三章:渓谷の村①


 ジェカの民。それがミルシュカ達を呼称する呼び名だ。


 物心つく頃には馬で各地を回り、天幕で生活をする。様々な国を渡り歩く。それがミルシュカにとって普通のことで、それが常識だと信じていた。


 ――ほとんどの人には祖国があって、故郷がある。


 そのことを知ったのは何歳の頃だっただろうか。立ち寄った村の子供たちと仲良くなり、お喋りもした。その時にその子たちが一度も村を出たことがないというのを聞いて、不思議に思ったのだ。


 天幕に戻り、母親にそのことを訊ねた。そこで母は、世界には国という大きな括りがあり、そのいずれにも属さないジェカの民が特殊であることを教えてくれたのだ。


『なんで、あたしたちにはふるさとがないの?』


 それは子供にとっては単純な疑問。ただ、親にとってはとても答えにくい質問だっただろう。母は曖昧な笑みを浮かべる。


『私たちのご先祖様が世界を見て回りたいと思ったからよ』


 分別がつく歳になった今なら、それが誤魔化しでしかないことは分かる。


 ジェカの民には既に帰るべき国がない。ずっとずっと昔に滅んでしまった。故郷を追われ、ミルシュカの祖先たちは永遠の旅を余儀なくされたのだ。


 だが、そんなことを幼い子供に伝えることが出来るはずもなかったのだと思う。

 

『ミルシュカも、色んな場所を巡るのは楽しいでしょう?』

『うん』


 それでも、幼いミルシュカにはそんな昔の出来事なんて関係ない。


 色んな場所を巡るのは楽しい。故郷と呼べる場所がなくとも、ミルシュカには一緒に旅をする家族がいた。


 だから、母の言葉に彼女は笑顔を浮かべ、大きく頷いたのだった。


 旅の中で出会う人々は様々だった。流浪の民を受け入れる者。逆に嫌悪する者。


 楽しいことと同じくらい辛いこともあった。それでも、ミルシュカの思いは変わらない。ジェカでよかったと、自分たちの生き方に誇りを持っている。だから、嫌な出来事があったら、一通り怒って、それ以降は忘れてしまうことにしている。


 ――だけど。


『ミルシュカには分からないよ』


 あの晩。涙を流して、決別した少女の姿は今も忘れられない。



 ◆



 ミルシュカは森の中を歩く。前方を進むのは小柄な少女だ。獣道でもない茂みを、彼女は苦も無く歩いていく。なんとか少女に追いつこうと頑張るが、一向に距離は縮まらない。


(やっぱり、待ってた方がよかったかも)


 駐屯地の責任者ジークハルトとその護衛の少女と別れ、ミルシュカはヴィクトリアという侍女と行動を共にすることになった。


 侍女が命じられた任務はレルヒェ村周辺の探索だ。村の近くまで到着したヴィクトリアは馬とミルシュカを残し、一人で偵察してくると申し出た。


 しかし、ミルシュカが一緒に着いていくと提案した。旅の中で、険しい山道を歩いた経験もある。同じ年頃の女の子に着いていくのは難しくないと思ったのだが、――その考えは甘かった。少女は猟師やきこり顔負けのしっかりした足取りで山道を進んでいく。


 意見を翻るのは今からでも遅くない。『ここで待っている』と伝えれば、きっと、彼女は一人で村の周辺を見てきてくれるだろう。その間、ミルシュカは休むことが出来る。


 でも、今、この間もあの軍人たちは村でエッダの行方を探してくれている。ミルシュカとは無関係の人たちが頑張ってくれている。目の前の侍女だってそうだ。それなのに、一人で何もしないわけにはいかない。


 大きく深呼吸をする。息を整えて、再びミルシュカは少女の背を追った。


 細い山道に行き当たったのはそれから少ししてのことだ。ミルシュカは瞬きをする。それから左右、道の続く先を見る。


「ここ、どこへ続く道だろ」


 方角からして右方はレルヒェ村のほうだ。しかし、左が分からない。レルヒェ村より奥に集落はない。ヴィクトリアはその場に膝をつき、注意深く地面を観察している。それを真似てか、ゾルターンも土の匂いを嗅ぐ。少女が立ち上がる。


「向こう。見てくる」


 そう言って左の方向へ歩き出した彼女にミルシュカも続く。道は途中から険しくなる。岩肌が露出した斜面を登ると、その先に洞穴があった。


 入り口には木で補強がされており、布で作られた装飾品のようなものも飾られている。今通ってきた道はこの洞穴と村を繋いでいるもので間違いはないようだった。


 二人は窟に入る。供え物と思われる花や果実の置かれた台の奥には、――大きく二つに割れた青緑色の石が置かれていた。



 ◆



 エッダに連れられ、アナベル達は村に足を踏み入れた。といっても、周囲はまだ木々ばかり。『レルヒェ村』と書かれた看板を通り過ぎたばかりだ。村に入ってすぐ、道が二手に分かれている。


