頼むから逃げてくれ! お願いだ!」
X
マウナ・ケア山頂には天体観測目的に集まったツアー客たちもいた。
「おいおい、すげーぞ、あれ!」
彼らはのっしのっしと近づいてくる黒い巨人像に驚きながらも、モバイルのカメラを向けて撮影をしていた。巨人像の緩慢な動作からいざとなったら逃げられるという慢心と、動く巨人像はツアー客向けの新たなアトラクションであろうという誤解からだった。
「でかいなあ。10メートルあるかな?」
「いや、それ以上だろう」
「どこが作ったのかな?」
「どこかのベンチャー企業じゃないのか?」
「だったらアマゾンだ。ほら、何年か前、ジェフ・ベゾスが何かのイベントでヒト型ロボットを操縦したことがあったろう。覚えてないか?」
「あったっけなあ。じゃあ、もしかしてあの中にベゾスが乗り込んでる?」
「かもな」
「手を振ったら振り返してくれるかな。ヘーイ、ミスター・ベゾス!」
しかし、巨人像はツアー客には見向きもせず、天文台のひとつに向かい、そこで大きく手を広げた。
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マウナ・ケア天文台群にある13の大型望遠鏡は、ヒロにある山麓施設だけでなく、世界中の大学、研究所、天文台などと高速ネットワークで結ばれていた。それが、突然の通信障害。
「どうしたんだ?」
「何があった?」
スタッフは原因究明と復旧に追われたが、通信が回復することは二度となかった。
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「ああ神様!」ハリーとマーブは破壊された天文台を見て、天を仰ぎ嘆いた。「俺たちの天文台が……何てことだ……信じられない……」
巨人像はさらに他の天文台も破壊し、いまは電波望遠鏡のパラボナアンテナを土台から引き抜いているところだった。
ハリーの絶望は憎しみに変わった。「いまいましいファッキン・ジャイアントめ! くたばりやがれ!」
ハリーは足元に落ちていた石ころを拾うと、届くはずのない遠くにいる巨人像に向かって怒りを込めて遠投した。
(つづく)
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