一章:港町・ヴァルムハーフェン⑤
「ここが応接間で、こっちはお客さまがお泊りするお部屋。あっちがね、お父様の書斎でーこっちが書庫なんだけど、今はお姉さまの書斎代わりね。あとはそこが食堂でこっちが厨房、その扉はお手洗いね。こっちがお風呂で――」
子供というのはなんとパワフルなことだろう。
ラーラは一つ一つの扉を説明し始め、アナベルは本当に屋敷中を連れまわされることになった。彼女は来客が出入りするような表の部屋だけでなく、彼女の家族の私室から果ては使用人の部屋まで紹介をしてくれる。
そして最後にラーラが連れてきてくれたのは屋敷の離れだった。
「こっちの離れは全部お祖父様のお部屋になってるの」
その言葉にアナベルはあることを思い出す。
「あの、お祖父様ってヴェルナーさんのことですか?」
「うん、そうよ」
彼女は笑って答える。――ヴェルナー・D・メッテルニヒ。それは南部にやってくる前読んだ『エーレハイデ全土紀行』の作者の名前だ。
異国人であるアナベルはカミラにもらったその本ではじめてその人物の存在を知ったが、どうやらエーレハイデでは有名な人らしい。アナベルの読んだような旅行記から随筆、指南書のようなものまで何十冊の本を出版し、どれも売れているそうだ。
「魔術師さんもおじいちゃんのファンなの?」
「『エーレハイデ全土紀行』を読みました」
「あれね。ラーラも好きよ。でも、残念。お祖父様はずーっとご旅行中なのよ。いつ帰ってくるかはラーラたちにも分からないの」
ジークハルトに最初ヴェルナーがメッテルニヒ家の前当主であることを聞いたとき、もしかしたら本人に会えるのではないかと期待した。
しかし、すぐにジークハルトはヴェルナーの所在が長く不明なことを聞かされ落胆した。本当にヴェルナーは長期間屋敷を不在にしているらしい。
「ヴェルナーさんはどちらにご旅行に行かれたのですか?」
「ラーラも知らないわ。お祖父様っていつもそうなの。何か月も、下手したら一年以上連絡もなくて。突然帰ってきたと思ったら、ラーラも知らないような場所のお話とそこで命がけの事件に巻き込まれたお話をしてくるのよ。いつもいつもびっくりしちゃうんだから。――でも、ラーラはお祖父様のお話大好きよ。次いつ帰ってくるか楽しみ」
そう言うと、ラーラはアナベルの手を放し、離れの扉のドアノブに手をかける。その行動にぎょっとする。
「い、いいんですか? 勝手に入って」
「いいのよ。お祖父様のお部屋は、お祖父様がいない間はラーラの遊び場だもの。珍しい物もいっぱい置いてあるのよ。見せたげる」
ラーラはいたずらっ子のような笑みを見せると、建物の中に消えていく。アナベルもそのあとを追いかけた。
廊下にはいくつもの扉が並ぶ。そのうちの一つを開け、中に入る。
「――うわあ」
その中の光景を見て、アナベルは思わず声を漏らした。
部屋に置かれているのは何かの生き物の骨、石で作られたナイフ――これは十本近く並んでいる――、古い絵画の描かれた大きな岩に民族的な装飾品。
およそ日常生活を営む中では見ることのない珍品が並んでいたのだ。
「ね、ね。すごいでしょ。お祖父様が色んな国を巡って手に入れたものなのよ」
ラーラは背を一生懸命伸ばしながら、「えっと、えっと」と棚を漁る。そして中から大きな丸めた紙を見つけ出すと、それを床に広げた。
それはどうやら地図のようだった。それもエーレハイデの地図ではない。大陸の地図だ。魔術機関には西方全土の地図があるが、大陸全体が記されたものは存在しない。
「これはね、昔西方まで世界中を旅したって人が書いた地図なのよ」
大陸の西側を見て、アナベルはすぐに気づいた。
(――この地図、間違ってます)
地図の西側はアナベルが知る西方の地図と違う。
中央部の地形はおおよそ合っているが、北部の海岸線はめちゃくちゃだし、そもそも南部が存在しない。魔術機関のある島だって大きな国ぐらいの面積がありそうだ。あの島はそんなに広くない。西方の国名も本来よりずっと少なく、国境線もおかしい。