「こっちよ」


 エッダが選んだのは家々が点在し、村の中心に続くであろう太い道――ではなく、細い道だ。森へと続くとしか思えない荒れ具合。その道を少女は歩き出す。ジークハルトもその後に続いたため、アナベルも大人しくそれに倣う。


 村の外に続いていそうな道を進むと、家が見えてきた。周囲には他に建物はない。小さな石造りの家が一つだけ寂しそうに建っている。


 エッダは手桶を家の前に置く。


「少し待ってて」


 彼女は扉を開け、家の中へと消えていった。扉の向こうから話し声が聞こえる。エッダの言葉どおり大人しく待っていると、家の中から一人の女性が現れた。


 年頃は二十代前半くらいだろうか。茶髪のおっとりした雰囲気の女性だ。その腹部は大きく、身重であることはすぐに分かった。


 彼女はジークハルトの姿を見て、驚いたような声をあげた。


「まあまあ、大変。早く上がってちょうだい」


 この家の人間であることは間違いないだろう女性に案内されるまま、二人は家へと足を入れる。


 入ってすぐ、最初の部屋はどうやら台所兼居間らしい。料理をするかまどや水場が右手に、左手には四人が座れるテーブルが置いてある。奥には二つ扉があり、一方の扉からエッダが顔を覗かせた。


「着替え、これでいい?」


 彼女が手に持っているのは男性用の衣服だろう。それを見て、女性は「ええ」と微笑む。


「さあ、こちらがタオルよ。どうぞ、こちらの部屋を使って。風邪をひかないうちにね」


 エッダから着替えを、女性からタオルを受け取ったジークハルトはそのまま奥の部屋へと姿を消した。残ったのは女性陣だけだ。


「どうぞ、おかけになって。今、お茶を淹れるわ」

「私がやるわ」


 女性を制止し、代わりにエッダがお茶の用意を始める。アナベルは勧められるがまま、椅子に腰かける。 


「はじめまして。私はマーヤよ」

「えっと、アナベルと申します」


 マーヤと名乗った女性は人懐っこく、こちらの身の上を訊ねてきた。彼女にとってはただの世間話だろうが、アナベルにとっては作り話を交えなければならない。先ほど考えた設定をマーヤに話す。


「まだお若いのに巡礼の旅に出るなんて立派ね。すごいわ」

「あ、あはははは。そんな、大したことないです」


 引きつった笑みを浮かべながら、アナベルはチラリと奥の扉を見る。ジークハルトはまだ戻ってこない。


(あまり長時間一人きりにされるとボロが出るんですけど!!)


 両親の話は適当にでっち上げられるし、王都の話ならいくらでもできるが、宗教の話は一切出来ない。エーレハイデの信仰についての知識は一般人以下だ。


「どうぞ」


 エッダがお茶を目の前に置いてくれる。


「ありがとうございます」


 有り難くカップに手を伸ばす。それに口をつけ、なんとか間を誤魔化していると、ようやく奥の部屋からジークハルトが姿を現した。


「サイズがちょっと大きかったみたいね。ごめんなさい。うちには男性用の衣服が主人のものしかなくて」

「いや、貸してもらえるだけで十分助かる。本当にありがとう」


 彼はマーヤに深々と頭を下げると、改めて自己紹介を交わす。それから、椅子に座り、お茶に手をつける。


「お二人はどちらへ向かっていたの?」

「ハーゼへ行くつもりだった」

「ああ、あそこには巡礼教会があるものね。私も前に行ったことがあるけれど、とても素敵な場所だったわ」


 二人は巡礼の話をし始める。アナベルにはハーゼという地名に心当たりがない。彼が戻ってきて本当に良かった。内心、アナベルは安堵する。


「でも、こちらは別方向よ。街道に戻ってもう少し南下しないと……」

「ああ、道を間違えてしまったようだ。知っているのであれば、道順を教えてもらえないだろうか?」

「ええ。でも、この村に地図はないと思うの」


 マーヤは困ったように頬に手をあてる。それから縋るようにエッダを見た。


「村長のご自宅にあったりするのかしら?」

「ないと思うわ。書斎を探せば見つかるかもしれないけど、そんなことしたら怒られる」

「そうよねぇ」


 その答えを聞いて、マーヤはこちらを振り返る。


「口で説明することになるけれど、大丈夫かしら?」

「ああ。十分だ」


 ハーゼまでの道順を説明し始めたとき、一度奥の部屋に戻ったエッダが姿を現した。その手にはずぶ濡れの布が握られている。そのまま、彼女は玄関から外に出ていく。


 少し考えてから、カップを置いて立ち上がる。


「ちょっと、外に行ってます」


 二人の返事を待たず、アナベルは玄関を飛び出した。

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