二章:観光とイゾラの大使③
レーニッシュ商会の建物は港のすぐ横にあった。二階の仮眠室に女性は運ばれ、すぐに医師が駆けつける。
一緒にいた二人の女性は数人の神兵とともに先に帰ったが、大使と残りの護衛――数えたらまだ六人いた――は同行してきている。そうなると狭い仮眠室に医師と付き添いの大使、手伝いを申し出たリーゼロッテ以外に六人も屈強な男は入り切らず、四人の神兵は二階の廊下に待機をしている。
険しい表情を浮かべた大男がたむろする空間に長居などしたくはない。
その想いはマックスも同じだったようで、先ほどの商人――レーニッシュ商会会長にかけあって会議室を一つ借りることができた。アナベルとヴィクトリア、ディートリヒとマックスはそこで座り、リーゼロッテの帰りを待つことになった。
「相変わらず、リーゼは真面目ですね」
テーブルに膝をつき、アナベルは関心半分呆れ半分に言う。
「お医者さんが来てくれたんですから、後はお任せして観光に戻ってもいいのに」
「さすが、アスカロノヴァの天使だな」
マックスが口にしたのはリーゼロッテの二つ名だ。アナベルは咎めるように言う。
「それ。リーゼの前で言わないでくださいね。本人嫌がってますから」
「えー! 天使なんて本人にピッタリなのに! ――まあ、でも、嫌なら言わねえよ。感じ方は人それぞれだもんなあ」
意外と素直に要求は受け入れられる。
「でも、さっきの人、運が良いといえばいいかもしれねえな。倒れたのがコッチ側で」
「コッチ?」
「エーレハイデ側で、だよ。イゾラ居留地で倒れてたら、どうなってたことやら」
地元民のマックスは何やら勝手に「よかったよかった」と言っているが、
試しにディートリヒに説明を求めて視線を送るが、彼も分からないと言わんばかりに首を振られてしまった。仕方なく、アナベルは口を開く。
「マクシミリアン尉官。説明を」
「あー!! もう、だからその名前で呼ぶなって!!」
本名を呼ばれ、マックスは全身全霊で拒否反応を示すように身もだえる。それから、「人が嫌がることするなんて案外アナベルって性格悪いなあ」と頭を搔きながら、説明をしてくれた。
「そんな難しい話じゃねえよ。単純にイゾラよりウチのが医療技術は発展してるからな。居留地の人間でも、エーレハイデへの入国を許された奴らの中には病気の際はこっちの診療所に駆け込む奴も珍しくねえぜ? 聞いた話じゃ、治療って言って祈祷する――なんてこともよくあるらしいぜ」
「随分と時代錯誤な真似をしてるんですね。イゾラという国は。一体何百年前の話ですか」
「アナベルちゃん。残念だけど、こういう話は
「……随分と遅れてるんですねえ、東方は」
今更ながら、東方の文明レベルの低さを実感する。西方の医療技術の発展に少なからず魔術が関与してきた歴史を考えれば、その遅れは当然かもしれないが――アナベルはため息がこぼしてしまう。
そうして話していると、扉がノックされる。
会議室に入ってきたのはリーゼロッテだ。彼女は音を立てないよう、ゆっくりと扉を閉める。そして、こちらを振り返ったとき、その顔は申し訳なさそうなものだった。
「ごめんなさい。私の勝手で観光を中断させてしまって――」
「さっきの御婦人は大丈夫だったのか?」
深々と頭を下げたリーゼロッテの言葉を遮るようにマックスが問う。顔をあげた彼女は少しだけ表情を和らげる。
「ええ。お医者様は疲労や睡眠不足から来るものでしょう、と。今、今後のことについて大使に説明していますわ。診療所の看護師もいるから、もう私は戻って大丈夫だと」
「それは良かった」
そう言ってディートリヒが笑う。この場には人命のために動いたリーゼロッテを責める者は誰もいない。しかし、当の本人は少し顔を赤らめ、それを隠すように両手を頬に当てた。
「本当にお恥ずかしいですわ。こういうとき、周りが見えなくなるのが私の悪いところです」
「そうですか? 私はリーゼの良いところだと思いますよ。私だったら、目の前で人が倒れても放っておきますもん」
「アナベルったら」
半分本気半分冗談で軽口をたたくと、嗜めるように名前を呼ばれる。アナベルはニヤリと笑みを浮かべる。
「リーゼと違って私は何もできませんからね。ああ。でも、さっきの人はイゾラ人でしたね。怪我をしてるんだったら、魔術で治してあげてもよかったんですけど。残念です」
王城ではまず魔力がある人間には――もちろん元帥を除いてだが――めったにお目にかかれない。
そのため、治癒魔術を自分やジークハルト以外の誰かに使うという発想がなかったが、ヴァルムハーフェンでは話が変わってくる。何かあったときに役に立つかもと思っておいていいかもしれない。
リーゼロッテはくすくすと笑う。
「きっと、小父様が興味を持たれるわね。治療するところを見せてほしいって」
「断固願い下げです。魔術は見せ物じゃないですよ」
怪我人がいて、それを治すならともかく、フェルディナントの知的好奇心を満たすためだけに魔術を使うつもりはない。
大人な軍医官は「そういうのは若者だけで楽しんできなさい」と、今回の観光に同行しなかった。そのことを心から感謝する。
こちらの話を笑顔で聞いていたマックスが口を挟む。
「じゃあ、さっきのご夫人も大丈夫そうなら、そろそろ観光の続きに戻るか」
「そうしましょう!」
アナベルは立ち上がり、椅子の背にかけていた上着を手に取る。リーゼロッテの手を引き、入口へと向かう。
「次は大聖堂でも見にいくか。ヴァルムハーフェンの商人たちも協力して二百年前ぐらいに建て直されてるんだ。結構見栄えのある建築物なんだぜ」
レーニッシュ商会を出て、マックスが指を指す街の北へ向かおうとする。――後ろから「待て」と呼び止められたのはすぐのことだった。
振り返ると、レーニッシュ商会の玄関にイゾラの神兵がいた。そして、彼の後ろから悠々とイゾラの大使が姿を現す。
彼は真っ直ぐにリーゼロッテに向かってくる。そして、ニコリと笑みを作った。
「呼び止めてすまないね。妻の命の恩人に礼もしないなんて、イゾラの流儀に反する。改めて、感謝の意を表したい。ありがとう、お嬢さん」
「命の恩人だなんて大げさですわ。医学に携わる者として当然の責務ですもの。大使のお力になれて、光栄です」
——あの女性は大使の妻だったのか。
二人の会話を聞きながら、アナベルはそんなことを思う。
しかし、違和感は拭えない。
倒れた彼女と一緒にいた他の女性の服装に差異はなかった。大使の妻と使用人のようには見えない。実際、アナベルがリーゼロッテから引きはがした女性は大使の妻のことを「アンネッタ」と呼び捨てにしていた。女性たちの関係性がよく分からない。
リーゼロッテの返しにクラウディオは感動したかのように目を見開き、声を振るわせた。
「ああ、なんと! 君は心根の優しい人だね。名前を聞いてもいいかな?」
「リーゼロッテ・K・レーヴェレンツです。どうぞ、お見知り置きを」
「美しい名だ」
そこまで上の空だったが、アナベルもその後の展開に我に返った。クラウディオはごく当たり前のようにリーゼロッテの手を取り、両手で強く握りしめたからだ。
彼は微笑む。
「リーゼロッテ。心美しい君に心を射抜かれたよ。どうか、私の妻になってはくれないか」
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