書かれた時代が違うという説明では誤魔化せないほどの相違点だ。東方はどうか分からないが、西方は想像で書かれたものだろうことは分かった。
しかし、そんなことを知らない無垢な少女は言葉を続ける。
「世界ってとっても広いわよね。エーレハイデの、ラーラたちが住むこのあたりなんて地図にも載らないくらいちっちゃいのよ。本当は一日じゃ回れないほど広いのにね。ラーラもいつかお祖父様みたいに色んな場所を旅するのが夢なの。いつか西方にまで足を運んで、お祖父様みたいな本を出すのよ」
「それは素敵な夢ですね」
それからアナベルはラーラに求められるまま西方や魔術の話をする。エーゴンが姿を現したのはそのときだった。
「ああ、ここにいたんだね」
「お父様。ここはラーラの遊び場なんだから勝手に入ってきてはダメよ。今、魔術師さんととっても大事なお話をしているんだから」
「ラーラ。そんな悲しいことを言うのはやめておくれ」
娘に冷たい態度を取られ、エーゴンは項垂れる。
「アナベルさん。娘の相手をしてくださってありがとうございます」
「いえ。ラーラちゃんは可愛いですね」
「本当にお転婆で、お恥ずかしいかぎりです」
アナベルは苦笑をする。
幼い頃のアナベルからすればラーラは可愛いものだが、貴族であるエーゴンからすればそうではないのだろう。確かに姉と比べるとラーラはお転婆に見えるだろう。
エーゴンはそれから部屋の置物に視線を向けた。
「この部屋も父の物が置かれているので入らないようにと言っていたのですがね。知らない間に入り浸るようになってしまって……」
「お祖父様にはお許しをいただいたわ!」
「それはお前がここを遊び場にし始めた後に、だろう?」
「でも、お祖父様は笑って許してくださったわ」
ラーラはぷいと顔を背けると、また何かを探すように机のほうへ向かっていく。困り果てた顔の父親に声をかけた。
「でも、本当に珍しい物が多くて驚きました。ヴェルナーさんは本当に色んなところに行かれているのですね」
「旅をするのが趣味なんです。……血なのでしょうね」
「血?」
「メッテルニヒ家の人間は興味のあることはとことん調べないと気のすまない性質なのです。知らない土地を訪れ、その土地の文化を知る。そのため、父は私が成人するや否や、当主の座と仕事を私へ譲り、それ以降は各地を巡る旅をしています」
「……それは大変でしたね」
成人ということは十八歳——今のアナベルと同い年だ。その歳で貴族の当主の座を背負わされるのは重たかっただろう。しかし、エーゴンは否定する。
「我が家ではそういったことは珍しくないのですよ。幼い頃よりそのつもりで教育が施されておりましたので覚悟もとうに決まっていました。私の専門分野も海洋関係ですので、この地に縛られることに何も不都合はございませんでしたからね」
そんな話をしていると、「あった!」とラーラが大きな声をあげた。それからアナベルのところに戻ってくると、父親から引きはがすように机まで引っ張る。それから、引き出しにあった本を押しつけてきた。
「魔術師さんにラーラの秘密貸してあげる。――ラーラが書いた探検記よ。お祖父様のお話くらい面白いんだから」
後半はエーゴンを覗いながらそっと小声で言われる。どうやら、父親には秘密らしい。
渡された本の表紙には拙いながら海と街が描かれている。本の背は糸で綴じられており、いかにも手作りというのが分かる。頁数は見たかぎり二十もない。この分量なら読むのには苦労しなさそうだ。
「ありがとうございます」
必要以外の読書が嫌いなアナベルでも、幼い少女が書いた大作を読まずに返す選択肢はない。
本の表紙が見えないように抱えると、ウルリーケがジークハルトを連れてやってきた。そうして、メッテルニヒ家での用事をすませた二人はそのまま司令部に戻ることになった。
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